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アールヌーボー、ジャポニズム、サイケデリック、女性

気がつけば1ヶ月以上もテキストを書いていませんでした。信じられません!時が経つ速さに恐れおののいております…。

文章を書くために始めたのに、気がつけばちゃらちゃらした写真ばかり投稿していて自分が情けなくなりますが、今月中旬からはまた色々書いていきたいと思います。

今回は約5年前に書いたある美術展メモを転載しようと思います!実は明日から旅に出ます。たくさんのアートを観たいと考えています。初めて行く国なので今からドキドキ^^


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Musée d'Orsay(オルセー美術館)の、特別展示 Art Nouveau Revival 1900 1933 1966 1974(アール・ヌーボー・リバイバル展 1900年、1933年、1966年、1974年)を見てきた。

大学院でフランス語のジャポニズムの授業を受けて以来、見事に影響を受けてちょっとした関心を個人的にも持つようにもなった。

そこで紹介されたパリの美術商サミュエル・ビング(本名ジークフリッド・ビング)
百年以上も前にフランスに建てた日本家屋で着物を着ていた彼

(写真左)

のパリのプロヴァンス通りにあった店の名前(Maison de l'art nouveau【アール・ヌーボー《新しい美術》の家】)が、じつはアール・ヌーボーの名前を流布させたきっかけだと知る。

今回のアール・ヌーボー展は、アールヌーボーとジャポニズムの関係性について、さらにフェミニズムにつなげて考察しながら鑑賞してみた。

アール・ヌーボーというと まず、浮かぶイメージは
アルフォンソ・ミュシャだった。そしてクリムト。

この曲線的で装飾的な、草や花や宝石といったモチーフで描かれるちょっと現代の少女漫画に出てくるような女性の絵、というイメージで、正直あまり好きではなかった。

わたしはもともとカンディンスキーやミロ、ブラックのような、サンボリズムやシュルレアリスムと呼ばれるような絵が好きで、またはピサロやコローのような素朴な風景画が好きだったので、ちょっと豪華でロマンティックなイメージが苦手。建築や家具も機能主義、アアルトやル・コルビジェといったモダニズムが好きで、そんなわけで北欧へ流れ着いたといってもいいのかもしれない。

カンディンスキー

ミロ

ピサロ

コロー

(以前上野美術館のコロー展に行った際、カンディンスキーはコローに凄まじい影響を受けたという説明があり、最後の1ブースはコローとカンディンスキーの影響関係をテーマとした展示だった。これにはビックリ。両方とも好きだったけど、関係があるなんて思いもしなかったよ!)

コローやピサロの風景画は、何時間でもずっと見られちゃうくらいの奥深さがある。

しかしもっとオドロキの展開が。OH MY GOD!!
今回のオルセーのエクスポジションは、わたしのアール・ヌーボーへの意識を変えるきっかけとなったのである。

当たり前だけど、アール・ヌーボーはミュシャやクリムトだけじゃない。根や茎といった草木や花のモチーフのチェストや椅子だけでもない。アール・ヌーボーは、もっともっと奥が深かった。

19世紀末から20世紀はじめに盛んであったアール・ヌーボーも、そのうち人気がなくなったのだが、一部のシュルレアリストたちには熱狂的に受容され続けていったのだそう。

シュルレアリストの代表的人物ダリも、アール・ヌーボーを擁護しつづけ、影響を与えられた一人だった。

ダリ

数々の奇行で有名なダリ、ダリが初めてパリに降り立ったときにフランスパンにひもを付けて頭に帽子のようにくくりつけていたというエピソードは最も有名なもののひとつだろう。ファシストとしてピカソに非難されていたダリだが、愛妻家であり、ガラへの一途過ぎる愛はときとして涙を誘う。
展示にはもちろんダリの作品も。

L'Enigme du desir-Ma mere, ma mere, mare (1929)

また、ガウディのデザインした椅子や鏡なども、アール・ヌーボーから影響を受けたものとして展示されていた。(うん、ガウディはどこをとってもアール・ヌーボーだよね)

(Paire de miroirs pour la Casa Mila, 1906-1910)

また、イサム・ノグチの机も、以前書いたBrassaiの写真も展示されていた。

ルーマニアの写真家、Brassaiの作品

アール・ヌーボーは世紀末の退廃的なデザインといわれて流行らなくなった後も、幾度か美術史に再び登場し、既存の決まりにおさまらない豊かで自由で個性的な装飾性や、草木をモチーフとした有機的な造形から自然派、エロティシズム、サイケでドラッグでトリッピーなラブ&ピースのあのヒッピー文化にまで発展していったという。

そのアール・ヌーボーのリバイバルが起こった代表的な年代が1933年、1966年、1974年であり、それらが今回のエクスポジションのテーマになっている。はじめのブームが廃れた後もアール・ヌーボーの再評価は進み、今となっては新古典主義とモダニズムの架け橋として考えられるほどになっているという。


つまり!!
あのクリームのレコードの表紙のアートも、グレイトフル・デッドのレコードの表紙のアートも、ビートルズのリボルバーのジャケットも、アール・ヌーボーの影響ということ!!


