自分なんてどうでもいいと思っていた、私が意欲的になり始めた理由。

先月までいた職場での最後の日に、お世話になりましたを込めてメモと簡単に作った3種類のお菓子を置いてきました。

職場最後の日に、私よりも2回り上の人から『何でそんなに気が効くの?』『優しいのは十分伝わってるよ、元気でやってよ、飲み絶対誘うからね〜』と声かけていただきました。

当たり前の日常と言えばそうなのかもしれないです。私にとっては、こんなこと言ってもらえる日が来るなんて思ってなかったらです。この言葉をいただいて、頭に浮かんだのは2人の顔と『ありがとうございます』でした。

1人目は私の母と一緒に絵を描く仕事をしてた私にとっての第二のママ。
2人目はメンター私にとってはにいちゃん的存在の人です。


その理由を遡って書かせていただきます。

私の母は、「ありがとう、ごめんね、たすかるよ、いいねっ、大変だったでしょ〜」を一切言わず、「あんたダメだね、なんでそんなにできないの、うちの子じゃないよ、もういいよ、自分でなんとかしなさい、うるさい、だまって」を言う人です。私、褒められたことがなくって、人を信用することすらできなかったんです。人は悪だ、頼っては行けない、1人でなんとかしないといけないって思ってたんです。ありがとうと言っていただける日が来るなんて思ってなかったのです。

幼少期のことはそこまで覚えていませんが、母の胸の上で母の声を聞いていたこと、父のヒゲが好きで少し生えかけたヒゲを手や頬で触っていたことは記憶にあります。

幼稚園の頃、始めた習い事は水泳とピアノ、習字でした。どれも母が苦手だったもので、あんたには出来るようになってほしいからと言う理由で通ってました。歌を歌ったり、ピアノを弾くとうるさい、やめてと言われてました。それでもピアノは行きなさいと言われ子どもながら、なんだか腑に落ちませんでした。ドレスを着ての発表会もレースのワンピースを着たくなくて、いきたくない、ピアノなんて嫌だと泣き叫び、ピアノの先生を困らせ1年経たずに辞めました。女子なら誰もが憧れるふわふわレースのワンピースがなぜ嫌だったのか、振り返ると母が「私はピンクは着たくない、ブルーかグリーンよ」「スカートは嫌、ジーンズがいいのよ」と言っていたことがありました。

残りの水泳と書道は辞めなかったのです。
水泳は小学校6年生まで、書道は社会人3年目まで継続出来たのです。

なぜか。

褒めてもらっていた。ただこれです。

私は背が小さかったため、水泳でのクロールは波に煽られてしまってました。水泳を教えてくださってたおじいちゃん先生は、竹の竿を持っており、よくお尻を叩かれてました。(跡がつかないくらい軽くです笑)怒鳴られる時もありました。それでも、自分で「水泳は休みたくない、行く」と言っていた理由があります。おじいちゃん先生は、「最後によく頑張った、今日はこのくらいにしよう」と笑顔で言ってくださってたのです。水泳の中でも得意だったのは、平泳ぎです。今こうして書いていて、その理由が明らかになりました。平泳ぎが得意な先生が2週間に1回、1時間半かけて教えにきてくれ、名前を呼び「こうやってやるんだよ」「これ、やるよ、持っていきな」と声かけてくださってたのです。(いただいてたものは、パチンコの景品のお菓子でしたが笑)これが楽しみで、遊んでくれる、構ってもらえることが何より嬉しかったんだと思います。

