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イブの原罪とわたし

【哲学としての宗教】
あなたは神を信じますか〜
といえば
子どもの頃は何故か
だれかお笑い芸人のモノマネでした。

さてわたしは
小学の同級生に
●教会というところは日曜学校というのをやっている
●教会に行くと色々考えられる
●神様に懺悔するとつきものが落ちるらしい
●教会では大人も子どもも賢い人にしか会わない
という情報を真に受けて
近所の教会に勝手に訪れて
毎週通ってきてもいいか訊ねて
いいと言われたら通う
という趣味を持っておりました。

重ね重ね変な子だと思いますが
救いが必要だったのでしょう。
変な教会に行かなくて良かったです。
また
当時小学生の子どもが
「遊びに行ってくるねー」
と言っても
「気をつけてねー」
というだけで親子とも問題なかった
というのも良かったのでしょうが。

今ならありえんですね。

そしてこの半年ほど
いくつかの模写をしていて
すごく不思議だなと思うのが
「イブ(もしくはエヴァ)」の描かれ方。

アダムとイブですが
禁断の果実を蛇の誘惑で
食べてしまったことで
これまで裸だったことが急に恥ずかしくなり
葉で体を隠した
ということは皆ご存知と思います。
それを見た神様が
禁断の果実を食べたことに気づき
ふたりは楽園を追われ
アダムは汗水たらして働くことで
生活を成り立たせることを罰に課せられ
イブは
苦しんで子どもを産むことを
課せられるのです。

楽園において
アダムは最初の男で
イブはアダムのあばら骨から
神様が作られた女でした。

この原罪を与えられる前のふたりは
「苦しまなくても子どもを産み育てられる人たちだった」のか
「そもそも性愛(恥じらい)がないから子も成さない」関係だったのか。

おそらくですが
後者でしょう。

イブが実を収穫するシーンは
色々な宗教画に描かれていますが
たいてい
イブがすごく美しくて
しかも上手にお股を隠すように
膝を閉じて
必然的に身をくねらせて
立って実をもいでいる。

「ちょっと待てーーー」

と思うわけです。
「ちょ おまwww
 実を食う前に恥を知っとろうが」
とね。
(これは特に方言とかじゃなく
 ノリよくツッコみたくなっての
 言葉のチョイスなので
 軽く流してください)

そこで
身をくねらせずに実をもぐ
イブを描こうとしたところ
違う意味で色香漂う絵になってしまったので
(模写じゃない裸婦を描くのは
案外照れくさい)
蛇を手前に立たせました。
何かで
「蛇と書いてあるけど
 必ずしもニョロニョロしてなく手も足もあった」
と読んだか聞いたかしての
姿になりました。

するとイラスト全体が
なんか原始的なゲームの
原始的なキャラデザインみたいになって
なんかもう何をしたいのか
わからなくなりました。

今日は飲んでませんけど。
結論もありません。

さてわたしは今も
特定の宗教は持っていません。
キリスト教に興味を持ったあと
仏教に突っ込んでいった時期もありますが
基本的には
物理的に作用しないものを
信じることがわたしにはとても
困難なのです。

ただ哲学に救いを求める魂の存在は
わたしにもあることは
わかります。
(この場合の魂は
 霊魂ではなく世界観の呼び名のひとつです)

そして
そのことを考えていることは
今も嫌いではありません。

わたしはどこで生まれどこに行くのか。

ただひとつ
わたしはひとつだけ
信念があります。

それは
生と死についてです。

よく
人間ひとりで生まれ
ひとりで死ぬと言いますね。

違います。

たしかに
残念ながら
死ぬときはひとりかもしれません。
しかし
生まれた瞬間
母体から生まれなかった人はいません。

だから母を思わなければならないとは
言いません。
しかし
あなただけの命ではない。
どんなに孤独に感じても
孤独から出発しているわけではない。

まあそう考えるとわたしの場合
いろんなことに
踏みとどまれる気がします。

世界中に孤独な人が沢山いて
何故に孤独と孤独が出会って
埋め合うことはできないのかとか
どんなに富があっても
苦しみや悲しみと完全に無縁になれないのは何故かなど
ここでは
語り尽くせぬこともありますが
出発は
(それが望まれてあったことかどうかは
 問わず)
人間は「孤」からは始まれない。

そこが出発点と考えることが
それが仮に原罪からの出発でも
人間らしい出発だなと
思って意欲が湧いてくるのです。

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自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。