見出し画像

興味や集中力が途切れた時にやってくる脱力感

大学で履修しているイギリスの文化入門の授業が昨日あった。
この科目の参考書は横書き400ページ程で分厚く所々に写真などは添付されているものの基本的には字がびっしり詰まっている。
感染対策の為、今月からオンデマンド授業になっているがいずれにしろ「1回の講義1章」というペースは変わらず基本的に毎章参考書を1度読み通さないと、毎週の小テストも無意義なものとなってしまい学びもかなり浅くなってしまう。

オンデマンド授業はライブ授業とは違って他人からの強制力がない分相当な自己コントロールが必要だ。
その上、細かく専門的な内容が詰まっているような参考書を一通り読み切るのにはかなりの集中力と好奇心も欠かせない。
そして専門的な内容であればあるほど
自分の中に元々無かった概念や用語が溢れ返っているので興味のベクトルもどこを向いていいのかわからなくなりやがて義務的に取り組んでしまう事になるのだ。
学んでいる内容や知識は興味があるのに
キリのない細かな専門知識の数々に
集中力と好奇心を奪われるのが辛い。
もっとタチが悪いと思うのは興味のないまま
ガッツに身を任せた状態で無理やり詰め込んだ知識は時間が経つと記憶にも残らなくなるという事だ。

そこで今回はこの参考書を読み進めていく上で
自分の興味を徹底的に優先して内容に浸ってみる事にした。
あくまでも''記憶"しようとはせず
自然に目に留まった箇所を中心に"理解を楽しむ"。少なくともそれは受験に特化したような記憶前提の学び方ではない。
自分の時間を費やす以上、
見かけやガッツ重視の勉強はしたくないし、
"記憶"を最終的な目的としてしまうと
見かけだけの完璧主義にも繋がるリスクがあるからだ。

特にその内容に対して殆ど知識の無い人間が
分厚い専門書を読む時は自分の好奇心のペースに合わせてあげる事が大切だと分かった。
それは無知故の自分の自然な拒絶反応と向き合ってあげる"強さ"だと思う。
一方で我慢して最後まで取り込む事は
その場での達成感と義務感への逃れなのかもしれない。
仮にそのような達成感が無くとも、そして、理想通りの勉強が出来なくても、自分の好奇心や興味を大切に扱いながら自分の為の学びを増やしていく事が本当の自分の成長に繋がると改めて実感した。

今回自分の興味に従って参考書を読んでいくと
自分の力で主体的な勉強時間を確保出来たという事実に気づいた。
いつもの授業の際よりも授業終了後に清々しくも感じた。

これからも、
自分の中に潜んでいる本質的な"弱さ"や
達成感・義務感重視の"正しさ"たちを
丁寧かつ徹底的に細分化し糺(ただ)していきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?