習字の先生は、いつもにこにこしていて、「かけたね、いいじゃん、すばらしい、大きくかけましたね、一緒に描いてみようか、先生の字よりも上手くかけてるよ」と言ってくださってたんです。習字の終わりに飴玉をもらってました。この飴玉ほしくて、みんなで飴玉選ぶのが戦争のようだったことを覚えてます。当時は習字よりもその場が楽しかったため、通い続けてました。なんとなくやってましたが、私の書道が開花し始めたのは高校の時です。高校の部活はバレーボール部。入った理由は父がやっていたこともあり、一緒にパス練習ができるからでした。しかし、高校1年の夏前に手首を骨折して、合宿に参加できず、筋力が衰え付いていけなくなり、辞めてしまいました。それと同時に頑張るものが習字になりました。集中して3時間座っていられる、安心する場が習字の先生のところだったんだと思います。書くと褒めていただき、さらに高校の部活も書道部に変更したことがきっかけで、違う流派(書道に流派があります)を習い、提出するたびに教材に自分の字が載り始め、載せてもらえることが嬉しくて、1日何十枚も書いてました。いつの間にかどんどん上達していったのです。高校3年の時には大学教授から声かけてもらっていました。芸術の大学に憧れもありましたが、きっかけは高校の先生との三者面談。「書道の道で大学もいけるので、そちらもいいかと」と先生が言いかけた瞬間に遮るように、母が「そんなのよりもこの子は看護師になるんです」と言い切ったのです。私もそう言う運命なんだな、私はと落胆したけれど、そうした方が母が喜ぶだろう思ったのです。

そこから看護師になり、社会人3年間はやる気もなく、全て嫌々だったのは言うまでもありません。母にとって良かれと思っていたのに、帰ると「なんでそんなにぐうたらしてるの、社会人にもなって。あんたが看護師には見えないわ」と言われる毎日。生きてる意味があるのか、いっそのことなんてまで考えてました。

これまで、人と関わることよりも対モノでの対話が多かったこともあり、このままの私じゃ、ダメだと自分で気づき人との繋がり求めていたこともあり、誘われたことに行くようにしてましたが人との付き合い方がわかりませんでした。そんな時に再会した初めに話したメンターと出会ったのが人生の衝撃です。

メンターは私が小学校の頃、母から「すごいよ、なんでも出来ちゃう、いいよね、かっこいいよね」と言っていたのです。だから、会っていなかったものの、かっこいい尊敬する人でした。だから余計にね。

出会ってから、なかなか心開かずの私の名前を呼び続けてくれていたこと、私自身で気づいてやったことに対して、気づいて「ありがとな」と声かけてくれたり、LINEくれたり。約束事作って、信頼しろって言ってくださったこともありました。否定語をうけていたこともあり、全てに対して自分が本当にやりたいことがわからなくなってました。全部の選択権は母だったので食べ物を見て、好きなのか食べたいのかもわからなかったです。そんな私に「これ食べたい?おいで、食べていいよ」と言ってくださったり、食べたいかもわからなかった時に「食べたい」と言った時に「いいよ、食べな」と言ってくれ、徐々に食べていいんだ、やっていいんだってことがわかりました。
ある時は、話していることがわかるまで何時間もかけて解説してくれていたこと、何より人との関わり方を教えてくださってたのです。プラスで第二のママも人としてのことをずっと教えてくださってました。悲しいことに当時の私は話してくださる意味が全く分かってなかったのです。言葉が聞き取れなかったのです。幼い頃から「音痴、話すの下手、なんでそんなに国語できないの、日本人なのに」と言われてしまっていたから、言葉をシャットアウトしていました。

3年半経ちやっとにメンターを信じたいと思いはじめた時、メンターの言うことがわかり始めたのです。メンターにとって、かなり傷つく出来事が連続して起こり、落ち込む姿を見て、何ができるのかなって考えた時に私が成長して良かったと笑顔で迎えてくれる日を見たいと思ったからです。

やっと言葉が出る様になって来て、人の話がわかり、こうしたいと思える様になったのは今から3ヶ月前のことです。


人が成長するきっかけは、『プラス言葉』『認める言葉』『スキンシップ』が大事だなと思います。

こうして書いているのも、自分で振り返ってさらに成長する意味を確かめるためだったのかなと思います!


今の私は普通に幸せです!毎日学ぶことたくさんだからです!振り返って、さらに成長しようって思えました!話上手くなる!人との関わりでの言葉もっと考える!誰かの勇気になる自分になるために、成長します!

最後まで読んでくださる方がいたら、嬉しいよりもありがとうございます!♡

#感謝 #メンターとの再会 #成長 #人生観

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