見出し画像

あうとぷっとのれんしゅうⅡ

ねぼう

最近寝坊がひどい。

「一秒前」でも「一秒後」でもなく「今でしかない」と感じさせる謎の正当性と共にごくごく自然な流れで開かれた目が、スマホの画面にあるハズでも、あるべきでもない「9:00」の表示を捉える。

「あぁまたやっちゃったか」と静かに思い、ベッドからのそのそと出る。親も既に仕事に出ていて、不気味に静まり返った家の中を歩き回る。

いつもは一時間かけて、朝食を食べ、寝ぐせ直しを兼ねたシャワーを浴びて、服を決めて、髪の毛をセットして、パソコンとか本とかをリュックに詰めて家を出る。

寝坊してるときはそんなことしてられない。

顔を洗った後の手で寝ぐせを直そうと髪の毛をいじる。

もとより、「え、逆さまで寝た?」ってなる位寝ぐせが酷いのだが、最近かけたパーマのせいでより一層頑固さを増し、濡れた手程度では全く歯が立たない。

無駄な抵抗を諦めて、歯磨きだけして家を出る。

こんな感じで二時間以上寝坊をして、慌てて大学に向う日が二日連続で続いている。

毎日10個くらいアラームを小刻みにセットしているのに、どうも寝坊は無くならない。

高校生の時あまりにも寝坊が多すぎて、最終的には寝坊しただけで学校全体の放送で「○○!!!今すぐ職員室こいッッ!!!!」って呼び出されてたことを寝坊をする度に思い出す。

バイト終わりに帰ってきた部屋には今朝の僕の抜け殻が落ちてた。

ムリョクに、ムキリョク

だらだらと大学に向い、だいぶ前から授業が始まっている大教室の後ろから入り、真ん中らへんに座る。

最近、というか今日、自分の傾向として、「いいスタートを切れなかった日はとても無気力である」ということを知った。

自分の強みは知的好奇心だと勝手に思って、そこにいっぱしのプライドをもって高校・大学と歩んできた。

しかしながらこんな日はその強みも全く仕事をしない。

自分が楽な方への諦めは結構いいし、自分の超自我にあんまり期待をしていない方なので、「怠惰への誘い」に対する無力感と共に「うん、無理だ」と早々に諦めて「何とか今日一日を過ごしきる」ことを目標に設定しなおす。

別の授業でも、とてもレアな職業の方から貴重なお話を聞ける機会があったのにそこには全く関心を向けることが出来ず、友達が書いたnoteを読んでいた。

あいつが書いたnote

大変貴重なゲストレクチャーを横目に読んだ友達のnoteはとっっっても素敵だった。友人がどんな奴で、何を考えているのか大体は知っているつもりになっていたが、そんな幻想を気持ちよくぶち壊された。

え、そんな人生生きてきたんだ、
あ、だからお前はあの場所が好きなんだ、
うーん、やっぱりあの時の心の傷はデカかったんだね

色んなことを伝えなきゃと思えたし、そいつのことをより知れたからこそ、会いたくなった(そいつ、大学サボってイチゴ食ってたけど)。

おもろかったよ、と連絡したらその瞬間にそのnoteを削除してしまった。

一人に読まれれば十分だよ

らしい。なんだそれ。めっちゃ素敵な文章だったのに。てかその「一人」、僕で良いん?笑

内容もさることながら、気になったのは彼の文調だった。

とても表現力豊かで、情景がとても容易に浮かび上がってきた。純粋に感心した。こんなに人の個性って文章にでるんだ、と驚かされもした。

インプットとアウトプットと文章の美しさ

人間が書く文章はひとえにその人がどんな文章を読むか、に大きく準拠していると思う。つまり、インプットとアウトプットが直結しているということだ。

僕が読むのはもっぱら授業で使う政治学の本で、小説を読む機会がかなり少ない。読むとしても三島由紀夫とか、なんか一見回りくどくて意味を理解するのに少し時間がかかる方が好きだ。

理解のために費やす時間が、文学を成立させるために不可欠の「読者からの働きかけ」に自分が従事している実感を僕に与える。そしてそんな作業と、空間・時間共に異なる作者の創作活動とが接触した感覚の隙間から僕にとっての「美しさ」が滲み出てくる。

要は、わかりにくくて、何か回りくどくて、でもそれらを乗り越えた先にはこれ以上にないほどに明快で正確で純粋な表現が隠れている、そんな文章が好きなのだ。

だからこそ、僕が書く文章は無駄に漢字が多くて、回りくどくて一見分かりにくい。別に自分の好きな文調がそのまま自分から表出している訳だから、そのこと自体を嫌厭することは無いが、友人のような柔らかく詩的な文章も書いてみたいと今日彼のnoteを読んでいて感じた。

だから、今回書き始めはそのことを意識して前回よりは大分柔らかめな文調にチャレンジをしてみた(単純に口語なだけかもしれないが)。ところが少し筆が乗ってきたらどうだろうか、三つ前の段落から大分怪しい。

理解のために費やす時間が、文学を成立させるために不可欠の「読者からの働きかけ」に自分が従事している実感を僕に与える。そしてそんな作業と、空間・時間共に異なる作者の創作活動とが接触した感覚の隙間から僕にとっての「美しさ」が滲み出てくる。

なに言ってんだろ?いや、自分はこの文が一番しっくりくるし、僕の頭の中にあるモノをこれが一番正確に表現してくれると感じるけど、人が読んだ時にスッ、と入っていく部類の文章では無いことくらいは想像できる。

まぁいいや。何が言いたいかというと、たまには丸山眞男とかから離れて、表現力豊かな小説とか、考える余白が素敵な文章をもっと読んで自分もそういう文章を書けるようにもなりたいな、ということを言いたかった。

最後に三島が自身のイデア界への憧憬の念と、理想と現実の乖離に対する苦悩を美しく表現した大好きな箇所を引用。

私の現実生活における行為は、人とはちがって、いつも想像の忠実な模倣に終る傾きがある。 想像というのは適当ではない。むしろ私の源の記憶と云いかえるべきだ。人生でいずれ私が味わうことになるあらゆる体験は、もっとも輝やかしい形で、あらかじめ体験されているという感じを、私は拭うことができない。こうした肉の行為にしても、私は思い出せぬ時と場所で、(多分有為子と)、もっと烈しい、もっと身のしびれる官能の悦びをすでに味わっているような気がする。それがあらゆる快さの泉をなしていて、現実の快さは、そこから一掬の水を頒けてもらうにすぎないのである。
たしかに遠い過去に私はどこかで、比びない壮麗な夕焼けを見てしまったような気がする。その後に見る夕焼けが、多かれ少なかれ色褪せて見えるのは私の罪だろうか?

『金閣寺』三島由紀夫

「最後に」の後に

前回noteを初めて書いてから感じるようになったのは「何かを考えきゃ」ということだ。何の圧力かは分からないが、「noteによる自己表現の気持ち良さ」を自分の心が「もう一度」と求め続けてくる。でも特にこれといった書きたいことが無い。だからこそ「何かを考えなきゃ」という切迫感が僕の真後ろをついて歩いてくる。

この気持ちとどう付き合っていいのか分からないからとりあえず、何も考えず書きたいことを書いてみた。

多分これは理想的なnoteの使い方じゃない。もう少し時間を置いて、「書きたいから」かつ「書きたいことがあるから」という二つの条件をクリアした時にのみnoteを開こうと決めた。そうしないと、ただ今やるべきことから逃げたいがための手段になってしまうから。(今がまさしくそう)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?