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『太宰治は、二度死んだ』第三章・東京篇Ⅱ(第24話)

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莫迦ばかな人。こんなことしたって、どうにもならないのに。本当に、莫迦な人……」
 蒲田かまたの難波先生のところへ運ばれる途中、お島姐さんは目を閉じてぐったりとわたしにもたれかかりながら、譫言うわごとのようにずっとそう言っていました。
 鍔鑿つばのみという先の尖った鑿が姐さんの太腿ふとももに刺さっていました。
 ホリウッドの支配人が無理に鑿を抜くとかえって危ないと言うので、応急の止血措置だけをして、すぐに円タクで難波先生のところへ連れていくことにしたのです。
「姐さん、もうすぐ着くわ。しっかりして」
 わたしの声に、お島姐さんは頷きました。
 ――その目尻から、一筋の涙がつっと流れ落ちました。
 
 難波先生は、てきぱきと看護婦に指示を出して手術の準備をしながら、お島姐さんが刺された時の状況をお尋ねになりました。
 わたしは姐さんが刺された瞬間を見たわけではないのですが、その場に居合わせた人の話によると、それまで低い声で話していた姐さんが、「あっ」と叫んで立ち上がったのだそうです。
 姐さんの立ち上がるのと、鳥打帽の男が姐さんに抱きつくように見えたのが、ほぼ同時だったということでした。
 男はすぐに姐さんから離れ、後も見ずに店を逃げ出しました。戸口でわたしにぶつかったのは、その時のことです。
「刺されると気づいて、とっさに立ち上がったのだろう。そうしていなければ、おそらく腹をえぐられていたに違いない。危ないところだったよ。あんたが言うように、店の中でも鳥打帽を被っていたのは、顔を見られないようにする用心だろう。その男は最初から、お島さんを殺すつもりだったんだよ」
 難波先生の言葉を聞いて、わたしは身体の芯から恐怖におののきました。
 男に殺すつもりで向かってこられたら、女はいったいどうすればいいのでしょう。
 自分もいつか順蔵に殺されるのではないか。前に難波先生が忠告して下さったことが現実になるのではないか。
 手術室に横たわるお島姐さんが、わたしには未来の自分の姿のように見えたのです。  
 
