映画『12人の怒れる男』考察 【※ネタバレあり】

私はこの映画が大好き。

人は「偏見と差別」の罠に陥りやすく、よほど意識的に「果たして本当だろうか?」という疑問を持つ努力をしないとその罠から抜け出せない。

自分の中にある「偏見と差別」に気付きもしないまま、無罪かも知れない少年に全員一致で有罪の評決を突きつけてもおかしくなかった。

8番陪審員(建築士)はおそらく、有罪の心象を持ちながらも「果たして本当だろうか?」を意識的に自問してみたのではなかろうか。

だからこそ、評議の前日に被告人の住まい周辺を歩いたり、質屋に入ってナイフの在庫を見たりした(違法を承知の上で飛び出しナイフの購入までしている)。

そして「偏見と差別」は表面的には全員に共通しているようで、その種類や程度は各人の人生経験によって大きく違っている。

スラム経験の無い陪審員たちは、スラムの住人がいかに危険かを口汚く罵る。
「スラムの奴らはそういうものさ」
さも当然のように。

しかし一人の陪審員が、自分がスラム出身であることを告げる。
場の雰囲気はガラッと変わる。

抽象的集団だった「スラムの住人」が、一人の具体的個人として現れた。
これは大きな衝撃だったろう。

彼は自分と同じ陪審員で、きちんと言葉を話し、何より感情を持っていた。
陪審員の数名が、この時点で自分の偏見と差別に気付いたはずだ。
まだ有罪に対する根拠のある疑問を持つには至らなかったが。

8番陪審員は、人の命の問題だから、せめて話し合おうと粘り強く主張する。
かろうじて老人が話し合いに賛同の投票をして、話し合いの継続が決まる。

老人も「恐らく有罪でしょう」と言うように、まだ有罪への疑問ではなかった。
しかし、「本当に有罪だろうか?」という自問自答はすでにあったように思う。

その後、検察側の証拠について、1つずつ丁寧に再確認していく。
完璧に思えた証拠に、少しずつ矛盾らしきものが生じ始める。

でも、その矛盾は簡単には受け入れられるとは限らない。
ここでも、自分の経験に基づく「決め付け」や「思い込み」が壁となる。

「私なら自分が観た映画のタイトルは決して忘れない」。
その陪審員は3日前に観た映画の名前を問われ、正確なタイトルを答えられない。

「忘れるはずがない」という固定観念は、具体的な問答で簡単に崩れ去った。
「〇〇なはずがない」や「〇〇に決まっている」という言葉は危険だ。

この後も一つずつ丁寧に証拠を疑い、検証しながらストーリーは進む。
「偏見と差別」「思い込み」に次第に気付いていく陪審員たち。

詳細は省くが、採決で無罪に投票する陪審員が徐々に増えていく。
自分たちがいかに「偏見と差別」に陥っていたかに驚きながら。

そして、最後には全員一致で無罪の評決に達する。
(本編おしまい)

☆☆☆☆ 番外編☆☆☆☆☆

最後まで有罪を主張した興奮しやすい紳士は、とても「人間らしい」と思った。
自分以外の全員が無罪を主張する中、絶対に有罪の主張を変えないと強がる。

彼は、自分の息子と被告人の少年をダブらせて苛立ちを強めていたのだ。
だからこそ、少年の有罪に異常に固執していたことに自ら気付かされる。

そして泣き崩れる。
「無罪だよ…」
あんなに「強い男」の自分を貫いてきたのに…。

人は理屈や固定観念だけで、いつも自分の意図通りに行動できるわけではない。
切羽詰まった場面では、飾らない本当の自分が自然に出てしまう。

意外なところで見せる「弱さ」に人間らしさを感じる。
そして、その姿に共感できるのだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



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