長香織女(べが)

小説とか、小説とか。

長香織女(べが)

小説とか、小説とか。

最近の記事

Angelus(アンジェラス) ー7ー

 乾いた風に向かって、無数の赤とんぼが、まるで隊列を組んでいるのかのように宙に浮かんでいる。同じところに留まっていたかと思うと、ブルンと羽根を鳴らして移動する 二年前、初めてこの園で夏の終わりを迎えた琴子は、広い庭を飛び回るたくさんのトンボを怖がった。ちょうど琴子の目の高さを飛ぶトンボにおびえ「ぶつかっちゃう」と言って歩けなかったほどだ。 「大丈夫、トンボは大きな目でちゃんと見てるから、ぶつかったりしないわ」 そう言って美和子は琴子の手をゆっくりと引いて歩き出した。琴子

    • Angelus(アンジェラス) ー6ー

       黄色の虫かごを肩から斜めにぶら下げて、小さなハンターが草原を進む。麦わら帽子が右に左に大きく揺れた。夏の日差しに白いワンピースがハレーションを起こしてぼやけて見える。うしろを歩く美和子は目を細めた。突然、琴子は何かを見つけて立ち止まった。山の上の沸き立つ雲に向かって、ゆっくりと虫取り網を振りかざすと、そのまま動かなくなった。 「えい!」 なぎなたを振りおろすように、虫取り網を地面にたたきつけた。 「パパ! とれた!」 琴子が、振り返り叫んだ。夫が駆け寄り網の中を見た

      • Angelus(アンジェラス) ー5ー

         フロントガラスに打ちつける雨が激しくなり、美和子はワイパーのスピードを上げた。 「クワッ、クワッ、クワッ、クワッ! ケロケロケロケロ……」 うしろのジュニアシートから聞こえてくるのは、琴子の歌う『カエルの合唱』だ。先日、庭で小さなアマガエルを見つけてからは、「琴子んちのおにわにはアマガエルがすんでるの」と幼稚園で自慢している。  幼稚園の駐車場の手前から、保護者の車で渋滞し始めた。いつもは警備員の指示どおりスムーズに車が出入りする。しかし、雨足が強く視界の悪い日には、

        • Angelus(アンジェラス) ー4ー

           黒い大きな門扉の前に、日傘をさした女性がひとり、またひとりと増えてきた。降園時間にはまだ早いが、母親たちが門の外から子どもの様子をうかがっている。美和子は、駐車場に車を停めてエンジンを切ったまま、その様子をぼんやり見ていた。 昨日、ひさしぶりに届いた元上司からのメールの文言が、頭の中に何度も浮かんだ。 「そろそろ、ちゃんと仕事に復帰してみてはいかがですか? 力になります。」 美和子は、働く女性向けのライフスタイル雑誌で編集の仕事をしていた。出産直前まで働き、十か月の育

        Angelus(アンジェラス) ー7ー

          Angelus(アンジェラス) ー3ー

           流れるような木目が印象的なウォールナットの玄関ドアを開けると、三人の母親たちが玄関ホールに置かれたランタンの椅子にかけていた。息を切らしている美和子に、ドイツ人の夫の姓で「ホフマンさん」と呼ばれている、つややかな黒髪の母親が言った。 「大丈夫。先ほど少し遅くなると、お母さん先生がおっしゃっていました」 自宅から山へ上がる道で、事故渋滞に巻き込まれ、美和子は開始時間ギリギリに到着した。ほかの母親たちは、帰宅せず近くのカフェで時間をつぶし、余裕をもって来てしていた。美和子は

          Angelus(アンジェラス) ー3ー

          Angelus(アンジェラス) ー2ー

           振り返りもせずに、お友だちとおしゃべりしながら二階にあがった琴子を見届けて、美和子は駐車場に向かった。登園してくる母親たちとすれ違い、笑顔で丁寧に挨拶する。車に乗り込むと、すぐさま凛ちゃんママからのメールを確認した。 「予定どおり、リバーカフェで待ってるね」 さっき駐車場に入るときに、ちょうど入れ代わりに出て行った凛ちゃんママの黄色いボルボの助手席には俊くんママがいた。非常勤で麻酔科の医師として働いている俊くんママは、いつもはベビーシッターに送り迎えを頼んでいるが、時折

          Angelus(アンジェラス) ー2ー

          Angelus(アンジェラス) ー1ー

           若い母親たちは白いハットをかぶった小さな天使の手を引いてマリア像の前で立ち止まった。天を仰ぎ、恍惚の表情を浮かべる聖なる女性の前で、親子は静かに手を合わせ、お辞儀する。園長先生は、真っ黒な神父の祭服に身を包み、微笑みを浮かべながらその様子を見つめている。  その先は、青い芝生に覆われた園庭が広がる。行儀よく先生に挨拶していた天使たちは、カゴから解き放たれた小鳥のように赤い屋根と白い壁の園舎に向かって駆け出した。 「気をつけてね」 母親がそう声をかけたとたん、ひとりの天

          Angelus(アンジェラス) ー1ー