なんとなく居心地のわるい帰り道

私は、幼い時分から、楽しかったところから帰ることがとてもとても苦手だった。

鮮明に憶えているのは、夏に軽井沢に五日間ほど家族で遊びに行った時のことである。

帰りの車の中、東京へ近づくにつれてぐわ~んと熱せられる感覚。涼しい軽井沢との温度差で、よく気持ち悪くなったりした。(そもそも車酔いしやすい子どもではあったが。)

でも、気持ち悪くなったのはそのせいだけじゃない。

とても感傷的になっているのだ。

ああ、一週間前あんなにも心待ちにしていた軽井沢。

何しようかな~とうきうきしながら考えていたあの軽井沢が、もう終わってしまうのか。もう、おうちに帰っちゃうのか。

こんなにも帰るのが辛いなら、いっそ行かなきゃよかったと思ってしまうほどだった。

それと、感傷的になっている自分、「切ない」と子ども心に感じていることを、父や母に気づかれるのがなんとなくいやだった。だから、(子どものくせに)子どもぶったことを言ったりして、気持ちを隠したりしていた。それが気持ち悪かったんだと思う。

でも、隠していたくせに、家に着いて夜になると、途端に泣き出したりもした。自分でもわけが分からなかったが、溢れてしまうものを止めることなどできなかった。

突然泣き出す娘に、母も驚きながら どうしたの、と聞く。

私はひっくひっくと息を乱しながら、「もっと、軽井沢で、遊びたかった」というようなことを言った。多分、これでは私の気持ちをそっくりそのまま言い切れてはいないのだが、これしか言葉が出てこなかった。母は少し笑いながら、「そうか~ 来年もまた行こうね」と言ってくれた。

またこの気恥ずかしくなるような、照れくさくなるような母の優しさが、幼い私の涙腺をさらに緩ませ、ひっくひっくと泣くのである。


最近、ある人が、子どもって実は大人みたいなことを思っているよね、と言った。大人が「子どもには分かるまい」と思っていることも、大人が「子どもは子どもらしくていいね」と思っていることも、子どもは分かっている。(たぶん。)

子どもだって、切なさや侘しさとか、誰かの優しさに妙に恥ずかしくなって苦しくなってしまう感じとか、そういう気持ちを抱くんだ。


そういえば、中学一年生の時、国語の授業で井上靖の『しろばんば』をやって、最後のページで「侘しい、侘しい」という言葉が出てきた時、ああ、これだ。と思ったことを憶えている。

自分の感情や感覚を言い得てくれる言葉に出会えた時の喜びを、安堵を、私はこのとき初めて味わったのかもしれない。


こうして自分の気持ちに名前をつけることができると、ああ、こういう気持ちでいる人が、私以外にもいるんだなと、なんだか味方が増えたように心強くなる。

だから、私は年を重ねることが楽しみだし、車の中で気持ち悪くなっていた幼い自分にも、いつかすとんと腑に落ちる時がくるから安心しなさいな、と言ってやりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?