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『太宰治は、二度死んだ』第一章・東京篇(第5話)

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 七月に入って間もなくのことです。
 どやどやと五六人の、学生さんらしい一団がお店に入っていらっしゃいました。
 その中の一人を見た時、思わずわたしはあっと目をみはりました。
〝津島修治〟と名乗ったあの方でした。
 皆既に酔っているらしく、東北訛り丸出しで話していました。そして津島さんを、〝若様、若様〟と歯の浮くような調子で呼ぶのです。
 その癖、若様である筈の津島さんは、気弱く微笑みながら聞き役に回っていて、この前わたしを相手にあれだけ雄弁だったのが嘘のように、大人しくしていらっしゃいます。
 ――津島さんはタカられている。
 こういう商売をしている者の勘で、わたしにはすぐわかりました。
 他人にタカろうとしている人は、そういう目をしているものなのです。
 ――この人たちはいかにも景気よく、何本もビールを注文しているけれど、自分では一銭だってお金を払う気はないのだ、津島さんはこんな人たちに、若様などと時代遅れのお追従ついしょうをされ、調子に乗って散財しているのかしら……。
 わたしはビールを注ぎながら、津島さんの顔を窺いました。
 わたしに気づいている筈なのに、津島さんはわざと目を合わせようとしないのです。
 ただ、いかにも面白そうなふりをして、皆の話に熱心に相槌を打っているばかりでした。
 ――ああ、この方は人間が怖いんだ。
 水が心の襞に沁み込むように、そう思いました。
 自分がタカられていることは百も承知していながら、それをきっぱりねつけることがおできにならないのだ。
 だからきっとこんなふうに、笑っているのか泣いているのかわからない、道化みたいな顔をしてらっしゃるのだと思いました。
 それにしても、津島さんにタカっている人たちの遠慮のなさは常軌を逸していました。
 いくら銀座では下級のカフェーと言っても、大学出の会社員の給金半月分ほどにはなっている筈です。
 わたしはなんだか義憤を感じ、思わず口を開きかけました。その時――
「ねえ、あつみちゃん」
 お島姐さんの声が、柔らかくわたしの耳を打ったのです。
 はっとして振り返ると、いつも気だるげで、ちょっと投げやりな態度でいながら、妙にお客さんをそらさない姐さんが、わたしの心を見透かしたような笑みを口の端に浮かべて、カウンターに頬杖をついていました。
「あそこの壁の絵って、何て画家が描いたの? ほら、あの裸の女の絵。お客さんに訊かれたんだけど、あたし、無学なもんだから」
 そう言ってお島姐さんが指差したのは、壁に掛かっている複製画レプリカの一枚でした。
 お島姐さんが相手をしているお客さんは、出っ歯のとび職の男の人で、とろんと酔った眼に好色そうな光を浮かべて、わたしと壁の絵を見比べているふうでした。
「姐さんが今指差してるのが、ルノワールの〝陽光の中の裸婦〟ね。その隣も? えっと……確かポール・シャバの〝踊るニンフ〟だわ」
「ほら御覧なさい。女給風情ふぜいだからって莫迦にするもんじゃないわ。うちの若い子はインテリなんですからね」 
「恐れ入谷の鬼子母神、やっぱり断髪洋装の女給さんは違うぜ。おれは、ただバタ臭いねえちゃんがすっぽんぽんで――い、いてえ、何しやがる!」
 お島姐さんに背を打たれ、大仰に痛がってみせる男の人の滑稽さに、思わず笑いを嚙み殺していると、うなじの辺りにふっと視線を感じました。
 お店の喧噪を縫って、ぴんと一本の銀の糸が張られたように、視線の先には津島さんの眼がありました。
 その澄んだひとみに見つめられると、さかしらに西洋の画家の名など口にした自分が急に恥ずかしくなり、かっと頬が熱くなるのを覚えたのです……。
 
 その翌日からでした。津島さんが一人で、しかも頻繁にお店にやってくるようになったのは。
 津島さんはわたしをかたわらに座らせ、文学や演劇、絵画などのお話をいかにも楽しそうになさるのです。
 わたしが葛西善蔵を好きだと知るとひどく喜んで、僕の郷里の作家だと言いました。東北の方だということは察しがついていましたが、青森のご出身というのは、その時初めて知ったのでした。
 ただ不思議なことに、津島さんはお酒を召し上がるばかりで、あまり食べ物を口にしないのです。
 夕食がまだだと仰るので、簡単なものでよろしければお出ししましょうか、と申し上げても、
「いや、いいんだ。僕はね、昔から〝空腹〟という感覚がどんなものだか、よくわからないんだよ」
 真面目とも冗談ともつかぬ顔で断られます。
 そんな人がこの世にいるとは信じられないのですが、本当に何も召し上がらないので嘘とも言えません。乳母おんば日傘ひがさで育った方で、飢えた経験が一度もなく、〝お腹が空く〟という当たり前の感覚を、どこかに置き忘れてしまったのでしょうか。
 とにかく、たいへん変わった方であることだけは確かなようでした。


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