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実は世界は単純なんじゃなかろうか

何かうまくまとまらなかったり、どこへ着地するかわからないけれど、湧き出してる事を書きます。

ちょっと前から思っていたのだけど、「この世界を自分がどう感じてどう観てるか」で、全然違うんだな。

世界に限らず、対象は人でも、物でも。どう観るか?で違う。どう信じて観てるか?って方が正確かな。量子力学とかって、そういうことなんじゃないかな。


例えばオオイヌフグリをどう観るか?とか

ちょっと前に職場に新しく入って来た方から、どうやら私はものすごくいい加減で、人のことをまったく考えてない人だと思われてる感じをビンビン受けてた。何かやたらキツい口調だったり、私が言った言葉に目くじら立てて睨んだり。しかも本人はそれが顔に出ていたり、不信感丸出しの口調になっていることは気づいてないようで、それが逆に何か怖かった。

私のことをいい加減で人のことをまったく考えてない人だと思って観ているので、その証拠を探すようなことを言ったり態度に出ていたりする。笑顔で挨拶されたり話しかけられると逆に何か怖くて必要以上に話したり近づかないようにしてる。

自分がその対象になっている時は居心地の悪さを感じるからわかるけど、でもこういうことって無意識のうちに自分もしてるなって思う。

世の中のいい人・わるい人っていうのも、自分がどう思ってるかで作ってるものだし、もっと言うと自分の都合で判断してるだけ。

私はたくさんしてきたな。勝手に疑って、勝手にひどい人だと思って、勝手に怒ったり勝手に悲しんだりして。自分がそう思ってるだけなのに。本当はものごとはもっとニュートラルなのに、自分が人や世界を悲観的に観てるからってだけだと言うのに。

そして人や世界だけでなく、1番に自分に対して辛い見方をしてきてたなと思った。

人からたくさん嫌なことを言われた。その嫌なことを自分だと信じてしまった。中には腹癒せにとか、捌け口的に言われた言葉もあるんだろうけど、それを間に受けて自分はそういう人間なんだと信じてきてしまったところがある。

そう言われたから直さなきゃいけない。これからは言われたことをしないようにしなきゃいけない。そうやって自分をがんじがらめにすると、むしろ逆効果で、より人も自分も不快になる出来事が起こる。それがずっと不思議だった。そして、言われた通りにできない自分や、思うように生きられない自分が嫌になってしまう。消えたくなる。人も世界も怖いし、何より自分が何するかわからなくて怖い。それは恐怖に支配された世界。

根源が恐怖だから、ズレまくってたんだなぁと今はわかる。源に恐れや不安があれば、自分を守りたくなる。人から奪われないように警戒する。自分を傷つけようとするように見える人に牙を剥く。そういうのを世間はエゴって言うんだな。割とずっとそんな世界に居たと思う。

そんな世界は嫌だ! 自分や世界を変えたい! みたいに思っていたんだけど、ふと何かわかったんだよ。

最初から変わる必要なんて何もなかったということを。

褒められるより貶されることが多かったり、変だと言われたり、好かれるより嫌われることが多かったと「私自身」が感じていただけで、実はそうじゃなかったのかもしれない。私自身をよくない目で見て、嫌な面ばかりを信じて、疑ってばかりいたのは私だった。そりゃあ生きづらいわ。

ならば、もっと優しく愛でるように私自身を観れないものかなと思った。失敗を指摘するんじゃなくて失敗しても励ますとか、できない部分を責めるんじゃなくてできることを褒めるとか、コンプレックスを感じる部分に悲しむんじゃなくて自分が好きで可愛いなと感じる部分をしっかり見てあげるとか。


実は最近までメンタルが絶不調で何か疲れきっていた。疲れてnote書きたい!と思っても書けなかったり、湧いてきたことを言葉にしてまとめられない!と思っていたんだけど、うまくまとまらなくても湧いてきたり書きたいなら書いていいよって自分に思えたんだ。

そんな風に思えたら、何故か職場の人の態度も変わってきた。この世は写し鏡って聞いたことあるけど、本当に自分がどう信じて観てるか?ってだけの単純な世界なのかも知れないね。

そんなことをふと思って、言いたくなりました。


最近見つけた子どもの頃の私(1番左)。この感じでいいんだと思う。


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