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【覚書】年賀状について

父の3回忌を終えた。
3回忌というのは父が死んで2年経ったということ。
で、去年のお正月というのは喪中だったわけである。
そう、喪中だったので年賀状は出すことができない。
だから喪中ハガキを出し、年賀状は大まかに来ない方向だったわけで…

さて、今年は2年ぶりの年賀状である。
昨今、年賀状の辞退?のご連絡をいただくことはよくあること。
郵便離れもあるし、LINEでサクッと連絡を取り合うこともできる。
郵便料金も値上がりの一途をたどり、
確かに年賀状の葉書代、印刷代を考えると例年お財布事情が
痛いなあとも感じる。
昨年までに住所不明で返ってきたりした人なんかを
除外していき、
年々年賀状を出す数も減っている。

すると、元日に届いた年賀状の数を見て、なんだか少し寂しくなってしまった。
幼い頃の記憶もふと蘇る。
元日に自分宛の年賀状が届くのが楽しみで、
自分の手では収まりきらない量の年賀状の束を抱えて、
こたつ机の上に並べ、
父宛のもの、母宛のもの、一番上のお兄ちゃん宛のもの、
2番目のお兄ちゃん宛のもの、私宛てのもの…と
誰に頼まれてもいないのに、仕分けていき、
自分宛てに届いた年賀状の一つ一つのメッセージを読むことが
楽しかった。
小学生の頃、年賀状を出し始めた頃なんぞは、
毎日毎日学校で会っている友達から届いたに過ぎなくて、
メッセージにも特別意味なんてものはないのに、
自分宛てに届いた年賀状を大切に自室に持って行っていたことが懐かしい。

あの頃の年賀状の束を思い出すと、
今、届く年賀状の量のなんと寂しいことか…
年賀状代がきついなあとか、あちらが遠慮されるならこちらも遠慮しようか、とか言って自分自身も出す量が年々減っているにも関わらず!!!
なんて、勝手なのかしら、私…。

私が年賀状を出す相手の中には、
普段全く連絡を取っておらず、十数年まえに会ったきりの人も多い。
大学時代の友人や、高校時代の友人。
高校時代の友人は地元も一緒なので、
地元に帰った折に、声を掛け合って会うこともある。
が、大学時代の友人はもしかしてこのまま年賀状を出すことがなくなったら、
縁が切れてしまうのでは…なんて思う人もいる。

年賀状で、よく言われる、
年賀状の家族写真とか子どもの写真とかがきついっていう説…
若い頃は確かになあと思っていたのだけれど、
今、私は何も考えないフリして(フリじゃないか)家族写真を送り続けている。
相手が独身だろうが、独り身だろうが、家族だろうが、関係なく…。
年に一度の近況報告だもの。
自分の写真は載せていないが。
今回、年賀状を作るにあたって、家族全員の写真を載せようと一年分の
写真を見返したところ、1枚だけ家族4人揃ったものがあったのだが、
なんと!!!
私が大変太って見える!
ポイントは「太った」のではなく、「太って見える」というところだと
言いたいところだが、
現実は「太った」のである。
しかし、年に1回の近況報告で「こいつ太ったな」と思われたくない…。
私の写真は載せないことにした。
1名だけ、そのことに触れてくれた友人がいた。
ありがとう。
次の年賀状は痩せて、写りのいいものを用意しておきたい。
年に一度の近況報告、「広海ちゃん、変わらないね」と思われたい。

