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会えなかった人たち

 『地方史のつむぎ方』には、はじめ、私の地方史調査の経験や知識を書いていた。しかし、書き進めるうち、自分の知ることはあまりに少ないと気が付いた。たとえば、古文書を読めない私が古文書を読む方法を書けるわけがない。そこで、各地で地方史に取り組んでいる人たちにインタビューすることにした。といっても、誰に会えばいいのか。すぐに顔が思い浮かぶ旧知の人たちもいるが、できるだけ多くの分野の人に話を聞きたい。図書館や書店に行き、北海道の本コーナーに並ぶ本を眺める。「これは」という本を見つけると、目を通す。自分にないものを持つ人だと感じたら、依頼の手紙やメールを送る。その結果、取材を受けてくれたのが本に登場する人たちである。
 
 ところが、会いたくても会えなかった人たちがいた。この著者にインタビューしたい、と連絡先を調べると、亡くなられているのだ。一人や二人ではない。「まだ70代だから」「いまは80代でも元気な人もいるから」などと楽観的に考えるが、現実は厳しい。誰に会いたかったのか、その人はどんな仕事をした人だったのか、せめて、記録しておきたい。
 

1.森山軍治郎さん

 農民蜂起の首謀者として死刑判決を受けながら北海道に逃れ、逃げ切った男がいた。妻子は、死の直前に本人が正体を明かすまで、そのことをまったく知らなかった。名を井上伝蔵という。北大文学部西洋史研究室にいた森山さんは井上の軌跡を追い、その娘の学籍簿を石狩や札幌の小学校で発見する。1970年のことである。井上が亡くなったのが1918年だから52年後となる。現在なら、個人情報だと断られるに違いないが、学校も積極的に協力したことが森山さんの文章から読み取れる(『民衆精神史の群像 北の底辺から』(1974年))。西洋史の研究者としてはフランス革命時の民衆蜂起を研究し、また、美唄の炭鉱で生まれ育ち、北大に進み、伴侶を病で失ったことなど、自分史を赤裸々に書く文章も数多い。インタビューしたかったが、2016年に亡くなられていた。

2.堀淳一さん

 堀淳一さんの本職は理論物理学の研究者である。だが、それよりも地図や廃線に関わる著作で広く知られている。寿都鉄道の樽岸駅の駅舎が残されていることを、私はこの人の廃線紀行から知った(近年取り壊し)。晩年に亜璃西社から出版した『地図の中の札幌 街の歴史を読み解く』(2012年)や『北海道 地図の中の廃線 旧国鉄の廃線跡を歩く追憶の旅』(2017年)は、地形図を用いて紙上の旅に読者をいざなう。値が張るものの、ベストセラーになった。私自身は面識がなかったが、堀さんの主宰するコンターサークルには知り合いもいる。ご存命ならインタビューを頼みたかったが、2017年に亡くなられており、かなわなかった。
 なお、『地方史のつむぎ方』第19章に登場する久保ヒデキさんが「堀 淳一 メモリアル ホームページ」を作っている。
 

3.萩中美枝さん

 『聞き書 アイヌの食事』(1992年)は、アイヌ民族の古老たちにこれまでの人生で食べてきた山菜や魚介や鳥獣などを聞き書いた本である。写真も多い。アイヌ文化の記録の意味はもちろん大きいが、現在の私たちの山菜採りや料理の参考にもなる。この著者のひとりが萩中美枝さんである。なんと、あの知里真志保の妻だという。調べてみると、萩中さん自身もすぐれた研究者で、アイヌ文化に関する著作や論文が数多い。だが、知里真志保といえば、もはや歴史的人物である。その伴侶が健在だとは思えない。著者紹介にも1927年生まれとある。事実、私がインタビュー調査を着想したときには、すでに亡くなっておられた。しかし、没年は2021年だという。それなら、ごく最近ではないか。間に合わなかったのが残念だ。
 

