小説「裏面のバランス」第2話「ポリシー崩壊」

朝を迎えたことに気付かなかった。
それぐらい、暗い朝だった。

「なんか、寒くね?」

大学3年生の夏。実家暮らしの俺ー鹿田裏面は自室の異様な空気感にひとたび欠伸すらも凍る思いだった。
20年も過ごしてきたこの部屋が、まるで異空間になったような気分だった。
それに、昨日の記憶がやけにぼんやりしている。
トレーディングカードを買おうとしてイオンモールに行って、でもやっぱり買えなくて。
それでイオンモールを結局出てから、ふと思いつきで近くの河川敷に向かったのだ。
そこからの記憶が、やけに曖昧だ。

この体験がキモすぎる。

人生20年目にして初めての感覚だった。

部屋の中にある棚。
棚の上にあるクマのぬいぐるみ。
クマのぬいぐるみに縫われた目。
目の中に潜む若干の闇。
闇の奥にぽつり存在する何か。

それを感じ取って身震いしていることに気付いた瞬間、世界全体が敵になった気がした。

「か、母さーん?」

そういえば、昨日イオンモールに行く前は公園に行ったのだ。
その記憶もやけにぼやけていて、全く何をしたかーそもそも何をしに行ったのかその目的意識すらも揺らいでいる。
母親に問うてみれば何かしらのヒントが出るかもしれない。
そう思って、夏休みの息子の気だるげな声を聞かせた。

しかし、10秒待っても20秒待っても母親の返事は聞こえてこない。

それどころか、冷えきった空気感が更にその様相を増しているようにすら思えた。

なんか、やばいんじゃないの。

直感でそう思った俺はすぐにベッドから飛び出して、コンセントに刺さった充電器をぶち抜いてスマートフォンを片手間に取った。

「な、えっと......」

今の自分が酷く妙な体験に誘われていることに漸く気付いた自分は、とりあえず日本で広く使われているSNSのアプリを開いた。
しかし、そのアプリすらも初期画面の表示から何も変わらない。本来ならその画面から移動して他の人の投稿が見れるようになったりするのが、今は真っ暗な画面(初期画面)しか見えない。これはどうしたものか。

ダッシュで部屋を出た。
青いパジャマの袖をまくって、ひたひたと汗が垂れている身を少しでも冷まそうとした。
リビングに行くと、キッチンに母親が立っていないことに気付いた。
ウチは毎日7時頃になると母親が朝飯を作ってくれている。
なんだけど、今日はその母親がキッチンにいない。
卵も米も、その匂いすらしてこない。人の存在がそもそも家の中にない気がする。

「おいおい、まじかよ」

必死に探した。
全てのドアを開けた。
しかし、誰もいない。人っ子一人いないのだ。
おかしい、おかしい、こんなの、。
気が動転していることが客観的に分かっていた。
ただ、その状況を打開する策などなかった。

「な、な、んで?どうなってんの」

それでいて、世界の気温が10度ぐらい下がっていないか?
なんか、夏なのに冬みたいな...8月だよな今。
やめてくれやめてくれ。ビビりにホラー展開は耐えられないよ。

親の寝室のクローゼットを開けた時に、ふと身体に稲妻が走る感覚があった。
テレパシーが直接脳に届くような、そういう閃き。
確かに声が聞こえた。助けて、とかそういうベタなSOSサインじゃなくて、もっとか細くて...それなのに力強い感じ。

「え、誰?」

つい声が漏れた。その声を感じ取ったのか、脳内のか細い声がより一層トーンを上げた。
ボリュームも若干大きくなっている。
なんだ、なんだ。明日の...明日の、って言ってるけど。必死な感じではあるけど、でも確かにしっかり伝えたい感じ。

「明日の、Xデー」

って、言ってるな。これ。
Xデー?何のことだか。
俺からしたら今日がXデーだ。
何か世界に変化があったとするならば、それはきっと今日だろう。
今日以上に、世界が狂い始めた日はないだろうに。

「あ...」

頭の中の声が止んだ。
なんか、女子中学生ぐらいの声に聞こえたけど。
なんだったんだろう。もっと色々話しかけてきてた気もするけど、明らかにメッセージ性のあるものだったような。
しかし、聞き取れたのは明日がXデーであるという情報のみ。
それ以外は、何も思い出せないし何も想起できない感じ。

