カブ提灯と巨人

水曜日の夜は、スイス恒例のカブ提灯の行列が村を通った。
小学2年生の次男と私もその一行に加わっていた。
カブ提灯とは、その名の通りカブの中身を削り、薄く壁を残す。そしてその壁に外から星や動物などを形どって皮を剥き、中にろうそくを入れれば綺麗な提灯になる。

幼稚園児から小学2年生までの子供たちが、各々で作った提灯を手に行列をつくって夜の村を歩くのだ。
提灯を持った子供たちだけが列をなして歩けば、美しい行列になる、、、、はずなのだ。だが、私たちが住む村は、なぜかそれがうまくいかない。
理想としては、子供たちの列が道の真ん中を歩き、保護者たちは左右の道端を歩く。消防団がわざわざ交通整備までして行列を通らせる。
なのに保護者たちが子供たちを列に一人で歩かせることができないのか、子供たちが歩きたがらないのか、はたまた行列の指揮が悪いのか、結局子供と大人がごちゃ混ぜになってしまい、行列どころではなくなる。
そしてただの群衆が道を歩いているだけになり、ところどころにカブの提灯が寂しく灯っているといった塩梅になる。
話によれば、ちゃんと綺麗な列をなして歩くことに成功している村や町もあるらしい。つまり、この混沌行列は私たちの住む村ならではの特産物、と言うことにしておこう。なぜなら私自身にだって、大半の保護者たちと同じで特にこの状況を変えたいと言う強い意志はないのだから、あまりとやかくは言えない。ただ、ああまたか、と皆で呆れながら人の波に揺られながら歩いていくだけだ。

長男と次男を合わせれば、かれこれ8年くらいは毎年参加しただろうか。
結局この混沌とした提灯行列が改善されることはなかった。
残念なことだ。
とにかく私にとっては、今年のカブ提灯行列が最後だったかもしれないので、内心ほっとしていたりもする。
来年からは自由参加となるので、次男が参加するかどうかはわからないからだ。

話は打って変わって、先週の日曜日にヨーロッパでもアニメ「進撃の巨人」の最終回が観れた。これだけはつくづく思う。これに関してはインターネットのおかげでいい世界になったものだなと。ほんの数年前までは、ヨーロッパでアニメが観れるなど夢にも思わなかった。まして電子書籍で日本語の本や漫画まで買える。奇跡みたいだ。

そんなわけで日本のテレビで放映された次の日に観た「進撃の巨人」の最終回は、本当に感動した。
ストーリーのエンディングに賛否両論あるとどこかで読んだが、私はこれで良かった派だ。このアニメはかなりグロテスクで残酷な描写が多くて、ここまでひどい死に方しなくても、、と気が引けるところもあったが、逆に死ぬことに綺麗な要素なんて含まれないよな、まして食われるんだから。と自分で自分を納得させた。
作者さんすごいな、と実感したのは登場する人間たちの人間臭さ、弱さや強さがあまりにも鮮明に描かれていることだ。強い人間も弱く、弱い人間も時として強い。そして人は結局歴史を繰り返していく。
巨人がいるのは現実的ではないけれど、もし巨人がいたとしたら、もし「進撃の巨人」のような世界が存在していたとしたら、人間たちは同じような行動を起こすんだろうなあ、と納得してしまう。
すごかったです。感動をありがとう。

では皆さん、おやすみなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?