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歌が生まれた日

2022年4月22日の午後14:30頃、無事出産しました。歌を。

出産って大袈裟ちゃうか? と思うかもしれませんが、本当に本当にものすごい難産でした。

思い起こせば1年前。私の誕生日にギターと歌の教室NECOのIsa先生に歌を作るには? という相談をオンラインレッスンしてもらっていた。

その時の私はまだどんなことを歌いたいのかさえイメージができてなかったはず。どうしてそんなことを相談したのか思い出してみると、その頃は母が急性胃腸炎になって救急搬送されて、その後に胃がんが見つかり退院後にまた入院を余儀なくされて、入院費とかいろいろ工面しなくては!!と必死だった時だった。

どうすれば体調の悪い母の負担をかけずに、自分に無理なく、家のことをしながら経済力をつけるか? ということを考えていた。その時にある友人がメッセージでアドバイスをしてくれて、しきりに「峰ちゃんは歌う人なんだから歌を売りなはれ」と言ってくれていたので、自分以外の人の歌では歌を売ることはできないから自分の歌を作るにはどうしたらいいのか? と思ったのが発端なんじゃないかな。

とは言え、今となっては発端なんでどうでもいい。レッスンを受けた後は、母の入院準備や対応やお金の工面についていろいろ考えたり、やりくりしたり、いらないものを売ったりなんかして、「どんな歌を歌おう?」 ということは全く考えられなかった。

母の胃がん手術が終わってだいぶ落ち着いてきた頃、たぶん秋頃かな。自然に歌を作ろうと思えるようになってきた。私が今うたっているのは、どんとの「おめでとう」に出会って、あの歌をうたいたい! と強く思ったから。そして「おめでとう」と歌い始めてから、私の人生がどんどん「おめでとう」の歌の世界の中に入っていくように変化していったこと。自分の可能性を感じ自分を肯定できるようになってきたことや、そんな私の変化を喜び、感謝を伝えられるような歌をうたえたら…と思えた。

どんな歌詞を書いたらいいかわからなかったので、どんとさんへ手紙を書くことにした。手紙を書いたところでどんとは天国にいる。読んでもらうことはできない。でも「届けたい」「伝えたい」という気持ちで手紙を書いた。その手紙の中の文章や、書いた時に感じていた自分の気持ちを歌詞にしてみようと何度も書き直しながらメモのように書いていた。

それでもやっぱりなかなか歌は出てこない。そんな中、たまたまFacebookで知った徳田博丸さんの予祝インタビュー会に参加してみた。余祝インタビューとは、その人の夢をすでに叶った前提でインタビューして気軽にビジョンを引き出そう! みたいな感じのもの。参加費は1000円以上10,000円未満で、その料金はすべて沖縄の首里城再建の寄付金になるという。

どんとへの感謝の歌の完成を余祝してもらって、それがどんとが晩年済んだ沖縄の首里城の寄付金になるなら、めちゃくちゃいいやないか! と思って参加してみた。

この日ぼんやりしていてノーメイクで寝癖もつきまくっての参加動画だけど思い切って公開しておきます…。

インタビューで歌が出来上がった自分をイメージするのは面白かった。インタビューを受け、その時湧き出たことを嘘でもいいから答えるという千本ノックみたいな感じなんだけど、自分でも「ようそんなこと言うたな!」ってことも言っています…。余祝インタビューを受けて、「確か桜が咲く頃に歌ができたと思います…」と言ってみたり、(誰に聴かせたいか?)ということを具体的にイメージしたことでモチベーションが上がって、具体的にどういう行動すればいいかがわかってきた気がした。

浮かんだフレーズをメモしてみたり、自分がこれはどうかな?というコードを弾きながら、適当に♪あーあー声を出してメロディらしきものを作ってメモ録したり。

そんな風に地道に歌作りをしていたけど、なかなか「これ!」ってものが出てこない。悪くない。悪くないんだけど、これじゃない! って感じ。

もう歌は生まれないんじゃないかな…と思っていた矢先、ふとお腹の底から沸き上がる想いが溢れた。4月の初めに京都に行って、新作能の「媽祖」を観劇して、平安神宮に参拝して、そこから友達と待ち合わせたカフェに行くのに川沿いの桜並木を歩いて、京都の桜にたくさん触れた。桜を見ている間に思い出したことがある。「桜を見ると高倉健になりたくなる」と言った人のこと。


そういえば、どんとの出会いは、その人が京都大学西部講堂で「どんと飛び出せ屋根の上」というイベントに出るのでよければ観に来てくださいと誘ってくれたのが始まりだった。



京都大学西部講堂の存在も知らず、どんとが死んだことは知っていたけど、どんとの曲も、そのイベントに出ている人たちのこともほとんど知らない。だけど誘ってくれたから行ってみようと思って出かけた。でも、へそ曲がりな私は当日観に行くことは言わずに、ライブを観終わった帰り道に電話して「観ました」という報告をした。

