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非常ボタン

駅の便所で立ちながら用を足していたその時、突如として『クラリ』と視界が揺れる。何事かと思う間もなく鼓膜に響くかのように鼓動が鳴り響き、用を足していた便器に手をつく。
なされるがまま噴出される吐瀉物。視界には赤いものも映りながら未だに起こったことの意味理解に努めていると、あるものがくっきりと目に入った。


非常ボタン


果たして、これは"非常"だろうか。────無論、自明である。普段から目にする日常である。最前線に居る人間として。

はたまたごくありふれた日常の光景なのではなかろうか。────いや、目にするのは稀ではある。一般市民として。

私は、だからこそ手を伸ばせないのだ。

私は仕事を通してあらゆる人々を病院に送ってきた。そうすれば、最後の責任は負わなくて済むからだった。
私は一方で、病的な原因で困窮しつつある人をあらゆる手段を用いて助けてきた。そうすれば私が生きる意味を見出せるからだった。


ただ、いざこうして自身の音を聴いてみれば、割とどうでも良かった。
外から見た私であれば、確かに非常であろう。倒れ様に嘔吐を重ねれば窒息死も有り得る。俯瞰的視座すらなくとも充分に非常と言えた。


「二日酔いですねー」

呆気ないほどの一言と共に私は病院から放り出される。私は腐っても医療従事者だ。莫迦にしないでいただきたい。

ずっと待っていても出てこない駅のトイレから引っ張り出された人間としては張り合いもないのだが。

私は非常ボタンをちらと見遣る。

それは今日も、非常事態を日常に捩じ込むものであった。

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