ところで、高校の1年先輩でAちゃん、という子がいた。
陸上部で私とは縁もゆかりもなかったはずだが、友人を通して知り合い、
そんなにがっつり仲良くしていたわけでもないのに、
卒業後、大学生の時に、同じ街に住んでいて
Aちゃんはすでに就職していたのだが、年末にたまたま出会ったかなんだかで、
一度食事をしようということになった。
その折、Aちゃん家族は、実家を出てからも
年賀状用に家族写真を撮影するために、年末に一度家族全員が集うのだと
話していた。兄弟は3人で実家を出ている人間もいるが、みんな
年末に年賀状用写真のためだけに帰省をする、と。
そして、それを使って年賀状を作っているのだ、と。
なんて素敵なんだろう、と思った。
ようし、私もそんなふうな家族になるぞ、と思ったのだが、
現実には年末のあれこれに追われて、家族写真を年賀状用に
撮影することは叶っていない。
一度だけ、撮影しようということになったことがある。
セルフで撮影しようとしたのだが、
タイミング悪く前の晩に夫が酔っ払って、こけて顔面あざだらけになっており、
なんとかその顔が映らないように、横を向いてみたり、
鬼太郎みたいに顔を隠そうとするもんだから、
「もういらんわ!」と(私が)言って諦めた。
大学生の時に一度だけ食事をしたAちゃんだが、その後地元で会うことはないのに、結婚する際にウェディングドレスの試着にいった先でAちゃんが働いており、
大変驚いたことがある。
Aちゃんはお店の責任者だったかになっていて、私にアクセサリーのレンタルをサービスしてくれた。
その後、お店を訪ねた際には、Aちゃんは別の店舗に移っており、
そのまま会えずにいる。
学年も違うので、地元で会うこともなく、
SN Sでも繋がっていない。
年賀状のやり取りもなくて、このまま会うこともないかもしれないが、
折々に再会してなんだかんだとお世話になっているなあと改めて思う。
人に親切にしてもらっているのに、私はきちんと
そのお世話してもらったことに返してきただろうか。
歳を経るごとに、自分の不義理が気になってくるのだが、
そのタイミングですぐに返さないと、タイミングを逃すと
お礼ってしにくくなるもんなんだなあと思う。
あの人、どうしているだろうか、とたまにふと思ったりする人が何人かいる。

年賀状だけでも、せめて繋がっていたなら…
年に1回だけでも、自分の消息を知らせることができたら、
いつかどこかのタイミングでまたふと出会うことがあるだろうか。
自分の不義理な性格を思うと、年賀状で繋がれる人には繋がっておいた方が
いいと思う。
とは言っても、向こうが辞退されているのに、こちらが一方的に出すのは
いかがなものか、ということにもなる。
大学時代の友人(男子)が、一人メールを送ってきた。
「出さないって言ったじゃん…」みたいな。
「おお、そうだったけな。でもこっちは出すって言わなかったっけ?」みたいな。
どうでもいいやり取りと、「今年もよろしく」みたいなことに加えて
ほんの少しの近況報告。
大学時代は仲が良かったけれど、住む環境も違うし、
もう何年も会っていない。
携帯の番号は登録しているけれど、
住所のやり取りが消えたら、いつかなくなってしまうかもしれない関係性。
40年ほど生きていると、この人生の中で
なくなってしまう関係もあるということを「知って」いる。
小学生の頃はその人間関係がいつまでも続くものだと思っていた。
けれど、高校時代に仲の良かった子も
大学時代に仲の良かった子も、就職した時にお世話になった人も、
一時期SN Sで繋がりが復活したとしても、
その後二度と会わない人が出てくる。
二度と会わなくても、自分の人生は続いていく。
人との関係性は常に変わっていく。
私の人生は変わらないし、その人の人生も変わらない。
ずっと繋がっていけることなんてない。
けれど、折に触れて、その一時期に時間を共有した人と
「二度と会わない」のだと思うと、なんだかうら寂しく感じる。
それはいっときの感傷で、思い返したところで
何かアクションを起こすことのない私。
物理的に会うことの難しい人もいるし、
「会おうよ」なんて関係性でない人もいる。
会わずにいた何年かは「そろそろ会いたいね」なんて言い合っていた人も、
そのうちそんな言葉を交わすこともなくなる。
そんな言葉がなくても
年に一度、細々と違いが年賀状をいただいたから年賀状を出すか、
なんて関係であっても、
その人の言葉や近況を知るだけで
会っていた頃のことや思い出を思い出したりする。
それもいいな、と私は思う。
こんな細々とした関係でも続けていたなら、
もしかしたら、50代60代…いや、そろそろ迎えが来る前に…なんて頃に
「集まる?」「あっとく?」なんて互いに声を掛け合う日が来るかもしれない。

だから、私は次の年も、
年賀状を出せる相手には出していこうと思う。
自ら辞退を申し出ることは、やめておこうと思っている。




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