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美の「本質」を考える

読者のかたから興味深いご質問があったので、この場を借りてお返事したいと思います。私にとって、「美しいと感じるモノやコトとは何か」という問いです。

これって普遍的な問いですが、大抵わたし達は、「美しさの基準って相対的だよねー」とユルく返答することが多いですよね。

もっとも、美の相対性ということについては、まったく同感です。
特に人の容姿にいたっては、国や文化、また時代によって、美と醜の基準が真逆だったりすることもあります。

ただ、私なりの考えを言わせていただくと、美しさの本質とは、「Purity (純粋さ)」だと思います。

ちなみに、日本では、”pureness” (ピュアネス)という語がよく使われているようですが、英語ではあまり使いません。

Pureness という語は、英語として存在しますが、通常、「物質(材料とか)を混ぜ合わせない」状態をさす場合に使う言葉で、形而上的なクオリティーには用いません。

精神面の清純さや、物事の純粋さを表現する際に使うのは「Purity(ピュリティー)」です。この点において、自然は美の宝庫です。朝陽とか清流は、いつ見ても美しいです。

これに対して、たとえば、厚化粧した女性なんかの美は非常に相対的で、それを美人だと思う人もいれば、「ちょっとどうだかなぁ」と引く人もいます。

でも、無垢な赤ん坊の笑顔は、ほとんどの人が「美しい」と感じると思います。(なんでも「カワイ―♡」としか表現できない語彙の少ない人はさておき)

純粋なものは、本質的には常に美しいです。
「本質的に」とあえて書くのは、純粋なものは時として愚鈍に見えたり、素朴すぎて軽視されることも往々にしてあるからです。

その行為は本当に美しいのか

この「純粋さ」という基準は、外面的なことよりも、むしろ内面的なことにおいて重要です。

例を挙げると、親切な言葉や行為も、動機が不純だったり見返りを期待していたりすると、あまり美しくありません。

純粋なものは時として愚鈍に見えることもある、と前述しましたが、たとえそうでも、例えば、相手のことを本当に思って助けようとする行為は美しいです。

それを理解できない人ももちろんいます。でも、見ている人は見ているし、わかる人はわかってくれます。

あと、これは態度についても当てはまります。
仕事に真摯にとりくむさまは美しいです。

一方、「とりあえずラクして生きたい」という考え方は、生き方としてあまり美しくないし、損得勘定だけでことにあたる、という態度は、私は醜いと思っています。

自分が良しとしていることは、その「本質」において本当に美しいのか、「純粋さ」という尺度で今一度考えてみるのもいいかと思います。