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座標を見極めて企画を立てる

私には、自分が「クソヤロー」であるという自覚がある。昨日は、移転前のオフィスでゴ◯ブリを叩き潰したら社内で嫌われた、という話をしたところ「それは…仕方ないね…スプレー使いなよ」と、当時を知らない男性社員2名にもわざわざ嫌われた。

それは冗談としても、たくさんの人を傷つけたり、嫌な思いをさせてきたという自覚がある。

一方で、「私ならそれを難なく克服するだろう」と根拠なく信じきるくらいの自己肯定感はみなぎっているので、安心してほしい。

「編集者」と私との差はどこにあるか

いま、コルクラボ編集専科に通っている。初めての課題へのフィードバックが今朝届き、優秀な企画に選ばれた3つの企画書を見た。

すごく衝撃だった。ぜんぶ、面白い。

一瞬でも「選ばれちゃったらどうしよう」なんて妄想した自分が恥ずかしいくらいに面白かった。

そして、メールに書かれていた佐渡島さんのお言葉が響いた。

「面白くない」という風に周囲の人に言ってもらえるのは、
自分の伝え方の未熟さ、企画の甘さに気がつくチャンスです。

そう。私の企画は面白くなかった。

その理由の解像度を上げていったら、図らずも自分の「クソさ」にも通じる課題が見えてきた。

メールに書かれていた通り、「コンテクスト」についての考えが甘かったし、客観性がなくて王道でもマイノリティでもなかった。(今回の課題は、マイノリティを扱う王道の企画を立てよ、だった)

そしてそれ以上に問題なのは、自分の「視座」に無自覚であったことだ。前回の講義ではスピカワークスの鈴木さんが「座標」と説明してくれたけど、ここが自覚できていないと何でも自分本位に考えてしまい、客観性に欠けるものになってしまう。

視座については、深津さんの説明が分かりやすい。

「視野」とは、視界の広さ。
「視座」とは、どの座標からモノを見ているか。
「視点」とは、どのポイントに対して注視しているか。

広告の企画はできるし、ウェブコンテンツの企画はできるけど、漫画や映画などの「作品の企画」となると勝手が違うのはなぜか。

答えの1つは、「違う」と決めてかかっていたことだった。仕事で企画を立てる時は、クライアントの目的と立ち位置、やるべきことを客観的データをもとに分析して、かつ、インターネットユーザーのニーズを考えた上で企画を立てる。

作品の企画とて、何も感性と感覚で作るわけでなく、ここが超大事だった。

「周りが分かってくれない」じゃなくて、私が近づくんだ。

視座、ないし座標ということを自覚できていないと、偏見にまみれた「自分視点」でしか物事を見れなくなる。

そこに閉じこもったまま「誰かに理解してほしい」というのは、自分は一歩も動かずに美味しい料理を持ってきて、私に食べさせろ、と言ってるようなもの。

そして、理解してもらうための働きかけをさぼりがちだったことにも気づいた。「私の考えはどうせ偏ってるから、誰も分かってくれないだろう」という諦め…にかこつけた、怠惰だった。

ちゃんと、伝える努力をするんだ。人それぞれ違う価値観で生きているのだからもちろんわかり合うのは困難だけど、上から目線で「教える」のではなく、初めから諦めるのでもなく、「近づく」努力が足りてないと気づかされた。

気づき、学び、大好物!

てな訳で、企画書を直そう。

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