Jean Vigo

Twitter:mnkm22790994

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最近の記事

存在の唐突な出現ー山田尚子についてのメモー

 アニメの良さを魂が宿る瞬間を見れることと述べる山田尚子の演出は、キャラクターに魂や命を与えているというよりかは実在感というか存在感を与えているように見える。特に『リズと青い鳥』はそれに専念した作品である。少女たちの振る舞う仕草や癖のようなもの、息遣いや瞬きを詳細にそして繊細に作画によって記述していきその積み重ねによって存在感を生んでいく。作画の積み重ねだけでなく、望遠あるいは手持ち風にレンズ処理される撮影効果、そして音響の効果も加味し、少女たちの存在感は強調されていく。もち

    • 冬の日

       12月が中旬に差し掛かり一段と冷える季節になっていく。外に出ると肌を刺すような冷たい風が吹きまるで世界から攻撃を受けているような感覚に陥る。その寒さの痛みを感じると不意に兵庫県の西宮市の(それもある特定の地域の)町並みがぼんやりと頭の中に浮かび上がり郷愁の念に駆られることが時々ある。いつからそんな奇妙な郷愁を感じ始めたのかは明確な日付で言える。ちなみに私は東京生まれの東京育ちであり、都外へ旅行するのは一回か二回しか経験しておらずしかもそれらはいずれも関東圏の内側に留まってお

      • 『アルプスの少女ハイジ』 その撮影効果

         主人公であるハイジがアルムの山の斜面を疾走するさまに思わず感動してしまうのはそれが彼女のその快活な性格から来るものではないということをひとまずここでは言い切ってしまおう。彼女の細かい心的描写やスイスのアルプスの土地を美しく描いた背景美術がその感動を齎す原因であることもまたここではとりあえず捨象してしまおう。不意に感動してしまうのは、彼女の疾走あるいは歩行をFollowによって常にスタンダードフレームに収め、それ故に決してカメラを追い越すことはないハイジの運動が視聴者の視線を

        • 映画監督オススメリスト―欧州映画版

           映画はフランスから生まれた。1895年にリュミエール兄弟がシネマトグラフ(映像を撮影できるカメラとスクリーンに映し出す映写機を兼ね備えた機械のこと)を開発したのが始まりである。一方、ほぼ同じ時期にアメリカでトーマス・エジソンも撮影機械(キネトグラフ)と映写機(キネトスコープ)を開発した。しかしエジソンの場合、撮影した映像はスコープの穴をのぞき込む形で見るのに対し、リュミエール兄弟が開発したシネマトグラフは撮影した映像をスクリーンにそのまま映し出すという現在の映画とほぼ同じ映

        存在の唐突な出現ー山田尚子についてのメモー

          映画監督オススメリスト―日本映画版

           ひととおり下記にオススメの映画監督37名をリスト化したが、独断と偏見で決めたものも多い。ゆえに、一般的に有名な映画監督(例えば新藤兼人や木下恵介や市川崑など)は上げていない。これまで数えきれないほどの日本の映画監督が存在してきたし、現在もいる。あれもこれも見た方がいいと思ったら100人以上もリストアップしなければならないが、ここではごく少数に留めた。重要なのは、ここに挙げられている映画監督だけを過剰評価せずにこれはごく一部に過ぎないと認識すること。リストにないからといって例

          映画監督オススメリスト―日本映画版

          快楽に身をゆだねて 山田尚子『彼が奏でるふたりの調べ』

           下記の文章は3月に開催した山田尚子監督作『彼が奏でるふたりの調べ』の鑑賞会に参加していただいた方たちに配布したものである。  アニメーションを見るということは仮現運動によって齎されるその錯覚に身をゆだねるということである。身をゆだねなければアニメーションは遠く離れていく。しかし人類はその錯覚を知覚の誤作動とし、嘘の運動であると断罪し憚らない。または作品を時代や社会の表象として見たがる。現実の持続する時間が真でありその真なる運動が唯一無二であるならば、錯覚による快楽は単なる

          快楽に身をゆだねて 山田尚子『彼が奏でるふたりの調べ』

          溝口健二、立つことと横たわること

          以下は、十年前くらいに書いた溝口健二に関する雑記。  立つこと。立ち続けること。溝口的登場人物たちにとって、それはとてつもなく困難である。例えば『雪夫人絵図』の木暮実千代が、足元がおぼつかずふらふらと芦ノ湖畔のホテルへ向かう姿を見ればそれは頷けるはずだ。彼女はその足取りのまま、テラスに座る。すると、カメラは雪夫人から、彼女に水を持って来ようとするそのホテルのボーイを追いかけ、右へパンする。そしてボーイが水を持ってきて、カメラも彼を追いかけるために左へまたパンする。しかし、カ

          溝口健二、立つことと横たわること

          2022年テレビアニメで印象に残ったカット3選

          ・『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』4話 ・『彼が奏でるふたりの調べ』 ・『明日ちゃんのセーラー服』1話 『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』4話  →転倒する直前に唐突に挿入されたこのカットの連鎖にサスペンスが漲っていた。 『彼が奏でるふたりの調べ』  →倒れた際お腹が風船のようにぷくりと膨らむ。この作画的快楽。この軟らかさ。全編を通して彼女は骨格を感じさせない動きをしている。彼女は間違いなく人間の皮を