「あつみちゃん」
 病室をのぞくと、お島姐さんは泣いているのか笑っているのかわからない顔を、わたしの方に向けました。
 わずかの間に、すっかりやつれた様子になっていました。
「痛いでしょう」
 わたしは姐さんのベッドのかたわらにあった椅子に、そっと腰を下ろして訊きました。
「あまり痛くはないわ。まだ麻酔が効いてるみたい」
 それきり姐さんは黙り込みました。
 わたしも、口をききませんでした。
 やがて、苦笑いとも溜息ためいきともつかぬ微かな息が、姐さんの口から洩れました。
「あれ、別れた亭主なの」
 姐さんは静かな声で言いました。
「あつみちゃん、少しあたしの話を聞いてくれる?」
 わたしは、こくりと頷きました。
「あの人は建具たてぐ大工でね。飲む打つ買うなんて一切しない真面目一方の人で、仕事の腕もよかった。あたしなんかと一緒にならなければ、ささやかでも、幸せな家庭を持てた筈だわ。だから、こんなことをされても、あたしはどうしてもあの人を恨む気持ちにはなれないの。莫迦な、そして可哀相な人だって、そう思うのよ。
 熱心に勧めてくれる人があって、お見合いをして、あの人と所帯しょたいを持ったのが六年前のことよ。あたしってね、元々すごいおぼこだったの。結婚するまで、夫婦がねやで何をするのか全然知らなかったのよ。笑っちゃうでしょう?
 それって結局、あたしが自分のことをまるで知らなかったってことなのよね。男に興味がなく、反対に銭湯なんかで肌のきれいな娘さんなんかを見ると、妙にどぎまぎしてたんだけど、まさかそれが病気だなんて思いもしなかったわ」
「姐さん、それは病気じゃないわ。わたし女学校へ通ってたでしょう、女同士で恋文をもらったり渡したりするのなんて、日常茶飯事だったのよ」
「そういうものなの? あたしは小学校もロクに出てないからわからないんだけど……」
「姐さん、あの時はごめんなさい。あんまり突然だったから、わたし混乱して、どうしていいかわからなくなってしまったの。ひどいこと言って、姐さんを傷つけてしまったわね」
「傷つけてしまったのは、あたしの方よ。あなたからすれば、裏切り以外の何ものでもなかったわよね。ごめんなさい……」姐さんは絶え入るような声でいいました。
「あやまったりしないで。姐さんが心のやさしい人だって、わたし、本当はよくわかってるの。姐さんがそばにいてくれたから、わたしは東京で今日までなんとか生きてこられたんだわ」
「ありがとう、あつみちゃん」
 姐さんの目に、みるみる涙が溢れました。
「あんたにそう言ってもらえて、あたしやっと肩の荷が下りたわ。あの日以来、ずっと肩に沢庵たくわん石でも載っかってるみたいだったの。あたしが一番辛かったのはね、あつみちゃんに嘘つきって言われたこと。お願い、信じて。あたしがあんたに話したこと、全部本当のことなのよ」
「信じるわ。姐さんの言葉、全部信じるわ」
「あの人のこと、決して嫌いだったわけじゃないの。あたしって、けっこう所帯じみたことが好きなのね。しょうに合ってるのよ。あの人のお弁当をこしらえたり、酒のさかなを作ったり、服のほころびをつくろったり、そういう細々こまごましたことをやっている時は楽しくて、あの人にしみじみとした情愛を感じたものよ。
 でもね、夜になるとだめなの。あの人に――いいえ、あの人のせいじゃない、男に、男のごつごつした手で身体を撫でまわされると、虫唾むしずが走るの。あのことの間中、あたしは吐き気をこらえるのに必死だったわ。
 だから、妊娠したってわかった時は嬉しかった。これでようやく夜のお務めから解放されると思ったの。悪阻つわりがけっこう重かったんだけど、あのことに比べたら物の数じゃなかったわ。
 生まれた子は可愛かった。もうあの人の喜びようったらなくて、目の中に入れても痛くないってこういうことを言うんだと思った。女の中には、父親と娘があんまり仲がいいとけるなんて言う人がいるそうだけど、あたしはむしろ逆だったわ。あの二人の仲が良くて、あたしのことなんか眼中にないみたいなのを見て、かえってほっとしていたの。これなら、三人でなんとかやっていけるんじゃないかって思った。でも、人生って思った通りにはいかないものよね。
 三つの年に、娘はチブスであっけなく死んでしまった。その後よ、地獄が始まったのは。あの人はまた子供をつくろうとした。あの人にとっては、それが哀しみから抜け出す方法だったのね。
 でも、哀しかったのはあの人だけじゃない。当たり前でしょ、誰でもない、あたしがお腹を痛めて産んだ子なのよ。あの子が死んだ時は、自分の身体の一部をもぎ取られるような気がしたものだわ。その傷も癒えないのに、毎晩毎晩……。大袈裟でもなんでもなく、あたしは気が狂いそうになったの」
 それで、お島姐さんは夫と別れる決心をしたのです。
 でも、夫に本当の理由を説明することは、どうしてもできませんでした。
 肝心なところをぼかしたため、夫は妻に新しい男ができたと思い込みました。どんなに否定しても、信じてはもらえませんでした。
 最後は殆ど着のみ着のまま、お島姐さんは夫の元を逃げ出したのです。
 ところが、男はあきらめませんでした。
 何処でどうやって調べるのか、いつもお島姐さんの居場所を探し当てては、訪ねてきたそうです。
 その度に、姐さんは仕事も住まいも換えなければなりませんでした。
「おかしいでしょう。『俺はお前じゃなきゃだめなんだ、お前の身体が忘れられないんだ』とか言うのよ。普通の女なら、そこまで惚れられたら情にほだされるものかもしれないけど、あたしは違った。そんなことを言われれば言われるほど、逆にしらけてしまう。この人、いったい何を言ってるのかしら、と思ってしまうの。これじゃ、どうしようもないわよね」
 わたしは姐さんの顔を打ち守るばかりで、何と言っていいかわかりませんでした。
「こうしてあたしの居場所を突き止めて押しかけてくるのは、もう四回目なの。あの人の人生も、あたしのせいで滅茶苦茶になってしまったのね」
 姐さんは淋しくはかなげな笑いを、やつれた頬に浮かべて言いました。「――哀しいわよね、人間て」


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