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望郷

 奇妙な明るさで目が覚めた。部屋の片隅が朝日にしては妙に仄白く、その端が布団に眠る私の顔を丁度輝かしている。それに気のついてしまうと、瞼を閉じても開いても光が眼球を刺激し、その存在を主張する。それに対抗すべく、私も布団を引っ被って寝返りを打ってみるのに、その光は執拗に私の脳をすら揺さぶった。
 奇妙な明るさの朝は、奇妙に音をもよく通す。居間の方にいるのであろう奥さんの声が、分厚い布団の中の私にまで微かに聞こえてくる。とぎれとぎれの奥さんの明朗な声。他の声は聞こえはしないが、何も奥さんがひとり言を並べ立てているわけではない。奥さんの主人である先生が、大方例のウムウムをやっているのだろう。先生は常から、奥さんが何をどう言ってもウムと答えるのである。私はここに寝起きするようになってもう半年近くになるけれども、未だ先生が、奥さんへウム意外の言葉を遣うのを見たことがない。あれでは奥さんも張り合いがなかろうと思われるが、果たして滅気ず、いつもああして話をしている。夫婦というものがあれで成っていることも不思議であるし、いっそのこと間に九官鳥でも置いておいたら、より会話が賑やかになるだろうにと私はいつも思っている。
 奥さんの声がやむと、再び静けさが訪れた。こんなに寒いのだもの、もう今日は学校はやめにしてしまおうかしら。まだ布団をも抜け出せていない時分にすら、布団で守り切れぬ肌を、冷え込んだ空気が刺すだけにも私には耐えがたい。東京に生まれ出づればこの程度、どうということもないのかもしれないが、生憎私は東京よりも遥か南の生まれである。
 東京がこんなに寒いとは、聞かされていなかった。これでは人の動ける気温の限界を超えているだろうとすら思える。この寒さの中で、否が応でも学校にいく理などどこにあるだろう。勿論私の名誉の為に言うならば、私にも向学心というものはきちんとある。きちんとこの胸の内に持ち抱き、普段は勉学に励んでいるが、しかし何もこんなに寒い中でやってしまわなくてもいいものだろう。いつも学校で隣に座っているAという男は青森の生まれらしいから、本日の勉学の権利は全権彼に譲ってしまうことにする。
 そうと決めてしまうと、あれほどまでに恋しかった布団の温もりも、一度離してみてもいいかも知らんと思えた。ようよう抜け出して、着物を取り替える。そういった自分の立てる物音すら、例外なくよく耳に響く。あの奇妙な仄明かりも未だ射し込んでいるので、冷えた手を擦り合わせながらそれを辿って障子に近づいた。そこで私の身に初めてさわる音の振動があることにようやく気がつく。耳を澄ませると、廊下の向こうでささやかな音が絶え間なく鳴っている。重いものが落ちるような、それでいて、かろやかなやわらかい音。
 そろり。その音を壊すことがないように、そろりと障子を開けると、縁側の硝子戸からいつもは見えている庭が、一面真白に覆われている。目に入る地面も、植っている木の枝にも白が載っている。代わりといっては何だが、一面真白の中で、空のみは鼠色をやると決めているらしい。ちらほらと踊る白は、雪というものであろう。この目に初めて映したそれは、当然白く、そして、眩い。雪とは白く冷たいものだということは頭に入っていたが、こうも眩いものとはついぞ知らなかった。先、私を起こした奇妙な明るさは、雲間から漏れる光が、雪に反射したものらしかった。
 これはやはり私の手には負えない。学校をやめにしておいてよかったと、その白の世界を目前に思う。

 顔を洗って挨拶をして飯を食い、それから自室へ戻ってみると、あの明るさは奇妙ではなくなっている。縁側から覗く雪雲も幾分かは分厚くなっていて、この白い平原をまた積み重ねようとしていた。
 部屋の真ん中に、炭を継いでもらった火鉢を据える。抱えるようにそれを身体で囲って初めは本など読んでいたが、どうも心が散らばっていけないので、白く包まれる庭を茫やりと眺め出した。
 私の故郷は、雪など知らぬ温暖な土地である。数年に一度、霙になり損ねたような質量の水滴が空から落ちてくるのが、やっと雪だと呼んでいるものであった。それは当然ながら積もるほどの体積は持たない。そうであるから、こうやって目に入るところ一面が雪で真白になる光景は馴染みなく、どことなく落ち着かない。見ているうちに嵩を増していきそうな雪そのものも、不思議さが受け入れ難かった。東京はまだ雪の少ない土地だから、これもじきにやんでしまうだろうが、ここよりももっと東の国ではこれが人間よりも背高く積もるのだと云う。もとは水分であるものが寒さを経て実体を持ち、人間の背を遥かに越す物体となるのだと思うと、その得体の知れなさに胃の腑がいやに締まる。そんなものが、いったいどうして空から落ちて来よう。もし何かの間違いで、私の故郷に雪が積もることがあったら? 私は雪が、故郷を覆い尽くす、そのことを考える。──生まれ育った家の瓦の上が白い。兄弟を遊ばせてやった庭木が白い。東京へ旅立つ私を家族総出で送られた、駅舎も、汽車にも、白が積もっている。私が学校を出たら、東京で所帯を持つという約束になっている女と、歩み慣れたあの通りも。──故郷を思い出す時、必ず脳裏に蘇る、がやがやとした人声と、聴き慣れた田舎言葉が、その白の前では吸い込まれたかのように無音だった。想像の中の皆が、何を話すこともないのが、またしても不気味だ。各々の声を忘れてしまったわけではない。きちんと、覚えているにも関わらず、その白の前には姿を現すことができないのである。
 ぱちりと炭が爆ぜる音に我に返る。想像を反芻する間もなく、己の頭のセンチメンタリスムに馬鹿らしさを覚えて、懐のほまれを手探った。ところへ、奥さんが顔を出す。「どうしても今日中に済ましたいことがあるのだけど、手が足りていなくて。お願いしてもいいかしら」。内容を聞けば、どうやらお遣いの用事であるらしい。どうせ暇な身であるから軽く請け負えば、奥さんは、自身の遣う言葉の音と同じように、すまなそうに笑った。