          2022年テレビアニメで印象に残ったカット3選

          アニメにおける風景について

           アニメの画面を「風景」という一語のみで語るということの暴力性について人は多少なりとも認識すべきである(また、風景をひとつの比喩の表現として解読するということの退屈さも多少なりとも認識すべきである)。蓮實重彥の『表層批評宣言』を引用するまでもなく、常に思考が先行し、現実の瞳の知覚=視線は後退せざるを得ないからだ。風景を語る連中は思考の風景を語っているに過ぎず、視線によって知覚される実際の風景については何一つ語ってはいない。そこには視線の抑圧が働いているのは明らかだ。そもそも風

          アニメにおける風景について

          『傷物語』三部作について

           尾石達也ほど責任放棄している演出家はいない。画面に認められる諸要素を、ある一つの意味や意図に収束させることは不可能に近い。諸要素は諸要素として画面を調和せずそれぞれ独立して自身の存在を主張し続け、諸要素のその素材そのものの生々しさを生々しいままにあたりに拡散し続けている。諸要素を画面に並べ立てたはいいものの彼はそれを組織化させず無秩序状態のまま観客に提示するからだ。そうした姿勢を徹底して作られたのが『傷物語』であり、以降尾石達也はその無責任さ故に映画はおろかテレビアニメの監

          『傷物語』三部作について

          山田尚子監督『彼が奏でるふたりの調べ』

           体育館の演台の上で仰向けにごろりと寝そべり、そのまま体は横向きに転がって、彼女は視線の彼方にあるピアノのほうを見る。真横から捉えたこのカットの主人公のたまみの動き(=アニメーション)が素晴らしい。寝ころんだ瞬間彼女が着ていた上着のジャージのお腹が風船のようにぷくりと膨らむのである。この膨らみが感動的なのだ。2コマと3コマを巧みに使い分けたこのアニメーションの完成度の高さは絶対的に素晴らしい。  ぷくりと膨らむお腹だけではない。他のカットにも同様にまるで軟体動物のように軟らか

          山田尚子監督『彼が奏でるふたりの調べ』

          雑記(アニメ演出家の職業倫理について)

           ・ある対象をセルにするかBOOKにするかそれともCGにするか、そしてそのどちらかを選択した場合、画面がどのような見た目になるのか、あるいは作品においてどのような効果を生むのか。  演出家には、集団作業が基本のアニメ制作においてある一つの物体をアニメーターが描くのか背景が描くのかそれともCGでモデリングして配置するのかというそのような役割分担の判断に作品の意味はもちろん制作現場的な意味においても合理性が求められる。  その合理的判断が求められる典型的な一例として、学園ものアニ

          雑記(アニメ演出家の職業倫理について)

          思うこと。

           先日、京都アニメーションのメインスタジオが放火によって全焼した。スタジオへの放火。日本アニメ史において放火という形でスタジオが壊滅した事例は初めてではないか。  スタジオの壊滅。生産拠点の消滅。倒産によるスタジオの消滅は幾らでも起きていたし、あるいはロックアウトによってスタジオが閉鎖した例もある。しかし無関係者による放火という暴力でスタジオが壊滅した例を僕は知らない。  スタジオが無くなるということ。制作現場が無くなるということ。働くことができないということ。そこで働い

          思うこと。

          アニメの作り手たちの自意識

          1961年に承認された東映動画労働組合が掲げたスローガンは「良い作品を作ろう」であった。当時からこのスローガンに対して疑義が呈されていた。初代委員長の長沢詢の「良い作品って誰にとっての?」との疑問は象徴的である。 集団作業が基本のアニメ制作の現場において、このようなスローガンはむしろマイナスに響く。「それを突き詰めていくと個人的な問題になる」からだ。 久美薫などはその抽象性が実際の劣悪な労働環境を隠蔽するものだと批判している。しかし一方で、木村智哉は「商業アニメーション制

          アニメの作り手たちの自意識

          クリストファー・ノーランの作品に見られる違和感

          まずある二本の映画のワンシーンを見てほしい。 一本目はアメコミ映画の中でも最も優れた作品と称賛されたクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』のこのシーン。検察官のハーヴィー・デントを乗せた警察車両を、凶悪犯罪者ジョーカーが強襲する内容となっている。 続けて、その後逮捕されたジョーカーがバットマンと取調室で対話をするシーンも見てもらいたい。 ここで取り上げたいのは、これらのシーンで見られる編集のつなぎの齟齬である。 まず一つ目のシーン。ジョーカー一味が大型トラックの

          クリストファー・ノーランの作品に見られる違和感

          黒坂圭太『陽気な風景たち』感想

            絵の変容。見る者の認識を崩壊させるデザインの変容。意図的であれ、反意図的であれ、そのような認識論的不安(細田守の『おおかみこどもの雨と雪』を見よ)を抱いたとき人はどのように振舞うべきか。事物の変容もしくは分化は、見る者の分節の機能不全を引き起こしさえする装置として機能する。それをリデザインと呼ぼうが、原形質性と呼ぼうが、作画崩壊と呼ぼうが、ここで言う変容はそのまま時間に翻訳できる。ドローイングアニメーションだけに限らず、作画アニメーション全般に起こるかもしれない可能態とし

          黒坂圭太『陽気な風景たち』感想