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『太宰治は、二度死んだ』第二章・広島篇(第16話)

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 気がつくと、順蔵の部屋の天井が見えました。
 往診に来て下さったらしい白衣のお医者様が、診療鞄を片付けているところでした。
「おそらく過労が原因じゃろう。ブドウ糖を注射しておいたが、とにかく暫くは絶対安静じゃ、わかったな」
 それが癖なのか、右の人差し指でしきりに度の強そうな黒縁の眼鏡を押し上げながら、お医者様が順蔵に話している声が聞こえました。
 お医者様は、こまごまとした注意を与えて下さっているようなのですが、順蔵はただ生返事をするばかりで、お医者様の話を果たして理解できているのかあやしい感じでした。
 お医者様がお帰りになった後も、順蔵は部屋の中を、ただ熊みたいにうろうろ歩き回っているばかりでした。つくづく役に立たぬ人だと思わずにはいられませんでした。
 わたしはまぶたを開けているのも辛かったのですが、このままではどうしようもないので声をかけました。
「武雄あんちゃんに知らせて」
 わたしの声を聞くと、順蔵は飛び上がるほど驚きました。
 どうやらわたしが目を覚ましていることにも気づいていなかったようです。
 兄の連絡先をなんとか順蔵に伝え終わると、わたしはまた昏々こんこんと深い眠りの底へ落ちていきました。
 次に目が覚めた時、自分がいつの間にか、さっぱりした新しい浴衣に着替えているのを知り、兄が来てくれたのだとわかりました。
「おお、やっと気がついたか。よかったよかった、心配したでぇ」
 気遣わしげに覗き込む兄の顔を見たこの時ほど、心の底からの安堵を感じたことはかつてありませんでした。
 でも、わたしにとって驚きだったのは、笑顔の柔らかい女の人が兄の傍らにいたことです。
 その人は、つと立ち上がってわたしの枕元に座ると、首の下にそっと手を差し入れて頭をやさしく持ち上げ、吸飲みで水を飲ませてくれました。
「この人はなあ、あきさん言うんじゃ。今日からシメ子の看病をしてくれるけぇ、安心しんさい」
「シメ子さん、なんでもわがまま言うてね。病人に遠慮は禁物きんもつよ。よくって」
 この秋乃さんが兄の〝いい人〟だということは、一目でわかりました。
 でも、兄にお付き合いしている方がいるなんて、わたしは今の今まで知らなかったのです。
 考えてみれば兄ももう数えで二十二ですから、こういう方がいても少しもおかしくないのに、わたしにとってはどこまでも〝一番仲の良い兄ちゃん〟で、兄が他の女性の目には、れっきとした一人の男性として映っているという、そんな当たり前のことが、なんとなくぴんとこなかったのです。
 こうしている間、順蔵は部屋の隅で小さくなっていました。別に何をするでもなく、いつまでもその場に座っているので、しまいには兄がいらいらを隠そうとしない声で、
「湯でも沸かしてきたらどうじゃ!」
 と叱りつけたほどでした。
 順蔵は、秋乃さんが翌日から毎日来てくれることを知ると、露骨にほっとした顔をしました。
「じゃあ、僕は店があるじゃけぇ、後はよろしゅう願います」
 頭を一つ下げると、そそくさとお店へ出かけていきました。
 順蔵ひとりでどうやって店を開けるつもりなのかと思いましたが、とにかく面倒なことは御免ごめんこうむるという様子があからさまで、これには兄も苦笑いするしかなかったようです。
 
