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あうとぷっとのれんしゅうⅠ

小さい頃の記憶

小さい時の記憶を顧みることは、昨日や先週のことを思い出すのとはその性質からしてかなり違う。「昨日」や「先週」は「今」との繋がりの中で連続性と共に僕の中で存在している。それに対して小さい時の記憶というのは何とも繋がっておらず、文脈も無く、ただ「あの日のこんな記憶」として個別に脳みそのどっかに張り付いている。

幼稚園に入るよりも前、家族で干潟に車で行き、ハゼを捕まえた。
「これ今日のお味噌汁に入れて!」
その日の味噌汁にそのハゼが入っていると信じて疑わなかった僕は夕飯の間大興奮で母親にその「事実」を何度も確認した。

幼稚園でフラフープで電車ごっこをしていた僕は、園庭で大好きな先生を見つけた。先生も仲間に入れてあげたくて後ろからフラフープを先生の頭を通すように高く上げる。するとフラフープが滑って先生の後頭部に当たってしまった。先生は「先生を後ろからフラフープで殴った子」を「なんでそんなことをするの」と叱った。

なんでそれを覚えているのか意味が分からないのもあれば、なんとなくその記憶が持つ僕自身への意義を見出せるものもある。(フラフープの経験は僕にとって初めての「冤罪」と「誤解」の経験だった)←なんか三島っぽい(浅はか)

こんな感じで色んな小さい時の記憶が、「個」として、何かしらの精神的原風景として、僕の脳みそにこびりついている。

そんな小さい頃の記憶の中うちの一つに、小学校の時の通信簿にまつわるものがある。

通っていた小学校の通信簿には、親が自分の子供について幾つかの質問の欄があり、それに答えてまた先生に通信簿を返すきまりがあった。

そのなかで「お子さんの特徴は?」といった趣旨の問いがあった。

記入を済ませた母親から通信簿を預かった小学生の僕は何の気なしにそれをみる。

「人からの影響を受けやすい子」

彼女はそう僕を描写した。

母親から「与え」られた特性

なぜかは分からないが母親から与えられたその描写は僕に強烈な印象を残した。

「自分」という生き物を客観的に表現されることも、その結果を受けとる経験も当時の自分にとっては初めてだったんだろう。

「あ、僕ってそうなんだ」

そう思ったのを覚えている。

今これまでの自分の人生を振り返ってみると「人からの影響」に動かされてきたシーンばかりが想起される。

留学・大学受験・進路(?)…

本当にそうなのか、母親からの「描写」に無意識ながら自分自身を寄せに行ってるのか、本当のところは分からないけど「人からの影響を受けやすい」性質を自分は持っていることは間違いない。

人が何かをしているのを見ると、「そうそう、僕もそれやりたかった」と急に言いだして人の真似ごとに興じる。(もとより文章書くのは好きで映画のレビューなどは書いてはいた。が、このnoteの直接的なキッカケはnoteに投稿する友人が豊かな語彙力と文章力で鮮やかかつリアルに自身を表現するさまに憧れたからだ)←これまでの長ったらしい文章は全てこれを言いたいがためだけものだ。

うん、それってなんかとてもダサい

どうしようもなく空っぽな感じ

バケツの底に大きく開いた穴から漏れる水を中に戻そうと、必死に手ですくい続けているような、「問題はそこじゃない」感

欲望とは「模倣」である、と高校の国語で読んだ。

であればこの僕の性質は説明付けられ、正当化されるのだろうか。根底に何があるのか分からないこの罪悪感に似た何かしらは消えてくれるのだろうか。わからん。


お菓子ばっかりの生活

この「空っぽ」な感じは、自分が高校生の時から感じている「生の実感の欠如」によるものだと思っている。「生への倦怠感」とも言えるかな。

なぜ生きてるかが分からない。別に生きるのがつまらないわけでは決してない。なんなら毎日超絶楽しい。だが時たまどうしようもない虚無感に襲われる。「あぁ、今自分は今生きてる!!」と心の底から感じることが一週間にどれくらいあるだろう、そう思ってしまうような鬱屈とした感じ。

最近とても仲良くなった友人で、哲学的なお話にいつでも目をきらきらさせて付き合ってくれる人間がいる。

「美とは」「道徳は不変で普遍なものなのか」「宗教とは」「幸せとは」

そんな話をする中で思い切って自分が抱える「生への倦怠感」について話してみた。

すると彼は自分も似たことを考えていたことを教えてくれた。

僕が言う所の「生への倦怠感」を彼は「ご飯を食べずにお菓子ばっかり食べてるみたいな生き方」と表現してくれた。

「ご飯」という本当の意味での「幸せ」「生きる」ということが存在するのに、「お菓子」という刹那的で楽しくもはかない「何か」にのみ熱中するあの感じ。

生き続けることは出来るっちゃ出来るけど、それが本来のあるべき生き方じゃない、って感じ。

飛び上がりたくなるほどに共感できた。

自分と似た人はやっぱり心地いい。全く違う種類の人間も、好奇の眼差しと共に楽しく関わることは出来る。けどやはり「あ、おんなじ人だ」と思える存在はそれ以上に大切にしたくなる。

生きることは死ぬこと

僕が通っていた塾の先生は口ぐせで

我々は誰しもが生きながら死という最終地点に向かっている。その意味で我々は「生きる」と同時に現在進行形で「死んでいる」んだ。

と言っていた。その通りだと思う。

じゃあどう生きるのか。もとい、どう死ぬのか

この生への倦怠感の正体も分からなければそれから解放された先の自分の姿はどこを見ても見つからない。

The truth is I need help but I just can't imagine who I'd be if I was happy.
(助けが必要なのは確かだ。でも「幸せ」な自分の姿が想像できないんだ) 

”Happy” by NF

生への倦怠感の理由は「ドラマチックな死」の欠如、もしくは「死」が「生」の前提となっていないからと三島由紀夫は言うけれど、

そういうことなのかな?ハイデガーの言うように人間が「死への存在」であることを思いだせばそれで「あぁ自分は今生きている」と感じることが出来るのかな?

何を求めて生きれば(死ねば)良いのだろうか。

実は我々は「幸福」など求めておらず、「欲望する」ということそのものを求めているとジジェクは言うけれど、

本当にそうなのかな?じゃあ一生僕らは満たされることが無いの?

推しの哲学者なだけに彼の言うことは常に魅力的だから、何も考えずに身を委ね心酔する心地よさへの誘いから逃れるのは毎回大変だ。

とりま、頑張って死にながら生きよう。(あっさ笑)

そんなこんなで

そんなこんなでとりあえず最近考えたことをまとめて書いてみたけれど、かなり楽しい。

飽き性で、三日坊主レベル10000位の僕のことなのでどれだけ続けることが出来るか分からないけれど、なんか書きたいことができたらまた書いてみようかな。

自分の書く文章を読むのが割と嫌いじゃないので、忘れたころに自分が「ふっ、昔の僕こんな事かいてらぁ」って笑える程には色々書いてみたい。


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