違和感に鈍感な人たちへ

満員電車、方からのバイト、誰も話を聞いていない空間、16時、当たり前、昔は、ちゃんとする、楽しければいい、みんながやってるから、肩書で判断すること、周りと比較すること、仕方がない、ノルマ、知らないのに否定すること、人の噂、想像力の欠如…


嫌いなものを並べてみる。
マイナスな感情を抱くものって表に出しちゃいけないという自己制御があると思うけど、自分が違和感を感じるときこそ見えるものがあるんじゃないかと思う。




子どものころから、「うちはうち」と言われながらも他の家の子と比較したり親同士で子どもの噂をするのがいやだった。

学校という単純な評価指数しかない世界で、「できる子」「できない子」を分けるのも嫌だった。

「親になったらわかる」とか、「社会にでたら難しいよ」とか言われるのに、
「もう大人なんだから」「お姉ちゃんなんだから」と理不尽な「あり方」を押し付けられることも嫌だった。



私の地元は村というほどコミュニティが確立している小さな町でもなく、だからといって親同士の関わりが全くない都会とも違う街で、同じマンションや習い事、学校のクラス規模では繋がりがあり、親同士の繋がりと子ども同士の繋がりに「ズレ」があると相当面倒な人付き合いに巻き込まれていた。

子どもながらに色々生きづらさはあったと思う。でも当時は"普通の家庭"だと思ってたし、そこそこ学校も楽しかったから「不幸」だとは思わなかった。


しかし、子どもがある程度の年齢になるまで親の価値観というのは社会の全てになり得ると思っている。親以外の大人と接することもほとんどないし、あったとしても「友達の親」や「先生」であり親密な関係性を築くのはごく一部の子どもである。


だから、幼いころは生きづらさのような感情を持ちつつも子どもながらのわがままというか反抗心というか、いわゆる「子どもだからそうなんだ」という考えに行き着き、早く大人になって自立したいと強く願っていたと思う。我ながら恐ろしい。

それでも親の価値観や学校の当たり前に対して違和感は消えなかった。今なら「違和感」と表現できるけど、「わかってくれない!」という思いからどちらかというと「イヤだ!!!」の方が強くて、中学時代の反抗期はめちゃくちゃ窮屈だったし自分のことも嫌いだった。

そんな中私は、非行や自傷行為はちょっと違うと思っていた。「イヤだ」があったからこそ、「こうしたい、こうなりたい」があったお陰で「〇〇になったら〜したい」を考えることができた。めでたい女だ。

それでも"そういうこと"をしている友達をみると、みんな根底にあるものは一緒だと思っていた。直接「どうしてそういうことしてるの?」と聞いたことはないけど、私が生きづらさを感じているように、あの子たちもあの子たちなりの生きづらさと自己主張と自己嫌悪を繰り返しているんだと勝手に解釈していた。




「学生のうちに遊んでおいたほうがいいよ」


「社会に出たら理不尽ばっかだよ」


「仕事して子育てするなんて楽じゃないからね」



大人になったら「楽しい」という感情は消えてしまうかのように、
自分の生きづらさを社会の当たり前のように唱えられる。

周りの人に色んなことを言われるけど、知らない世界に理想を持たず、知らない現実を受け入れて、自分を知らないままつくられた世界を生きようとするのはとても怖いことだ。

私はまだまだ触れたことのない価値観や知らない世界もあると思う。だけど、これまで生きてきて感じた「違和感」を信じて選択し理想を持つことができたお陰でどうにか生きている。



違和感に対して鈍感というか感情を放置する人が多すぎると思う。私が「嫌な気持ち」を多用しているから「嫌悪感」じゃないの?と言われそうだけど、嫌悪感は完全に自分の嫌に気づいている状態だと思うから「違和感」。そういう、なんかいや、なんかちがう、っていう気持ちをスルーしていたり、気づかずモヤモヤしていたりする人は「なんかイヤ」が強くなって盲目になるから否定しなくていい事象も否定しているのが勿体ないと思っちゃう。

私はそれを見逃したくないし、その感情と向き合って少しでも生きづらさを緩和していきたい。それは決して人の悪口を共有したり不平不満を言い続けるのとはちがう。

小さな違和感はあなたの感性であり自分が生きやすい世界をつくるための要素なのだ。

ちょっと感情に任せて書いてしまったから今度からリアルな違和感との接し方を表現していかねば。


少しでも生きづらさを緩和するために.


サポートで頂いたお気持ちは、本を読んだり映画を観たりするのに使いますあと喫茶店にいきます