4.村元直人さん

 食文化史の研究者にも話を聞きたかった。適任者はいた。『北海道の食 その昔、我々の先人は何を食べていたか』(2000年)の著者、村元直人さんである。私は、道南に住んでいた期間が長く、鯨汁や三平汁、ゴッコ汁などを地元の人に教えてもらった。飯寿司は作れないが、冬の楽しみにしている。売っているものも買うが、仲良くなった人から自家製をいただくこともある。こういった食文化がいかに形成されてきたのか。村元さんは道南を中心に、明治から戦前の北海道の食を聞き取って、一冊にまとめている。1932年生まれなので、健在ではなかろうか。行方を探したところ、教頭を務めておられた函館ラ・サール高校のサイトに訃報を見つけた。2017年に亡くなられていた。
 

5.片山龍峯さん

 近年頻発するクマ出没のニュースに影響され、『クマにあったらどうするか』(2002年)という本を手に取った。アイヌの猟師、姉崎等さんへの聞き書きである。地方史研究者へのインタビューとは関係なく、山菜・キノコ採りの心構えの読書のはずだったが、読み進めるうち、聞き手の片山龍峯さんの素養が気になった。アイヌ語を引きながら、問いを重ねているのだ。単語を知っている、というレベルではない。文章の意味を理解して質問している。そのために、語り手との受け答えが円滑に進んでいる。片山さんは和人で、本職はNHKのドキュメンタリーなどを作る映像作家らしい。それでいて、アイヌ語を操れるようだ。この人に会ってみたい。ネットに手がかりを求めた。アイヌ語研究者として業績を積み上げたとの紹介文(千葉大学)が見つかった。ところが、その紹介文は追悼文でもあった。2004年に亡くなられていた。私が北海道の歴史に興味を持つより前だ。これでは邂逅しようもなかった。 

6.高橋明雄さん

 高橋明雄さんは増毛高校の教員だった。増毛というと、戦後しばらくまでニシンに沸いた町である。高橋さんは、増毛や留萌のニシン漁・リンゴ・文学・民話などを調べ、多くの著作を発表された。代表作の『鰊 失われた群来の記録』(1999年)では、北海道全域に目を向け、かつて繁栄を極めたニシン漁を写真をもとに解説した。意義ある仕事だった。しかし、この人へのインタビューはほぼあきらめていた。2013年、作家の渡辺一史さんと一献傾けた際に、「高橋さんに話を聞くのはもう難しいです」と言われていたからである。しかし、ご健在かどうか一応は確かめたい。ひょっとしたら取材可能かもしれない。ネットで調べると、答えはすぐに出た。2015年に亡くなられていた。「ましけコラム」によると、残された資料類は留萌市図書館や増毛町教育委員会などに寄贈されたという。

7.弥永(やなが)芳子さん

 私が北大に通っていた頃、大学のそばに弥永北海道博物館という私設博物館があった。木々に覆われて、怪しげな雰囲気を持ち、なんとなく近寄りがたかった。ある日、友人が行ってきた。「弥永さんに捕まって、えらい目にあった。話が終わらない。帰してくれないんだよ」。私はその話を聞いて笑っていただけで、足を踏み入れなかった。しかし、後年、歴史に興味を持つようになり、弥永さんの仕事の大きさが分かってきた。貨幣・化石・砂金・鳥瞰図などを収集するだけでなく、私設博物館を作り、著作も発表している。2015年に博物館は閉館し、コレクションの一部は北海道博物館に寄贈され、ニュースにもなった。しかし、最近は噂を聞かない。1919年生まれで、すでに100歳を超えているが、ご健在かもしれない。消息を探してみた。しかし、見つからない。コロナ流行のさなかでもあり、お元気であるにしてもインタビューは難しいだろうと考え、しつこく追い求めはしなかった。いまだ行方は分からない。
(2024年3月30日にこの記事を書き、ひと月もたたない4月21日の北海道新聞朝刊のお悔やみ欄に弥永芳子さんの訃報が載った。4月17日死去。104歳だった。)
 

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