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『太宰治は、二度死んだ』第一章・東京篇(第6話)

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「外はみぞれ、何を笑うやレニン像」
 また、雨が降っていました。
 わたしはそっと傘を修治さんに差しかけました。
 修治さんは背が高いので、傘を差しかけるには、わたしは爪先立ちになって背伸びしなければなりません。
 修治さんはわたしの手から傘を取って、二人の上にちょうど半分ずつになるよう広げてくれました。
「夏なのに、みぞれが降るんですか」
「東京は冬でもあまりみぞれが降らないね。僕の故郷では、冬の初めによくみぞれが降るんだよ」
「今のは修治さんが詠んだ句なんですか」
 わたしはいつか〝津島さん〟ではなく、〝修治さん〟と呼ぶようになっていました。
 修治さんはすっかりお店の常連さんになっていて、今日みたいにわたしが引けるのを待って一緒に裏口から出ることも珍しくありませんでした。
「まあ、そんなものだね」
 言ってから、修治さんは変な笑い方をしました。
 ふふっと女の人のように含み笑いをするのが、照れた時の修治さんの癖でした。
 修治さんは、特に自分の創作のことが話題になった時、ひどく照れるのです。
 それはこの方にとって物を書くということが、人前ではいつも慎重に慎重に、何枚も皮を被せるようにして隠している、心のうちの最も柔らかで壊れやすい部分を曝け出すことになるからなのかもしれません。
 だから、まるで女が自分の裸を覗かれでもしたように、真っ赤になって羞じ入るのでしょうか。
「あっちゃん、一緒に『ゴー・ストップ』を見に行かねえか」
 不意に、修治さんが言いました。わざとのような乱暴な調子で。
「行きます」
 わたしが即答したものですから、かえって修治さんの方がびっくりしたようでした。
『ゴー・ストップ』というのは、貴司きし山治やまじが昭和三年に東京毎夕新聞に連載した小説を、昭和五年に劇化したものでした。
 階級的大衆演劇の新機軸を打ち出した作品として、演劇青年や文学青年たちがこぞって見に行った話題作でした。
「修治さん、約束よ。指切りげんまんよ。わたし、本気にしてよ」
〝本気にしてよ〟などと、つい女学生言葉が出てしまいました。
 最近、和夫さんと夢中になって演劇や文学の話をしていた頃のことが蘇り、冷え切った身体に再び血が通っていくような心持ちになっていたせいかもしれません。
 修治さんは指切りの代わりに、くしゃくしゃと私の頭を撫でました。
「わかった。切符が手に入ったら、すぐあっちゃんに伝えるよ」
 私の手に傘を押し付けると、身体を左右に振る独特の歩き方で、修治さんは遠ざかっていきました。
 その背中が闇に溶けて見えなくなるまで、わたしは傘越しに見送っていたのでした。
 
「ぶち遅かったじゃないか」
 その夜、部屋に帰ったわたしを迎えたのは、喉に痰でもからんだような、妙に濁った順蔵の声でした。本当はその時、順蔵の態度のおかしさに気づくべきだったのです。
 でもわたしは、修治さんに『ゴー・ストップ』の観劇に誘ってもらったことが嬉しくて、順蔵の様子の不自然さをあまり意識してはいませんでした。
 いつものように流しで化粧を落とし、身体を拭き、浴衣に着替えてから布団に入りました。
 また順蔵が求めてくるだろうと思いました。順蔵に抱かれることは、わたしにとって嫌悪感でしかないのですが、これもお務めの一つと割り切るほかないと諦めてもいました。
「……あっ!」
 最初は何が起こったか、さっぱりわかりませんでした。
 天地がひっくり返るような衝撃があり、続いて視界が真っ白に変じました。
 その白く濁った世界に、ちらちらと光の粒が明滅している以外、何も見えません。
 左の頬にけるような痛みが走り、それと同時に少しずつ、視力が戻ってきました。
 わたしは畳の上に、浴衣の裾を乱して横倒しに倒れており、布団をはねのけて仁王立ちになった順蔵が、そんな私を見下ろしていました。
 そこでようやく、自分が順蔵に殴られたのだと知ったのです。
 頬を押さえ、のろのろと順蔵の顔を見上げた時、わたしは全身の毛がぞわりと逆立つのを覚えました。
 妙に無表情な、そして仮面のように強張った顔。
 前にわたしの髪を摑んで部屋中引きずり回した時と同じ顔が、電灯のかげに妙な隈取りを浮かべていました。
「あの若い男は、何者なにもんじゃ」
 順蔵の口の端には唾が泡のように溜まっており、そこから押し殺したような声が、ぶつぶつと漏れてくるのでした。
「だ、誰のことを言ってるの?」
「シラを切るつもりか」
「お店のお客さんよ、他に誰がいるって言うの」
「ただの客と、あがいに仲睦まじゅうするのか」
「ねえ、順蔵さん。あなたが何を言っているのか、わたしにはさっぱりわからないわ。だって、こんな商売なんですもの。お客さんに笑顔を見せるのは当たり前でしょう?」
「『ゴー・ストップ』を、一緒に見に行くんじゃげな」
 はっとしました。
 わたしが修治さんと店の裏口の路地で立ち話をしていた時、おそらく近くに順蔵が潜んでいたのです。
 以前にも、順蔵は店の近くまで、わたしを迎えに来たことがありました。
 それは決してわたしを労わる気持ちから出たものではなく、わたしが客と深い仲になり、自分を捨てて逃げるのを恐れていたのに違いありません。
 だから、何の予告もなく、不意打ちのように現れるのです。
 今夜も順蔵は、こっそりわたしを見張っていたのでしょう。
 わたしが修治さんと肩を並べて店の外へ出てきたものですから、順蔵はとっさに物陰に隠れ、わたしたちの遣り取りを盗み聞きしていたのです。
 わたしたちの声は決して大きくはなかったし、雨は音を吸い取るので、話の内容はよく聞こえなかった筈です。
 でも、元々順蔵は小山内おさないかおるに心酔し、新劇俳優になりたくて上京した男です。『ゴー・ストップ』という単語さえ聞き取れれば、それが観劇の誘いだと推察するのは容易たやすいことだったに違いありません。
「われ、あの男に惚れておるのか」
「莫迦なこと言わないで。学生さんだから、最近話題になっている演劇の話を得意になってしていただけよ。帝大の学生さんが女給風情ふぜいを連れて、観劇なんかに行くわけないじゃないの」
「ほう。帝大生じゃか、あの男は」
「そう言ってたわ。本当かどうか知らないけど」
「親からたっぷり仕送りもろうとる、田舎出のボンボンじゃろう。われは、金のないわしに愛想つかして、あのボンボンに鞍替えするつもりじゃげな」
「そんなこと、考えたこともありません。順蔵さん、お願い。わたしを信じて。ね、だってわたしは――」
 暴力に対する恐怖から、わたしは必死になって訴えました。
 その時です。それまで仮面をはりつけたみたいだった順蔵の表情が、初めて動きを見せたのは。
 それは抑えかねる悦びにうち震えるような、断続的な笑いの発作でした。
「あくまでシラを切り通すいうんじゃ、仕方ないのう」
 わたしはこの時ようやく、順蔵の手に縄束のようなものが握られているのに気づいたのでした。
 順蔵がわたしに何をするつもりなのか、その時は見当もつかなかったのですが、得たいの知れない恐怖に、わたしは文字通り震えあがりました。
 順蔵は手の中の縄をしごくように引き伸ばすと、わたしの方へゆっくり身を屈めてきたのです……。


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