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あうとぷっとのれんしゅうⅢ

今日は16時くらいまで寝てたから夜が長い。課題をやる気にはならないので暇つぶしになんか書いてみる。提出期限まであと一週間もないのにどうするつもりなんだろう?

しらねっ!

友人が多い人

僕は「友人が多い人」があまり得意ではない。

単純に、近さ・深さ共に丁度良い程度で維持できる人間関係のキャパシティが小さく、友人を多く作ることが出来ない僕のひがみと言われればその通りかもしれない。

持論はこう。(誰かの受け売りだけど)

10分の1と100分の1

自分に10人の友達がいて、そのうちの一人であるAさんには100人友達がいるとする。

自分にとって、Aさんは自分が持つ人間関係の1/10を占める存在である。だから自分は脳内のエネルギー予算委員会が決めた「人間関係用」に当てられたうちの1/10を、Aさんとの関係性において消費する。

自分の持つ時間・身体・精神という資源の一部をAさんに捧げるのだ。(もちろん、相手によってその親密度は変わるからぴったり1/10とはいかないけどまぁあくまで理論の世界なので、そこは、ね?)

一方同じロジックで行くと、Aさんにとって自分は1/100の存在であるため、Aさんが自分のために消費する諸々はAさんの持つ1/100でしかない。自分が自分の持つ1/10をAさんとの関係性に捧げるのに対して、Aさんは自分の1/100しか消費しない。

なんか、アンフェアじゃない??

「この人と友達でいたら~」とか人間関係に損得勘定を持ち込むのはいっちゃんダサいし、しょうもないことだと思う。

でも、どうせだったらそれが高かろうと低かろうと、自分と同じ程度の価値をその関係性に見出して、同じレベルの献身をしてくれる人と一緒にいたい、共にその関係性を構築したいと僕は感じる。

よっ友はお互いに「こいつはよっ友」と認識しているからその関係性が続くのであって、その均衡を一方が崩そうと試みる行為は一種の裏切りであり、互いの心地よさを崩壊させる。(そう思うと友人に対する片思いって、「ロマンチック」のレッテルを勝手に張り付けた信頼関係の破壊行為の類であるとも捉えられるのかな)

とかなんか「論理的」に聞こえるような事を言ってるけど、多分ホントのところはただ、友人が少なくて自分だけがその人に依存してるみたいな、片思いみたいな構図に陥るのが嫌なだけなのかもと思ったり思わなかったり。

互酬性

互酬性とはめちゃくちゃ簡単に言ってしまえば「なんかもらったらおんなじ量の何かをお返しする」というルールである。

人間関係において互酬性は大変大きなパワーを持っている(と思う)。

どっかのお土産もらったら、自分もどっかに行ったときには同じ値段帯のお土産を買ってくる。

好きな人を教えてもらったら自分の好きな人も言う。

可愛い動物の動画が送られてきたら、自分もお気に入りの猫の動画を送り付ける。

セーターのお返しに、アップルパイをごちそうする。

少し皮肉っぽい感じでイジってきたら、同じ、もしくはそれより少し多い毒量で「お返し」する。(これが最終的に行き着く先は、何を言われても中指をたてながら「お前が死ね」しか言わない、言語と理性の無駄使いの他何ものでもない会話である)

普段は人間関係において「自分が気楽か」「その時が楽しいか」位しか判断基準は無いし、何も考えていないことが多い。ここまで書いておいてこんな「貸し借り」みたいな基準で人間関係を考えたことはほぼない。

しかしながら、人から何かを「伝えてもらった時」はこの互酬性のことを思い出す。

他の人には言っていない何かを自分だけに伝えてくれた。

そのことは僕にとっては何よりも価値のある贈り物であるように感じる。

自己開示の一環として自分の大事な一部を相手に知ってもらおうとする行為は、相手への敬意と信頼と愛情を伝える一番のツールだと思う。

好きな人、将来の夢、自分なりの生き方、将来への葛藤、悩み、誰にも話してない過去、何を考えて生きているのか、胸に抱くもやもや

そんなことを誰かから伝えてもらうと、自分を「ここまで話しても良い・話したい相手」として認識してくれることの嬉しさと、そこまで信頼してくれることの誇らしさで何だかくすぐったくなる。

と同時に互酬性を思い出して、こうして信頼してもらったなら、何かを返さなきゃと考える。

お返しのしかた

大抵何かを伝えてもらったらまずは、その行為と気持ちに感謝を表して、自分にも同レベルで渡せる「自分の一部」が無いか脳みそのタンスを探す。

自己開示には同程度の自己開示。それが公式。

しかしそれがうまくいかない時があった。よくよく考えれば当然のことだ。誰一人同じ人生を生きていないのであって、その個性と特異性によって「自分のこれまで」とどうしてもアナロジーを描けないような経験を誰かがしていても何ら不思議ではない。

そんな場面に初めて出くわした時、僕は少し困惑した。どうしよう。今してもらったような話はどう考えても自分の引き出しには無い。何が自分に出来るだろう。

その時僕は自分が互酬性という装置の極めて表層的な現象にのみ執着していたことを自覚した。

別に向こうは「こいつとはもう少し仲良くなりたいからこの話しとくか」と緻密な計算で会話をしている訳ではない。(そういう人もたまにはいるかもだけど)

単に、自分といる事に心地よさと価値を自然と感じてくれた結果でしかないのだ。であれば僕がすべきは同ジャンルの話をすることに執着することでは無く、その行為の根底にある気持ちに敬意を払い、相手をもっと大事に思うことだったのだ。

その結果として何か相手にも渡したいと感じる「自分の一部」があればそれを共有するだけのことだ。

ここまで書いてみると、めちゃめちゃ当たり前のことのように感じるけど、自分にとっては色々考えなおすキッカケになったのでその記録として...

おやすみなさい

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