ナンパされたおばあさまとランチに行ったよ

↑ナンパの経緯はこちらをお読みください〜!

4月24日、決戦の日であります。
11時に伊勢丹のレストラン街で。そうお電話があったのでそこへ行きました。
結論から言います、

そんなにおもしろいものはなかった!

宗教の勧誘でもなかったし、殺されもしなかった、おばあさまのお話を聞いて、美味しいランチを食べただけ。
なんだ〜、残念!
おもしろくねえ〜〜〜!!!!!
殺されそうになったときのシュミレーション?シミュレーション?めちゃくちゃしたのになあ〜。
おばあさまだから力では勝てるので、なにかされたらすばやくやり返そう、とか。もしものときのために頸動脈を確認しておこう、とか。
なんかいろいろね、考えたんですよ。
ぜんぶ無駄でしたけど。
ただお話の節々に香ってくる「このひとは自分と考え方がちがうな」というのはありました。
ひとつの収穫。

なんか、おばあさん扱いされたくないらしいです。心が若いままだから、おばあさんとして話しかけられるとイヤなんですって。ふ〜〜ん。
ここでめちゃくちゃ「おばあさま」って言ってごめんなさい。
たしかにお聞きしたお歳の割に若いけど、わたしたちからしたら変わらずおばあちゃんなんだけどなあ、と思いました。
ひとりの人間として、地続きで生きているからおばあさんとして生きていないんですって。ふ〜〜〜ん。
話しているときたしかに自分を「こんなおばさん」と言っていました。そういうことか、ふ〜〜〜〜〜ん。

そりゃあまあ、わたしだって「21歳」として生きているわけではないですけど、21歳相応の対応されても文句ないですよ。小学生と同じ対応されても文句ないけど。
21歳には77歳の方のきもちはわかるわけないんでしょう。
ただ、わたしは甘やかされるのがとっても好きなのでおばあちゃんになって電車で席を譲られたらうれしいとおもいます。
べつにおばあちゃん扱いしてるわけじゃねえしな、席譲るのも。
こういうひとに席を譲ったら怒られるんだな、とわたしはまた席を譲れない理由を手に入れたのでした。

わたしを「どうしてそんなにキレイなの」と言ったおばあさまは、話しているうちにわたしの両親が素敵だからと結論づけました。
「両親がしっかりなさっているから、すてきなこどもになるのね」
ウケる。そうかな〜〜?まあそういうことならそれでいいんですけど。
おばあさまはそれから、ご自身の想像で作り出されたわたしの両親を褒めて褒めて褒めまくりました。今度実家に帰ったらママに褒められてたよって言おう〜と呑気に聞いていたら、両親にはどんな育て方をされたの?と言われました。

え〜〜〜知らね〜〜〜〜……

こどもが客観的に自分の育てられ方を知っていると思っているのかこの人は、と思いながら「好きなことは続けなさいって言われました」と答えました。
嘘ではありません。現に我が家は三兄弟ですが兄は陸上競技、わたしは小説、弟は生物系の勉強を続け、3人ともそれに関する大学まで行っています。
自分の好きなことをやれ、とだけの放任主義でわたしたちは何かを強制されたことはないのです。習い事を提案されたことはありましたが、やりたくないと言ったのでひとつも経験せず大人になりました。
いま思えば、「やりたくない」が通ってきた家庭なのかもしれません。そりゃもちろん、宿題ややらなければいけないことをサボっていると怒られましたが、それぞれが苦手なことを無理にさせようとはしていなかったように思います。
中学校で初めて30点を取ったときも勉強を強いられることはありませんでしたし、勉強の代わりに小説を書いていても咎められることはありませんでした。それどころか試験勉強をしている子供にするように、小説(もどき)を書いているわたしに夜食をつくってくれたこともあります。

え〜〜〜いい親なのかも〜!
おばあさまの話を聞きながら、広島にいる両親の顔を思い浮かべました。両親はしょっちゅう喧嘩をしてはいつのまにか仲良くなっていたりする、不思議なふたりです。
わたしたちきょうだいは彼らの仲を取り持つための重要な仲介人です。2人の顔色を見て、弟は父、わたしは母の機嫌をとります。こどもがだいすきなふたりはそれでなんとか機嫌が良くなるのです。

近くで見ているととても面倒臭い両親です。
だけど、こうして客観的に見るとめちゃめちゃいい両親なのかもしれません。
客観的に見ることなんてなかなかないのでいい機会だったな〜と思います。

おばあさまはそのあと「自分は愛と正義を大切にする生き方をしたい」と言いました。「正しく生きていたい」と。
愛と正義って……アンパンマンかよ〜!!

正しさなんてひとそれぞれちがうでしょうし、なんとなくですがおばあさまとわたしの正義はちがうような気がします。
わたしにとってお年寄りに席を譲るのは愛と正義ですが、おばあさまにとってはイヤなこと。
わたしは席を譲る側の正義を考えることのできないひとにとっての正義がどんなものなんだろうと気になりました。
おばあさまは言います。

「いまの時代、簡単に親が子を殺したり子が親を殺したり、戦争があったり宗教同士で争ったりするでしょ。そういうのをね、すこしずつ無くしていきたいのよね」

で、デカ…………
デカい正義だな〜、と喉元がひくりと震えました。あぶない、わたしに理性がなければ言葉に出していたでしょう。よかったよかった。
たしかに大事です。そういう悲しいことをなくせたらいいとも思います。だけど、そのためにたったひとりが何をできるのでしょう。
警察官でも、政治家でもない、ただのちっぽけな人間が、どうそこへ向かっていくのでしょう。
21年しか生きていないわたしにはわかりませんでした。
わたしは、目の前のひとが幸せだったらそれでいい。
わたしが幸せだったらそれでいい。
わたしの周りのひとが幸せならそれでいい。
これが、わたしの正義なわけです。そんな……世界規模で見てたら身体持たないですよ。

なんて、その場で言えたらよかったんですけど。
わたしはいま目の前にいるおばあさまにも幸せになっていただきたいのでおばあさまの意見に賛同しました。
これがわたしの正義なのです。
みんなを守ろうとするアンパンマンではなく、ドキンちゃんを大切にするバイキンマンがわたしの正義なのです。

なんの話だったでしょうか。
バイキンマンがアンパンマンとお話しして両親の良さを知った話?

まあ、たまには50以上歳の離れた方とお話しするのもおもしろいなあと思いました。
きっとまた誘われるでしょう。もしかすると油断させておいてわたしを沈める気なのかもしれません。
また会うときは、やっぱりシュミレーションを忘れず覚悟を決めて会おうと思います。

愛と正義。
正義はまさよしとも読みますね。アイとマサヨシ。フォーエバーラブでいきましょう。
そっちのほうが重くなくて良い。
アイとマサヨシ、フォーエバーラブ!

(2024.4.24)

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