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【詩】あなたのきれいなまんまるのなかで―聾のるりる/草野心平③

聾のるりる/草野心平
あたくしはさいぜんから月を見てをります。もうどの位みてゐていたのか。すこし位置がちがったやうにも思はれますがよくは分かりません。あたくしのわきですかんぽも黙ってをります。ひるまとかん違ひしてゐるのでせうか。ああまた水すましがきました。月のおもてにローマ字を描いてをります。さうしてまたくらい水の方へ消えてゆきました。
あたくしは想い出します。くらびすとかいふカンタセリアの坊(せんせい)さんが話されたことでしたが。大昔。月はひどい疱瘡(ほうそう)を患ったさうですが。御自分でそれを治されたのださうで御座います。けれどもそれからは冷たくでこぼこになり僅かに天を支配する大きな精神であんなに光ってゐるのだといふことでした。
すかんぽさん。夢みることはいけないでせうか。眠ってみる夢ではなく眼をあいて見る夢です。あたくしたちの幸福を夢みることはいけないでせうか。あたくしがこの耳で雨の音などを聞くことが出来ました頃。お母さんはあたしたちの先祖のお話をしてくだすったことがあります。それはまだこの世に雪のないずっと遠くのことなんですけれど。あたくしはそのお話を半分ほどもきかないうちにもう泪(なみだ)がでてなりませんでした。でも御覧。こんなにあたしたちは立派なのです。楽しく歌ひ。自然は泪も出しきれないほど美しく。ねえほら。みんな泳いだり浮んだり。さ。ね。お前も歌ふんだよ。るるっていって御覧。さうさう。もう少しづつけてるるるっていって御覧。そんな風にしてあたくしは歌をおぼえました。すかんぽさん。ずゐぶんおしゃべりをしました。御免なさい。でもあたくしの憶えた最初の歌をきいて下さるでせうか。
 
ひるまの風は。
どこいった。
どこいった。
みんな木の中。
ねてゐます。
うごく光は。
ほたるさん。
動かないのは。
おほしさん。
 
あたくしはたいへんこの歌が好きでしたが。ガビラといふあたくしのきゃうだいの男のこはつまらないといっていつも火事のやうな歌をうたってゐました。ほうれ見ろやい星が流れていらあ。ある夜ガビラに言はれるままに空を見ますと。空はただまっ青でした。かつぐもん……とあたくしが言ひかけましたとき。あたくしは叫んでしまひました。その時のおどろきはいまもなほ憶えてをります。それから分かったことですが。星がたくさん降る夜はいつもより空気が青く深いことです。ガビラがみんなを説きまはり動かないのは……を。天からすべる。おほしさん。になほすことになりましたのもその時からで御座いました。そのガビラもいまはもう好きな稲妻も見ることはありません。去年の七月のまぶしい雨上がりヤマカガシに喰はれて死んでしまひました。
すかんぽさん。ずゐぶんしづかな夜ですね。あなたはなにを考えてゐられるのでせう。あなたのいい匂ひのなかで遠い記憶の音楽がたのしいさざなみのやうにあたくしのどこかでしてをります。生きてゐますことはこんなに切なくうれしいものですのに。あたくしの丈夫なきゃうだいたちのいくにんかはもうこの世界にはをりません。みんな無残な死にかたでした。でもあたくしのお母さんは喧嘩や自殺で死ぬのではなく殺されて死ぬのは立派なことだと教へてくださいました。
水すましはもう眠ってしまったのかしら。あなたのきれいなまんまるのなかに浮かんだまま朝のばら色の天をまちたいのですけれど。お月さま。あたくしはここにをります。大きな恋愛のやうな気持で御座います。

……

耳が聴こえなくなった蛙・るりるが、大きな月を、大きな恋のような気持ちで、ずっと、ずっと、ずっと、見上げて過ごす夏の夜。

音も、お母さんも、兄弟も。なすすべもなく失って、しかし、彼女の記憶の奥深くから、いつまでもかすかに響いてくる蛙の歌。

すかんぽの花の香りに包まれ、月を見上げてばら色の暁を待つ小さな蛙の寂しさと満たされた心。

お月さま。あたくしはここにをります。大きな恋愛のやうな気持で御座います。

なんで男の人にこんな詩が書けてしまうんだろう?
はかなくて、色っぽくて、せつなくて、やさしくて…
これもまた、たまらない詩だ。

言葉の細部まで、本当に丁寧にイメージされて選ばれていて、非凡なフレーズがばんばん出てくる。
ばら色の暁も、水澄ましの軌跡も、星が流れる晩は空が一段と深くなるというのも、優しい優しいお母さんの歌の教えも、るりるを包む柔らかい月光も、全部自分が体験できるように感じる。
それは、草野心平が深く深く実感した美しさを捉えてくれているから。 ゴッホやセザンヌの絵を見て、自分が世界を見るまなざしが深くなるのと同じ。 私もこんなふうに書いてみたい。 だから辛いことも悲しいことも、じっくりじっくり味わいつくそうっていま思ってて、ぶっ倒れそう。

(過去日記)

#詩 #草野心平 #蛙

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