そうか、どんととの出会いも、「おめでとう」との出会いも、あれが始まりだったのか。そう思ったら、いろんな感情が湧いてきて、それが歌詞になっていった。コード進行も出来上がった。あとはメロディとなったけど、そのメロディがなかなか定まらない。ほぼ毎日ギターを片手にコードを弾きながら自分が書いた詩を見て適当に歌ってみる。歌い出しの部分は少し定まってきた。でも、これはひとりでは無理だと思って、歌とギター教室NECOにヘルプを出した。そして、私だけでは無理だから客観的に聴いてもらいたいと里帰り出産で西表から姫路に帰省しているミュージシャンの三木ちゃんを誘って、歌作りの最終レッスンを受けることにした。

当日のレッスンは三木ちゃんの愛娘のつばめちゃんのベビーシッターをIsa先生のご家族が引き受けてくださり、万全の体制の中でレッスンがスタートした。



だけど、自分が作った歌をうたおうとすると怖くて口から出てこない。自分ひとりでこの歌をうたってみた時も何度か涙が出たので、もしかしたらレッスン中に泣くんじゃないかな…とは思っていたんだけど、出てくるのは歌ではなく涙だった。歌おうとしても声にならないで、ただただ泣くばかりで、仕方なくコードをずっと繰り返して、何とか泣きながらうたった。


20年間誰にも言わなかった、自分でも気づいてなかった想いを表に出すことは本当に怖かった。見られるのも聴かれるのも怖い。そして一番怖いのは、それを判断されること。否定されること。バカにされること。自分の本当の本当に感じてる大切な柔らかなものを誰かにバカにされたり、否定されるくらいなら誰にも見せずに、自分さえもどこにあるかわからないように閉まって忘れようとしてたような気持ち。自分も感じないようにしていた気持ち。それを表に出すのは本当に怖いし、恐らくその気持ちが大事過ぎて執着になっていたんだと思う。その大切な気持ちを手放したくないというようなエゴみたいなもんがあったんだと思う。

ただただ泣く私に、Isa先生は「出会ってしまったもの、生まれてきてしまったものは事実だから仕方がない。歌は生まれてなければ、そんなメロディになることもないんだよ。峰子ちゃんがこれを認めてないだけで、認めることが大事なんだと思う。認めなければ始まらないんだよ」という言葉をかけてくれた。

歌とは何か。音楽とは何か。Isa先生が語る言葉には、Isa先生が音楽家として、ミュージシャンとして歩んできた道のりに磨いた魂の結晶のようだった。泣きながら、ただ話を聞く私に「この歌は一旦、ここで終わらせて次に行ってもいいんじゃないか?」という提案をIsa先生がしてくれた時に、「それは嫌だ!!」という強い気持ちが湧いて「これを完成させないと次にいけません」と口から出た。私が言ったというか湧き出た感じだった。

そこからなだめるモードから本気モードへ。そしてIsa先生が私が考えたコード進行を、私が弾いて歌いたいであろうリズムと音で奏でてくれたことで、やっと歌が口から響いて私の歌が産声を上げました。


歌を生むことがこんなに大変だと思わなかった。歌をうたい始めてから、いろんな人に「あなたの歌が聴きたい」「あるでしょ? 言いたいこととか」と言われたけど、私は大好きなどんとの歌や弁天太朗の歌をうたうのがただただ気持ちよかったし、私が言いたいことは文章で書いているし、歌にする必要があるんだろうか? と思っていた。あまりにオリジナルを作った方がいいと言われるので何となく作ってみても暗すぎて歌うのが気持ち悪くなる。こんなもん歌えない。ずっとそう思ってた。

歌が生まれた日。レッスンが終わった後はぐったり疲れて、家に帰ってからも無性に涙が出て、何十年ぶりに泣き疲れて眠った。翌日の朝もまだその余韻で泣いていた。こんなにも、歌に込めた私の気持ちは悲しく切なく愛しく大切だったのか。

ずっと人に見せたくなかった私を表に出すことで丸裸で泣いて生まれた歌。本当に出産みたいな苦しさと喜びだった。私と一体になりすぎた想いや気持ちを乗せた言葉が、私から離れて自由になって解き放たれていく。

レッスンの最後にIsa先生がリードするギターで、私もギターを弾いて歌った録音の音源がある。それを聴いて、しっかり歌を覚える為に録音したもの。聴けば聴くほど愛しくなり、恥ずかしさはもうない。私から自由になった歌はまだ赤ちゃんだけど、私とは違う人格を持った別人だ。そんな大切な歌が私から生まれたことをただ喜び、この歌を大切に育みながら歌っていこう。お世話になった人や大切な友人たちに少しずつ聴いてもらえるように大切に歌い続けていこう。

この日のことを忘れたくなくて、去年Isa先生の音源作りのレッスンを受けた際にメモしてた手帳を出してみると、こんなことが書かれていた。

すっかり忘れてたけど、この通りになっていた。なんて不思議で濃密で愛しい時間だったんだろう。

この日のこと、この歌への想いを大切に忘れないでいたい。

忘れられない歌の生まれた日のことを。



このnoteを見て、うたとギター教室NECOが気になった方は、こちらのリンクでご確認ください。めちゃくちゃおススメです。

またIsa先生はすばらしいミュージシャンで、本当に繊細な世界を音に紡いでいます。




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