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Angelus(アンジェラス) ー4ー

 黒い大きな門扉の前に、日傘をさした女性がひとり、またひとりと増えてきた。降園時間にはまだ早いが、母親たちが門の外から子どもの様子をうかがっている。美和子は、駐車場に車を停めてエンジンを切ったまま、その様子をぼんやり見ていた。

昨日、ひさしぶりに届いた元上司からのメールの文言が、頭の中に何度も浮かんだ。

「そろそろ、ちゃんと仕事に復帰してみてはいかがですか? 力になります。」

美和子は、働く女性向けのライフスタイル雑誌で編集の仕事をしていた。出産直前まで働き、十か月の育休を取得したあと、ベビーシッターを雇って職場に復帰した。ベビーシッターの費用は高く、美和子の月給は右から左に消えた。それでもキャリアを中断することを思えば安いものだと自分に言い聞かせた。育児と家事と仕事をひとりでこなす生活は、しだいに心と身体から動ける余裕を奪っていった。美和子は、ある事をきっかけに仕事を辞めた。

 そのあとは専業主婦として、琴子と夫のために過ごすと決めた。小学校受験を決心したのもそのころだ。

 眉間にシワを寄せながら、ハンドルにもたれかかっていると、誰かが助手席の窓ガラスを叩いた。凛ちゃんママがロックを指差しながら何か言っている。美和子はロックを解除した。

「どした? なにかあった? よかったら聞くよ」

乗り込んできた凛ちゃんママが言った。

「わたし、そんなひどい顔してた?」

美和子はまずいところを見られたと思い、手で顔を覆った。

「昔お世話になった上司が、復帰しないかって連絡くれたんだけど、気がのらなくて」

それを聞いて凛ちゃんママが言った。

「ああ、あのひどい先輩の居た職場?」

美和子は仕事に復帰してから、職場のとある先輩にひどい嫌がらせを受けた。何度も取材に足を運んで書いた原稿を、先輩はほんの少し直して自分の名前で上に出し続けた。美和子の働きぶりについても「出産後は全然ダメで、使い物にならない」とまわりに吹聴した。以前からフリーが書いた原稿を自分の名前で上げていたのは知っていた。でも、さすがに同僚の自分にそんなことはしないだろうと思っていた美和子はショックを受けた。先輩の頭の中にあるカーストの中で、自分は踏みつけられる最下層に落ちたのだと絶望した。

 しだいに体調にも異変が現れた。ある夜、ひどい胃痛に襲われた。胃だけでなく背中にも激痛が走り、あぶら汗が止まらない。そのうち会話もままならなくなった。心配した夫が救急車を呼び、そのまま入院となった。病名は十二指腸潰瘍だった。

 また仕事を休むことになり、追い詰められた美和子に、夫も義父母も「とにかく子どもがある程度成長するまでは、仕事は控えてほしい」と言い出した。美和子には、もうほかに選択肢はなかった。

 退職したあと、編集長から一通の手紙がきた。先輩の横暴な振る舞いに気づけなかったことを詫びる内容だった。その手紙を読んだとき少し救われた気がして、初めて泣いた。

 美和子は、頭から嫌な記憶をふり払うように言った。

「お受験が終わるまでは、私に仕事なんて無理」

凛ちゃんママが大きくうなずいて言った。

「みんなお受験の期間は仕事をセーブしてるよ」

この幼稚園に通わせる母親は、仕事を持っていると、ベビーシッターに送り迎えを依頼したり、祖父母に頼んだり、何らかのサポートを受けている。

「この園では、俊くんママみたいなお医者さんや、弁護士や大学教員のママもいらっしゃるでしょ? それくらいすごいキャリアなら仕事を続けられるんだろうけど」

美和子の言葉に、凛ちゃんママが振り向いた。

「え? 加奈子ちゃんのママ、医者だよ?」

その加奈子ちゃんのママが、ちょうど白い日傘をさして、門の前でほかの母親と楽しそうに雑談していた。美和子は怪訝な顔をして聞いた。

「え? 加奈子ちゃんのママ、お仕事してないよね」

凛ちゃんママは首を振って言った。

「いまはしてないけど、医師免許もってるよ。たしか内科だったはず。パパも大学病院に勤務する医師だよ。お受験が終わったら、ママはご実家のクリニックを手伝うみたい」

 美和子には、医師の仕事を中断してまで子どもの受験にのぞむという話が、にわかには信じられなかった。

「お受験って、そんなに……」

驚く美和子に、凛ちゃんママが言った。

「そういう人もいるってこと。そろそろ行きましょう」

降園の時間になり門が開くと、川面に浮かぶ、いくつもの花が流れ込んでいくように、日傘をさした母親たちがゆっくりと園内に入っていった。

 子どもたちは母親を見つけると、先生にご挨拶をして園庭に飛び出す。階段を降りてきた琴子も、美和子を見つけて手を振った。

「あれ? 琴子のスカートが違う」

美和子は、琴子が見慣れぬスカートを履いていることに気がついた。汚してしまって園の洋服を借りたのかと思い、先生のところへ向かった。先生も白い紙袋を持って美和子を探していた。

「コッちゃんのお母さま。申し訳ありません。ちょっとアクシデントがありまして」

美和子は何が起きたのかを早く知りたくて、手渡された紙袋からスカートを出した。

「きゃあ!」

美和子は、声を上げてそれを落とした。琴子のスカートは、裾がジョキジョキに切り刻まれていたのだ。

「切り紙の時間に、うしろにいたお友達が、間違って一緒に切ってしまったようなんです」

先生の言い訳はあまりに無理がある。美和子は琴子を見た。

「ほんと、びっくりしちゃった」

琴子は笑っていた。「間違って」など納得できるはすがない。でも琴子は素直に間違って切ってしまったのだと信じている。なにも知らない琴子の後ろで、息をひそめて敵意を向ける子どもがいるのだと確信した。美和子の呼吸は浅くなり息苦しさに胸をおさえた。鼓動がとても早い。

「誰なんですか?」

先生は、少し考えてから言った。

「早川翔子ちゃんです」

琴子の背後にある暗闇で、子どもの姿をした化け物が像を結んだ。美和子は琴子を強く引き寄せて、翔子ちゃんと母親を探して周囲を見渡した。先生がその様子を見て言った。

「あの……、翔子ちゃんは、スカートを切ってしまったあと泣き出して、少し様子が変だったので、お母様に迎えにきてもらいました」

琴子は美和子にしがみつき、顔をのぞき込んで言った。

「ごめんなさいって泣いてたから、もう許してあげたの」

美和子は琴子の手を握った。

「そっか、コッちゃんえらいね」

翔子ちゃんは、琴子になりすまして手紙を書く狡猾な子どもだ。美和子には嘘泣きだとしか思えなかった。そんな邪悪なものに、無防備で疑うことを知らない琴子が汚されることがないように祈った。

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