 秋乃さんは、かゆいところに手が届くように看病して下さいました。
 秋乃さんは既に武雄兄と、来年早々にでも所帯しょたいを持つ約束になっているのだそうで、わたしのことも、自分の妹として見てくれているのがよくわかりました。
 わたしたちはすぐ実の姉妹のようにむつみ合って、いろいろなお話をしました。秋乃さんの女学生言葉の抜けない話し方は、わたしの耳に懐かしく響きました。
 接していると、秋乃さんが兄のことを心から愛して下さっているのがよくわかりました。兄はなんて果報者なのだろう、とちょっと目頭が熱くなるほどでした。
 わたしが床にせっている間に、桜はとうに盛りを過ぎておりました。
 僅かに咲き残っていた花びらも、暖かい春の風に浚われるように枝を離れ、それが開いた窓から、ちらちら吹き込んできたりするのでした。
 秋乃さんは、おうちでのんびり花嫁修業でもなさっている方かと思っていたのですが、実は貿易会社にお勤めだと聞いて、びっくりしました。
「わたしなんかの看病のために、お仕事をお休みさせてしまって申しわけないわ」
「かまわなくってよ。父の会社なんですもの。わたしなんて、半分遊びに行っているようなものなんだから。父にはいつも月給泥棒だって叱られてるわ」
 秋乃さんは英語にご堪能で、会社ではタイプライターで英文を打ったりなさるのだそうです。
 平和ホームにいた先輩たちは意地悪な人ばかりで気の休まる時がなく、チロルはあんな状況ですし、それこそ本当にひさしぶりに、わたしは安心してお話のできる同性に会えた気持ちでした。
 秋乃さんも小説を読むのがお好きで、特に泉鏡花を愛読されていました。
わたしも『高野聖』や『草迷宮』などが大好きでしたから、ひとしきり鏡花の話に花が咲いたのですが、その後でふっと気が沈んでしまいました。
「シメ子さん、どうなさったの。疲れたのじゃなくって?」
「ううん、違うの。ちょっと変なこと考えてしまって……。鏡花に『歌行燈』という作品があるでしょう」
「ええ、もちろん知ってるわ」
「あれ、わたしの生活よ。わたしは、あのお三重みたいなものなの」
『歌行燈』の主人公お三重は、お茶をいた罰として置屋で酷い折檻を受けるのです。
 秋乃さんのような方に、女給の生活なんて想像もつかぬに違いありませんが、聡明で心根のやさしい方ですから、すぐにぴんと来るものがあったらしく、その眸にみるみる涙が溜まりました。
 秋乃さんは、愛おしげにわたしの髪を撫でながら、
「ねえ、シメ子さん。あなた、わたしと一緒に暮らさないこと? わたしは末っ子で、上には兄しかいないから、あなたのような可愛い妹ができて嬉しくて仕方がないの。父も武雄さんのことを気に入っていてね、『あれは床屋で終るような男じゃない。将来きっと何か大きな仕事をする男じゃ』といつも言ってるのよ。結婚したら、父はわたしたちに家をもたせてくれることになってるの。場所だってもうだいたい決まってるのよ。そんなに大きくはないけれど、あなたのお部屋くらいちゃんとあってよ」
 兄やこの義姉と一緒に暮らす。そんな夢のような話があるのでしょうか。
 秋乃さんは真剣な顔でわたしを見ながら、こう訊きました。
「シメ子さん、正直に答えて。あなたはあの高林って男のこと、本当はちっとも愛してなんかいないんでしょう?」
 秋乃さんは詳しいことは何もお訊きにならなかったし、わたしも何も言いはしませんけれど、わたしと順蔵の関係の異常さは、とっくにお見通しだったのです。
 わたしは頷きました。
 はっきりと、二度も三度も頷きました。
「わかったわ。あなたは、もう何も言わなくてよくってよ。わたし、今日にも武雄さんと相談してみるわ」
 思い遣り深い秋乃さんの言葉に、わたしの我慢の糸は、ぷつんと切れてしまいました。
 両手で顔を覆って歯を食い縛りましたが、それでも嗚咽おえつと熱い涙が指の間から洩れ、溢れ、そしてとめどなく頬や首筋を伝いました。
 秋乃さんはいつまでも、静かにわたしの頭を撫でていてくれました。


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