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結局、今しかないんです。

あの選択をしたから、自分の人生がこう変わったと断言できるほどの画期的な選択を、私はしたことがあっただろうか。
考える。考える。

考える人、爆誕。
つまりはそこまでなかったのかもしれない。
私の今までの人生での多くの決断は、成り行きだった。
でも大半、人生ってそういうものなんじゃないの? 
今の時代、自分で決める自由な生き方が謳われているわけだけど、限界があるよね?現に子供をつくると決めた女性が、必ず子供を授かることはできますか? 社交的な人間になることを選択したら、内向的な人間はがんばれば生まれながらに社交的な人間のようになることができるのですか?

それでも選択自体はたくさんしてきた。
生きていれば、嫌でも選択しなければならないことがたくさんある。
子供から大人になっていく過程で最初に自分自身で選ぶべき大切なことは、どの職種に就きたいか、じゃないだろうか。
少なくとも私が20年近く住んでいるスイスではそうだ。中学に入学して1年目は勉強。2年目からはすでにやりたいことを探さなければいけない。
どうするかと言うと、興味のあるところへ体験実習に行くのだ。体験実習は、一か所につき1週間くらい行かせてもらう。13,4才の子供たちが、興味のある会社や機関に自分で問い合わせる。実習させてもらえることになったら、学校は休んでよい。
そして中学3年の前半期には、すでに大半の学生たちが翌年に開始する職業訓練の内定を取っている。

2021年には、義務教育後に進学ではなく職業訓練の道を選んだ若者が65%を超えていたらしい。思春期に入ったばかりですでに自分の職業を決めていくのは感心するばかりだが、現に今年中学校に入学した我が息子のことを考えると、ちょっと心配にもなる。少し前までは、7才の次男とよく戦いごっこしていた。去年の長男の将来やりたいことはマクドナルドで働くこと。ずっとマックが食べていられるから。
そんな夢見がちな子が、来年には職業の現実と向き合わなくてはいけない。

説明が長くなってしまったが、当初私が決めた職業訓練は、商業的なものだった。大半の若者がこの職種を選ぶ。座っている仕事なので楽なのと、高収入が期待できること、そして何より訓練終了後には多方面に仕事ができる。商業と言っても幅広く、事務、物資の売買、金融機関、旅行関連、保険関係。つまりはオフィス関係の仕事全般がテーマの職種だ。私の訓練先は、パイプラインシステムを売る大手の会社。

私の第一志望は、芸術学校進学だった。だが親に将来性がないのでダメだと言われた。自分にはどうしても絵が描きたいと言うハングリー精神が足りない、とも言われた。そう言われればそうかも、と簡単に納得してしまった。
でもどうして私は芸術方面志望だったのに、急に商業系への道を進んだのか。他に特に興味のあることが見つからず、そういう場合にとりあえず真っ先に選択されるのが商業的な職業訓練だったからだ。結果的に、内向的で引っ込み思案で完璧主義人間のプライドだけは高い私が外向的で商人気質の子たちが多い世界へ放り投げられたわけだ。

ともあれ優柔不断も自己責任。
自分が選択したことだけれど、心からやりたいことを貫いたとか、そんな聞こえのいい決断ではなく、つまりは流れるままに、川に流れる流木のようにその方角へと行ってしまっただけだ。

私の人生の歩き方は、職業訓練後もあまり変わっていない。
夫として選んだ(私を選んでくれた)男性は、欲しいものがあればぐいぐいと自分の意見を主張できる人で、私は彼のその一面に魅了された。
トルコ人で、イスラム教徒で、大丈夫なんだろうかと家族も友人たちも私自身もどこまでも心配した。結婚したら優しかった彼が豹変して、ヒジャブをして家の中に籠れ、なんて言い出すんじゃないかって、長いこと不安だった。そういう話を時々ニュースで読む。
でもそんなことはなかった。押しが強いので勘違いされやすいが、根は自由人。私にも子供にも生き方を強制してこない。

子供が欲しいと思うようになったきっかけも周りの影響が強い。
夫(当時は彼氏)が子供好きだったのと、姉に子供ができたこと。
ワーママでいるのが当たり前だと思っていた自分が専業主婦になったのも、最初に思い描いていた理想の自分と現実の自分が嚙み合わなくなったから。うまくいかなかったからだ。仕事と子育ての両立。妻、母、女、社会人である自分の立ち位置。体調不良、不安症、不妊症。理由を書き始めるとキリがない。
近代女性が難なくこなしているように見えるマルチタスク・スーパーウーマンは、私には高すぎる理想だった。
なりたくて専業主婦になり、自分も周りも幸せにできる女性には大変失礼だが、私にとってこの決断は、自身の敗北でしかなった。

最近はSNSで輝いている人たちがたくさんいる。
自分のチャンネルをつくり、ゲーム実況したり、踊ってみた、歌ってみた動画でたくさんのいいね!をもらっていたり。ファッションショーみたいな動画で鍛え上げられた美しいボデイに綺麗な服を着てモデルのように歩いていたり。みんなすごいと思う。たくさん努力して、行動して、築き上げてきたんだと思う。成功した人は輝いていて、とても羨ましい。少なくとも表向きは。裏できっと誰にでもあるはずの悩みや失ったものや葛藤は、想像するしかない。

でもそこまですごくなくても、人生変わる選択をしなくても、成り行きで生きていても、敗北しても、思ったより悪くないよ。
あの時、他の誰でもない自分自身の影に敗北したおかげで、やっと今、絵を描いたり、文章を書く時間と心の余裕ができた。そして最も大事な、それを実行するためのちょっとだけの勇気を見つけた。自分の理想を生き続けていたら、もしかしたら見つからなかったかもしれない勇気。

若い頃からやってみたかったことばかりなのに、忙しいを口実にどうしても始められないまま四十を越していた。子供たちが学校に通い始めて余裕ができた今、やっと心から自分で選択したことがある。来年の秋には経理の資格を取るためビジネススクールに通いたい。できれば社会復帰したい(できるか超不安)。

でもそれまでの一年間は、創作したい。

「絵を描くのが趣味です。」
「文章を書くのが好きです。」
と公言すると、じゃあきっと上手なんだろうなあ、って周りは思うんじゃないか。いや、私、へたっぴなんだよ。だから自分は無趣味にしておこうとさえ思っていた。

「大体そんなことできるのは相当、暇だから。」
「忙しい、が近代の美徳なんだよ。」って囁く心の声に私はいつも罪悪感を覚えていた。
「絵を描きたいけど、文章書きたいけど、忙しくってさ。」
でもそんなこと言ってるうちに、病気で、事故で、老衰で、死ぬかもしれないことをやっと自覚した。死んだらどうなるかわからない。もし動物に生まれ変わったら、植物に生まれ変わったら、創作はもうできない。運よく人間に生まれ変わっても、超外向型毎日が祭りだ人間になって、絵なんて描きたくなくなるかもしれない。

だから、今、やろう。
今しかないんだ。








#あの選択をしたから

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