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足立実の『ひと言』第32回 「国鉄労働者の闘いを支援しよう 修善寺大会」 1986年10月13日

 この数年間、国鉄労働者は自民党、国鉄当局やマスコミから袋叩きにされた。「ヤミ手当」「時間内入浴」キャンペーンから始まり、職場団交権の剥奪、既得の労働条件の取り消し、組合からの脱退強要、職場闘争への苛酷な処分、強制配転、人活センターのいやがらせ、その残酷さは七十余人の自殺という事実が物語っている。
 だが国鉄労組本部は闘わず退却を繰り返した。最後に「ストライキはしない」「不当労働行為の告発をとり下げる」という労使「共同宣言」で無条件降伏を当局に誓って「雇傭安定」を懇願しようとした。
 こんなやり方で労働者の首や権利を守れるわけがない。当局のやりたい放題の攻撃を招くだけである。
 九月二四日、何百人組合員が組合本部に座り込んで「共同宣言」を決定させなかった。十月十日、国鉄労組臨時大会は「共同宣言」を否決し、闘う執行部を選んだ。
 国鉄労組はついに反撃に転じた。
 私達は心から断固支持する。
 国鉄の赤字をつくった本人、そしていま分割民営で利権に群がる無恥貧欲な自民党政治家、独占資本、国鉄官僚を、街頭に出て徹底的にバクロしよう!
 当局の不当労働行為を洗いざらい全職場から告発しよう!
 衆知を集めて戦術を決めよう!
 大衆闘争を巻き起こして国鉄分割民営化の野望をうち砕こう!
 私達は全力で連帯しともに闘う。(実)

(画像は国労修善寺大会。会場外の様子)

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注釈

・「国鉄労働者は自民党、国鉄当局やマスコミから袋叩きにされた」
いわゆる「マスコミの『国鉄問題キャンペーン』」
国鉄分割・民営化を推進するために、当時のマスコミも自民党政府に全面的に協力した。
1983年1月23日、 朝日新聞朝刊 に「赤字国鉄がヤミ手当」という記事が報道された。それから連日、商業紙が競うようにして 「国鉄ヤミ休暇、花見や潮干狩り、成田参り」「国鉄脱線職場、ポカ休は当たり前」「値上げ申請の朝、国鉄ミス続出、運転士がいない」「国鉄にブラ勤、仕事はゼロ、合理化合意し ても配転できず」「国労組合証を使ってケロリ家族たち」などと報道。
また、夜勤明けの国鉄職員が施設内の風呂に入った事が分かれば、「勤務中に昼間から風呂に入っている」という記事がでたりして、「タルみ・ポカ休」などという「国鉄労働者糾弾用語」が連日のように新聞紙面に掲載された。

・「ヤミ手当」
1983年1月23日に朝日新聞が、東京機関区でのブルートレインの検査係の添乗手当の支給問題を「赤字国鉄がヤミ手当 ブルートレイン検査係に手当支給、年に千数百万円カラ出張で山分け、過去十年間」として朝刊一面で報道、 その後各紙が夕刊で後追いしたことから一気に問題化した。

・人活センター
1986年7月、国鉄当局は全国に「人材活用センター」を設置。余剰人員と見なされた1万5千人の職員を送り込むと、草刈りやペンキ塗りなど本業とは関係のない仕事をさせた。センターは「首切りセンター」とも呼ばれ、将来への不安を抱いた職員が何人も自殺した。JRが発足すると、7628人を「清算事業団」に回し、3年後最後までJR復帰を訴えた1047人のクビを切った。うち、国労組合員は966人を占めた。

・国鉄労組
国鉄労働組合。略称「国労」
日本国有鉄道(国鉄)およびJRグループの職員・社員による労働組合の一つ。国鉄分割民営化後も組合名は変更していない。全国労働組合連絡協議会(全労協)に加盟。
足立実の『ひと言』第22回 「責任転嫁を許すな-国鉄分割・民営化」参照https://note.com/minoru732/n/nbcaead8db8db

当時の国労本部は山崎俊一委員長率いる分割・民営化容認派であった。

・労使「共同宣言」
ストライキ等によらず平和的手段で紛争を解決することを会社と確認しあう労使間の宣言。
1987年に国鉄分割・民営化を容認したJR東労組とJR東日本は労使共同宣言を出した。

・「九月二四日、何百人組合員が組合本部に座り込んで『共同宣言』を決定させなかった」
1986年秋、国労中央は、もはや分割・民営化の攻撃をうち破ることはできないという敗北主義にとらわれ、「大胆な妥協」の名において分割.・民営化反対の旗も降そうとした。
国労中央は、一貫して無方針・無指導のままで、その間にも国鉄労働者は当局の職場攻撃にさらされ、何十人もの労働者が自殺に追いこまれ、一方国労組織からは1ヶ月に一万人という規模での脱退者が相次ぐような状況が強いられた。にもかかわらず、国労中央主流派は、これを打開するための方針をうち出すのではなく、逆に労使共同宣言に調印するという全面的投降の方針を進めていった。これは国労組合員にとって「こんなことが許せるか」という事態であり、これにより職場から決起がはじまり、9月24日の国労会館をめぐる現場労働者の決起、さらに翌25日の国労千葉地本大会の決起でこの労使共同宣言はひとまず回避された。

・「十月十日、国鉄労組臨時大会は『共同宣言』を否決し、闘う執行部を選んだ」
いわゆる国労修善寺大会。
1986年10月9日~10日にかけ、国労は臨時大会を開いた。
そもそもこの修善寺大会は、千葉大会で中央闘争委員会に一任された労使共同宣言の締結を機関として確認するために召集された大会であった。しかし、全国から結集した国労組合員の抑えがたい怒りはここで一挙に爆発し、激論の末採決に持ち込まれ、結果中闘提案を否決、山崎俊一委員長は退陣に追い込まれ、後任として盛岡地方本部から六本木敏委員長が選出された。

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1986年10月9~10日の国労本部の国鉄分割・民営化容認、「労使共同宣言」路線を国労組合員の決起で粉砕した国労の歴史的大会である修禅寺大会について述べたコラムである。

大会後、間もないとあって筆者の興奮か伝わってくる内容である。

「当局の不当労働行為を洗いざらい全職場から告発しよう!
 衆知を集めて戦術を決めよう!
 大衆闘争を巻き起こして国鉄分割民営化の野望をうち砕こう!」と闘う国労組合員に対して戦術面のアドバイスもしている。

実は管理人も当時学生だったがこの国労修善寺大会に闘う国労組合員の支援に駆けつけていた。

まだ残暑厳しい季節だったが、必死になって国労の代議員に「闘う国労の旗を守ろう!」と訴えたのを覚えている。

そして、「労使共同宣言」の本部提案が否決され闘う六本木執行部が樹立した時は大変感動的であった。

後にも先にも修善寺に行って温泉に入らなかったのはあの時だけである。

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