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作品を拡散させないために

つくづく、アートマネジメントって、芸術性と商業性のバランス感覚が命だよなあと思う。

最近見た演劇、どれもこれも、「上演中の撮影OKなのでぜひSNSにシェアしてください」的なアナウンスがあって、(作品がとてもよかったとしても、)毎度毎度、げんなりしてしまう。
なんらかの演出効果がそこにあるならまだしも、そうでないのだとしたら、作品の切り売りじゃないかと、私は思ってしまうのだよな。
(いい作品も多いのに、単純に、もったいないと思う。もちろん、コロナで動員に苦しんでいる劇団のことも、よく分かるし、もしかしたら劇団の維持のためには仕方がないのかもしれないのだけれど、それでも、そこは一番切り売りしちゃいけないところなんじゃないかと、わたしは思ってしまう。)

作り手からなにも言われなくても、その作品を好きになってくれたお客さんなら、その人の大切な人に勧めてくれるものだと、わたしは信じたい。そういう宣伝のアナウンスを聞くたびに、宣伝する/される観客たちに対する素朴な信頼が失われていることが、わたしは、寂しい。
SNS的な商業性や承認欲求から距離を取らない限り、せいぜい役に立つ芸術は作れるかもしれないけれど、まことの意味での芸術を作ることはできないんじゃないかしら。
(そういう意味で、わたしは、芸術にしかできないことがあるということを、まだギリギリ、信じている。)

逆に、SNSで写真付きで宣伝してしまう観客の側も、(すべての人がそうというわけではないのだけれど、)作品を宣伝することを通して、めぐりめぐって自分自身の宣伝をしようとしている時さえ、あるような気が、わたしはしてしまう。
そこにあるのは、「現代演劇を観た私」というプレゼンテーションなのであって、作品の内容は、じつはあんまり、関係がない(ように見えるときが、私にはしばしば、ある)。オシャレなカフェの写真をアップするように、作品もアップされ、拡散されてしまう。少なくとも、スマホを操作している、その間、その人は作品を観ていなかったわけなのだから。


芸術ですら、拡散していく商業性に取り込まれていってしまうこと、わたしは、悲しい。

じつは、わたしも、以前所属していた劇団で、「上演中の写真撮影OK!」というやり方を取ったことがあった(当時としては先進的だった)。だけれど、それは、むしろ色々な出来事がSNS的に消費されていくことに対する批判精神を含めた演出効果としてやっていた(と思う)から、まだ芸術性と両立できていたのであって、そこに無自覚だと、作品すら(瞬間的にであれ、)劇団のCMに成り下がってしまうんじゃ、ないかなあ。


わたしは、なにを観に、劇場に行くのだろう。


わたしは、いま一度、SNS的に拡散していくのでない、丁寧な人間関係を、とことん、信じていきたい。
今日会うことができた友達に、面と向かって言えなかったことがあったなら、SNSで仄めかして拡散させるのではなくて、つぎに会ったときに伝えるか、手紙を書くかして、その人だけに向けた言葉を、わたしは紡いでいきたい。

もし、困っている友人がいれば、SNSで連帯を表明するのではなく、ごはんや観劇に誘うなり、電話をかけるなりして、公の場のパフォーマンスに回収されない、一対一の私的な関係性のなかで、その友人の力になりたいと思う。
大切なひとやモノとの関わりを、まことの意味で大切にしていきたい。


今年、わたしは、たくさんの手紙を書いた。

とくに何かの役に立つという意図もなく、ただその時、たまたま頭に浮かんだことを、互いのことだけを思って手紙を書く時間は、とても楽しかった。もらった手紙も、ぜんぶ、大切に取っていて、ときどき、見返している。

わたしは、せいぜい役に立つことしかできない、ネットに拡散する作品より、役に立たない文通のほうが、何倍も芸術だと思う。
芸術だからスゴイとか、エライとか、そういうことではなく、そういう小さな関係性を、丁寧に切り結んでいく営みのことを、わたしは芸術と呼びたい。

私的なものが、どんどんと公的な言葉にされ(あるいは、公的に、それを言葉にしてはいけないことにされ)、つぎつぎに拡散されていく大きな流れは、おそらく誰にも止めることができない。だけれど、そういう怪しげなものを、ふらりふらりと躱しつつ、わたしにとって大切な人やものとの、身体をとおした関係性を、芸術として築いていければ、さいわいである。

ことしは、ひさびさに、年賀状を書きます。

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