 玄関先で草履を履いていると奥さんが現れて、まあ貴方ちょっとお待ちなさい、と随分驚いた声を出す。何かあったろうかと待っていれば、戻ってきた手にはとんびとゴム長が抱えられていた。なるほど、私は軽装であったらしい。有難く(恐らく先生のお古を)受け取って玄関を潜る。外はすでに雲が半分去っていて、積もった雪が射し始めた陽光を反射していた。
 路肩に雪を寄せて歩き慣らされた路は、それでも段々射してくる陽の光に溶けた雪で水溜りのようになっている。悪い足場を注意深く歩けば、なんでもないような用事を済ませるころには大ぶん労力を使い果たしていた。このまま銭湯へでも行って長々と湯に浸かりたい。そうは言っても、出先でまた家への言伝を預かった身分である以上、そう軽々しくはいけない。
 けれどもまあ、遠回りくらいはいいだろう。家路を一本外して歩いていると、路の其処彼処で住人に出会す。普段からするとなかなか見ない光景である。家のものらは各々、雪が降ったことによる後始末をしていたらしい。
 賑やかな通りを抜けて川原に出る。その頃には、空はすっかり晴れて、朝には考えられなかった青空が広がっていた。川原は風を隔てるものがなく、びゅんびゅんと冷気が肌をなぶっていく。しばらく土手を歩いていると開けたところに出て、そこには広く、真新な雪が未だ残っていた。手付かずの平らな雪。鴨の一羽も見えない景色は、たちまち人間の気配をも吸った。肌に当たって煩わしかった風すらやんでしまう。身に滲みる静寂。気づいた時には駆け出していて、足が三寸ばかり雪に埋まっては抜けていく。ざ、ざ、とゴム長が鳴らす音を耳に抑え付けていると、ついには水辺近くまで来ていた。雪に埋まった足元をそのままにようやく立ち止まる。借りたゴム長はきちんと機能しているものの、足先には雪の冷たさが伝わってくる。焦る気持ちでその場で足を上げて戻すと、少し減った、ざ、の音がして、心なしか安らいだ。足の甲が見えなくなる程度しかないはずの雪の、それだけでも、埋まった足の周りが柔らかく重く固定されるような感覚がある。その平衡感覚を失わせる圧力を散らす方法もわからずに、私はただじっとそこで身を固くしていた。
「おうい」
じわじわと足を動かして、雪の下の、草と土の感覚を探していた時、唐突に、知った声が大きく空気を揺らす。思わず振り返れば、土手にAが立って手を振っている。同じように振り返すつもりで手を挙げたものの、私の方はといえば、平衡を失った身体がどすんと尻餅をついた。Aが豪快に笑いながら、確かな足取りでこちらへ歩んで来る。
「学校に出て来ないから、慣れない寒さに風邪でもひいたかしらんと心配して、君の家へ向かうところだった」
Aが私に手を貸す。
「そういうわけではないんだが……」
それに曖昧に返事をしつつ有難く手を借りたものの、普段通りに、にやにやした顔のAにどうにも腹が立ってもくる。こんな子供騙しのような手には乗らんだろうと思いつつも、立ち上がるために借りた手を引っ張ってやると、思ったよりも簡単にAは前のめりに手をついた。
「元気じゃないか。さては狡だな」
「そうだ。あんまり寒いんで、寒さに強い君に今日ばかりは机を譲ってやったんだ」
手を離したAが、ちょッと手近な雪を掬って私に投げつける。私はそういった遊びに幼時から憧れがあったことを懐かしく思い出して、同じようにAに雪の名残を投げ返した。

「こんな遊びは久しぶりだ。そろそろやめにして温かいものでも食べに行こう」
「ああ。大いに楽しんだ。これならば雪も悪くない」
平だった雪の原は、二人の無法者によって今や見る影もない。当の無法者二人も、溶け始めて泥混じりの雪で節操なく遊んだものだから、外套からあちこち汚れており、まさしくその様相を呈している。Aが終いを宣言したことで自らの形にようやく気がついた私は、そこで久方ぶりに言伝の存在を思い出した。「そういえば遣いの最中だった」と言えば、Aが目を真ん丸くして笑う。
「とんだ寄り道だ」
「……一度帰らせて呉れよ。奥さんにすまないから」
私の弱った声とは裏腹に、Aの豪快な笑い声が川原に響く。


盛岡デミタスさんのアドベントカレンダー(2021)寄稿です


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