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『太宰治は、二度死んだ』第三章・東京篇Ⅱ(第25話)

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 人間は哀しい。生きることは、つらい。
 そうなのかもしれません。
 人生がそういうものであるなら、人はなぜ、生きていかなければならないのでしょうか。
 それでも、自分の過去を語った姐さんは、意外にさばさばした顔をしていました。
「なんだかお腹空いちゃったわ。こんな時でもお腹が減るんだから、不思議なものよね」
「姐さん、わたし、どこかで夜泣よな蕎麦そばでもあつらえてくるわ」
「うん。じゃあ、お願い」
 姐さんは財布を取り出しました。
「いいわよ。それくらいわたしが出すから」
「だめよ、あつみちゃん。お金ほど大切なものはないの。あんたはあたしと違って、これからの人生がある人なんだから、一銭だって無駄にしちゃいけないわ」
 腰を浮かしかけたわたしを、姐さんは手で制しました。 
「こんな話、聞きたくないでしょうけど、いい機会だから言わせてね。あつみちゃん、この間あの津島さんって人のために、支払いを立て替えたでしょう」
「姐さん、知ってたの?」
「あれは、絶対にやっちゃいけないことよ」
 姐さんは、真剣な目でわたしを見据えながら言いました。
「あつみちゃん、あれだけはもうしないと約束して。いい? あれをやってしまうと、あとはどんどん泥沼にはまっていくことになるの。あたし、今までに、そんな人を何人も見てきたわ」
「大丈夫よ、姐さん。わたしが立て替えた分、修治さんはもうちゃんと払ってくれたわ」
「今回大丈夫だったから、次も大丈夫とは限らないでしょ。相手に約束を破る気がなくたって、思うようにいかないのがお金というものよ。そしてお金はね、簡単に人を地獄に引きずり込むものなの」
 姐さんはわたしから視線を逸らし、天井をぼんやり眺めながら呟くように言いました。
「地獄を見るのは、あたしひとりで十分だわ」
 わたしは胸の塞がるような気持ちを隠し、無理に明るい調子で言いました。
「わかったわ、姐さん。もう二度としないから安心して、ね」
「きっと、きっとよ。あたしの最後の言葉だと思って、これだけは守ってほしいの」
「最後の言葉って、何よ。まるで今生こんじょうの別れみたいだわ」
「あたし、ホリウッドを辞めるわ。お店にあんな迷惑かけちゃって、もうあそこにはいられないもの」
「そんな……。姐さんは何も悪くない。どうして姐さんが辞めなきゃいけないの? そんなのおかしいわ」
 お島姐さんは微かに首を振るだけで、何も答えませんでした。
「姐さん、もう休んで。難波先生も、とにかくよく休むのが大事だと仰ってたわ」
「最近ね」
 姐さんは自嘲するような声で言いました。「なぜだかよく眠れないのよ。毎日身体は棉のように疲れているんだけど、いざ寝ようとすると目が冴えてしまって。やっと寝ても怖い夢ばかり」
「わたしが、添い寝してあげましょうか」
「いいの?」
 姐さんは目をみはりました。
「だって、あたしは――」
 わたしは黙って、姐さんの傍らに身を横たえました。
 小さい時、熱を出して寝ているわたしに母がそうしてくれたように、蒲団の上から、ひたひたと軽く姐さんの胸のあたりを叩きました。
「どっちが年上だかわからないわね」
 姐さんはくすくす笑って言いました。
「ありがとう。あつみちゃん、あたしの人生ってさんざんだったけど、あんたに会えたことだけは、心からよかったと思うわ」
 間もなく、姐さんはあどけない童女のような顔をして眠ってしまいました。
 わたしは姐さんを起こさないように、そっとベッドから下りました。
 姐さんも心配ですが、修治さんのことも気掛かりです。
 とりあえず、急いで姐さんの食事を準備してから、ホリウッドに戻ることにしました。
 診療室の前で難波先生にご挨拶すると、先生はわたしを手招きし、診察用の椅子を指差しました。
 わたしが一揖いちゆうして腰を下ろすと、先生は静かな声で仰いました。
「少し立ち入ったことを聞くのを許しておくれ。田辺さん、あんたはあの男とちゃんと手を切ったのかね?」
 わたしはうつむいた顔を上げられませんでした。すると頭の上から、難波先生の温かみのある声が響いてきました。
「いや、私はあんたを責めているんじゃないんだ。人にはそれぞれの事情というものがある。別れられないからと言って、その人が弱いわけでも、意気地がないわけでもない。無理に別れたって、このお島さんのようになってしまうこともある。
 いいかい、田辺さん、これから私が言うことをよくお聞き。危ないと思ったら、逃げるんだ。なりふりかまわず逃げるんだよ。逃げるということはね、決して恥ずかしいことじゃないんだ。そして、逃げる時は私のところへおいで。私は腕力ではあまり頼りにならないが、あんたを一時匿うことくらいはできるし、時々検死の手伝いをするから警察にも多少の顔は利く。覚えておいてほしいのは、世の中には往々にして、一人の力では解決できない問題があるということなんだ。そういう時は、遠慮なく他人に頼っていいんだよ」
 嗚咽おえつが洩れそうで、わたしは声を出すことができませんでした。
 言葉の代わりに、深く深く頭を下げました。ありがたくて、もったいなくて、難波先生を伏し拝みたいような気持ちでした。
 
 ホリウッドに戻り、支配人に姐さんの状況を伝えました。
 お店には、わたしを呼び出す電話も、〝武雄〟と名乗る人からの電話も入っていないようでした。
 宵の口に一旦上がった雨がまた降り出し、激しい音を立てて銀座の街を夜の底に閉じ込めていきました。
 ――修治さん、あなたは今、どこにいるの?
 狂風がわたしの周囲を吹き荒れていました。


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