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『太宰治は、二度死んだ』第一章・東京篇(第7話)

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「あつみちゃん、ちょっと靴下脱いで見せなさい」
 仕事がひけるやいなや、お島姐さんはわたしを控室に引っ張り込んで、そう言いました。
「何よ、姐さん」
「いいから。見せなさい」
 否も応もありません。無理やりわたしを畳の上に座らせると、足首のところを摑んで持ち上げるようにして、靴下を脱がせました。
 姐さんはそれでもそっと脱がせてくれたのですが、足の裏にべっとりと靴下が密着していたために、皮を引き剝かれるような痛みが走りました。
 わたしが思わずうめき声を上げると、
「な、何なのよ、これ……!」
 姐さんは手を口にあてて、絶句しました。
「なんでも、ないわ」 
「なんでもないわけないでしょ!」
 姐さんが眉を逆立てて、鋭い声を出しました。
「一緒に暮らしてる男がやったのね。そいつ、あんたにいったい何をしたのよ!」
 わたしは観念して、白状しました。
「……を押しつけ、られたの」
「何を、押しつけられたんですって?」
「煙草よ。煙草の火を、押しつけられたの」
 昨晩、順蔵はわたしの両手を箪笥の環に括りつけると、あの帝大生と二人で観劇に行く約束をしたのかと問い詰めました。
 わたしがあくまで否定すると、順蔵は火のついた煙草をわたしの足の裏に押しつけたのです。何度も、何度も……。
 皮膚の焦げる厭な匂いがまだ鼻の奥に残っているようで、どうかした拍子にその匂いが甦ると、思わず吐きそうになりました。
 足の裏の痛みはまるでそれ自身が生き物みたいに熱く脈を打ち、灼熱の針の山でも歩かされているようでした。
「なんていう卑怯なやつだろう」
 姐さんは、ぎりぎりと音がするほど強く歯噛みしました。
「顔だとか、腕とか、外に出てる部分だとあんたの商売にさしつかえると思って、わざとこういう人目につかないところをいたぶったんだよ。そうに決まってる。あんたにおんぶに抱っこの意気地なしのヒモのくせに……ゆ、許せない!」
 この時、わたしは急に頭がふらふらして、姐さんの身体にもたれかかってしまったのです。
 慌てて抱きとめてくれた姐さんの、そのはっとしたように叫んだ声が、ぼんやりと耳に響きました。
「あつみちゃん、あんたひどい熱よ!」
 姐さんはすぐに円タクを呼ぶと、わたしを蒲田にある診療所へ連れて行ってくれました。
 こんな遅い時間に開いている診療所があるのかしらと思ったのですが、なんでも夜の仕事をしている女を専門に診て下さるお医者様なのだそうです。
 正直、わたしは診療所へなど行きたくありませんでした。
 お医者様はきっと、何があったのかとお尋ねになるでしょう。男のお医者様にそれを説明するのが、わたしは死にたくなるほど恥ずかしかったのです。
 本当は円タクを飛び下りて逃げ出したかったのですが、熱のせいで口を開くのも億劫おっくうな身体ではどうしようもありません。
 ありがたいことに、わたしの心配は杞憂きゆうでした。
「どうしたのかね」
 特にやさしい声というわけでもないし、表情などむしろ愛想が悪いくらいなのに、これが経験というものなのでしょうか。どうしたのかね、とこの小太りのお医者様が仰るのを聞いた途端、身体中の力が抜けてそのまま眠り込んでしまうほど安堵し、この方に全てお任せしておけばいいのだと思えたのです。
 この方は難波なんば先生と言って、元々産婦人科のお医者様だそうですが、女たちが行けば風邪でもけがでも診て下さるばかりでなく、貧しい者には薬代の支払いを待って下さったり、親身に相談に乗って下さったりするので、夜の仕事をする女たちから神様のように慕われている方なのでした。なるほど、わたしもこのお医者様なら、女の一番恥ずかしいところでも平気で診ていただける気がしました。
 姐さんは、わたしが自分の口からは言いにくいだろうと気を回してくれたのでしょう、簡潔にわたしの状況を説明してくれました。
 難波先生は、厳しい顔で黙って聞いていました。
 そして聞き終わると、すぐにてきぱきと手際よく、しかも温かみを籠めて診て下さいました。
「まったく、ひどいことをするやつがあるものだ。足の裏が蜂の巣みたいになっているじゃないか。しかも、あんた今日はずっと、仕事で立ちっぱなしだったんだろう。水膨れが潰れて膿が出ている。よくここまで辛抱したもんだ」
 ついに、堪えに堪えていたものがせきを切りました。わたしは、わあっと声を上げて泣き出してしまいました。
「よしよし、泣きたいだけ泣くがいい。そして泣き終わったら、その男とはきっぱり縁を切るんだよ、いいね。女に手荒なことをする男は、医者でもなかなか治せない病気に罹っていると思わなければいけない。そう、病気だよ。
 暴力を振るった後、男は暫く妙にやさしくなるだろう。うん、あんたには思い当たることがあるようだね。そうだ、しおらしく謝ってきたりするものだから、あんたはつい情にほだされてしまうんだろう。でも、男が本当に心を入れ替えてくれたなんて思うのは幻想にすぎないのだよ。
 こういう暴力にはね、周期というものがある。一定の時間が過ぎれば、またひどい目に遭わされる。その繰り返しなんだ。しかも、時間の間隔はだんだん短くなり、それに比例するように暴力の程度はますますひどくなる。このままじゃあんたは、これは脅しで言うんじゃなくてね、いつか殺されてしまうかもしれないよ」
 治療が終わった後、わたしは待合室の中で、後ろの壁に背を預けるように座ってぼんやりしていました。
 姐さんはわたしの代わりに薬を受け取って、看護婦さんから注意事項などを聞いてくれています。
 わたしの方からは見えなかったのですが、そこに難波先生も出てきて、姐さんと何か話しているようでした。
 先生の声は低くて、何をおっしゃっているのかわかりませんでしたが、興奮ぎみの姐さんの甲高い声ははっきり聞こえました。
「ええ、わかってますとも。あの男が店にきたって、あたしが追い返してやりますわ。指一本触れさせるもんですか。あつみはあたしが守ります」
 わたしは黙って、ひんやりした壁に背をもたせたまま、そっと目を閉じました。


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