俺は焦りからか安心感だけを求めて、パジャマのまま外に駆け出した。
すると、やはり人気がない。
この世界から、人が丸ごと消えてしまったのか。
バイクも走ってない。自動車も、自転車も。
唯一、太陽だけが光を放ち続けている。この寒気から想像できないほどに照り続けている。
しかし、その光は若干の闇を帯びているように見えた。

そして、

「貴方、何してるのよ」

妙に聞き馴染みのある声が聞こえてきた。
あ、と声がまた漏れた。しかしそれは、少しだけ安堵の意味も籠った声だった。
何故なら、玄関の先にいたのは随分見慣れたような長髪の女だったから。

「あ、お姉さん...」

泣いてしまった。
自分という存在を認めてくれる存在がこの世にいること。
それを認知した瞬間感情という感情が涙の形でシャワーのように溢れ出してしまった。

本当に、良かった......。

「お姉さんじゃなくて、エスパー少女ね」

そう。目の前に立っているのは黒スーツにネクタイ、黒いズボンとサラリーマンのような格好を決めたーーー例の女だった。
その人が「例の女」であることに、俺は今気付いた訳だが。なぜ今まで思い出せなかったのだろう。
しかしまあ、公園で出会っていきなり嘘をついて、その後勝手に逃げ去って......。

「ごめんなさい」

咄嗟に出た言葉だった。
黒スーツお姉さんは手元の腕時計をパッと見て、それから視線を俺の方に戻して、やれやれと言った様子を見せた。
謝るな、みっともない......とすらあんまり思ってなさそうだった。
なんというか、来たるXデーに備えて俺のところに来たんだろうけど。
それにしても、装いから何まで完全にスイッチが入ってしまっているように見えた。
なにかに急いでいるようにも見える。腕時計をしきりに気にしているし。

「いいから。貴方ね、もう嘘はついちゃダメよ」
「はい...ほんと、すみません。お姉さん、すっかりおかしくなったと思って、逃げて......」
「おかしくなってなんかない。あれはただ、危険を察知した『ETA』が私を転送しただけ」

知らない単語がまた出てきた。
ETAってなんだ、教育系の組織?

「まあ、教育系の組織ってやつね。貴方は知らないだろうけど」

当たってんのかい。
というか転送って、エスパーらしき単語を引っ張り出してくるのが本当に上手いな。
いや、この期に及んでエスパーの存在を疑うのは違うかもな。世界が実際に歪んできているわけだし。

「なんの略なんすか、」
「ああ、ETA?エスパートランスポートアソシエイションの略ね。エスパーを教育管理して、実際の現場に飛ばしたり...逆に危険があったら呼び戻したり......ある意味エスパーの総本山かも」

そんな出荷物みたいなノリなんだな、と思いつつ。
俺は緩んだ表情を引き締め直して、お姉さんの瞳を見つめ始めた。

「ちなみに、なんで転送されたんだ。俺が嘘ついたからか」

するとお姉さんは指を差して感情的になり始めた。
余程嫌なことをされた...というか、転送で呼び戻されることがエスパーにとってはもしかして不名誉なことなのかもしれない。
それほどに、お姉さんは激昂している。

「そう、そう、そう!貴方ね...はあ。説明すると長いからいいわ。とにかく貴方は嘘をつかないで頂戴。あなたの嘘はあなた自身を苦しめることになるんだから」

これからの人生、嘘をつけなくなってしまった。
嘘の程度によるのかもしれないが、基本的に俺がつく嘘は何かしらエスパーにとっては影響を及ぼしてしまうものらしい。

「......気をつけます」

歪み始めた世界への適応力があまりに高い俺は、エスパー黒髪ロング高身長お姉さんの細い指を目で追って、その指が差す方向に自分という異常生命体がいる状況に少しだけワクワクしていた。
この先二度と味わえない体験かも......。
いや、これまでの日常こそがもしかして、もう二度と味わえなくなってしまう可能性がある。
その可能性に思いを馳せながら、今日という日がとりあえず始まりを迎えてくれたことに少しだけ期待した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?