ぎゃひーーオドロキ。もちろんアートワークだけでなく、音楽の方向性やヒッピーの精神、文化も多いに影響を受けているということは間違いないだろう。つまり、アール・ヌーボーの特徴とされる自由・個性・曲線・エロティシズム・有機的で自然的なもの、享楽的で退廃的なものなどなどは、じつはサイケデリックでカラフルでドラッグや音楽でトリップした幻影やロックやヒッピー文化とつながっていたのであーる。

ダリが紹介したClovis Trouilleも、もれなく展示されていた。

自らを「1900年のサバイバー」と呼んでいた、トゥロイユ。テーマをエロティシズムに据えた彼の作品はアール・ヌーボー初期の代表でもあるようで、日本では澁澤龍彥が紹介したといわれている。

そのほか、ジャワ島出身のオランダ人画家Jan Tooropの絵や、Pierre Bonnard、Henri Privat-Livemont、Gisbert Combazの絵も、そして25歳で若くして亡くなったイギリス人画家・詩人・小説家のAubrey Beardsleyの絵も展示されていて、とても興味深かった。

彼のL'enfant au pate de sableという絵は、まるで日本のかけじくの水墨画のよう。

Jan Tooropの絵も、女性が着ている服は日本の着物みたい。

Henri Privat-Livemont

彼の作品のひとつには、『Bitter Oriental』と書いてある1897年の何かのポスターのようなものがあり、『Oriental』という言葉を使っているあたりがもう、この頃の美術界のジャポニズム・シノワズリなどのオリエント・ブーム(特にL'Art Extreme-Oriental【極東美術】)という流れの一番強い時期であったことが明らかである。

アール・ヌーボーは、日本、中国美術の影響下の中で生まれたものであったという驚きの発見。それはもはやGisbert Combazの作品、『La Libre Esthetique, Salon annel, 1898』という絵を見ても分かる。

西洋絵画が日本・中国美術の影響を吸収してアール・ヌーボーへと発展させたということである。

わたしが日本、とかアジア、といって興奮する理由は、ナショナリズムの精神や自国至上主義に起因しているのではなく、まさかのアール・ヌーボーという美術の新運動であった大きな潮流が日本や中国の影響を受けていたという事実と、それをまた日本が吸収して昭和後半の少女漫画へと発展させた可能性が高いという事実にビックリしたことからきている。西洋美術の流れの中にモネやゴッホなど日本美術好きの画家たちがいることは知っていたものの、ひとつの文化に大きく和と洋の出会いがもたらした衝撃と効果が働いていること、そしてこれからの文化や思想の展望の可能性を見出だせるこの感動たるや!

では、アール・ヌーボーからの日本の少女漫画への流れを見てみよう。

Aubrey Beardsley

彼の絵は確かにアール・ヌーボー調であり、さらにエロティシズムの要素も感じられるが、それだけじゃなく、時々日本の絵画の影響をとても受けているような印象を受ける。白黒で細かいタッチは油絵というよりも筆で描かれた水墨画みたいだし、『サロメ』作品のシリーズは百人一首やかるたを彷彿とさせる。

見慣れたような絵だな、と思っていたら、これは間違いなく60年代以降の日本の少女漫画と同じタッチなのだ!


もちろん、ビアズリーの方がはるかに早い段階であることからも、日本の漫画家が多いに影響を受けていることが考えられる。あのベルばらの池田理代子先生のタッチも、またはそこからちょっと後の『オルフェウスの窓』、『女帝エカテリーナ』、『天の涯まで―ポーランド秘史―』などのその後の作品のタッチはビアズリーっぽいし、『日出処の天子』や『舞姫テレプシコーラ』で知らない人はいないであろう山岸涼子先生にいたっては似てるというよりは本人がはっきりと影響を受けていると公言していることからも、確実に日本の初期~中期少女漫画家に影響を与えている。

下記はWikipediaから、ビアズリーの作品がエロティシズム的であることと、そして日本の少女漫画家に与えている影響について言及している文章。
-------------------------------------------------------------------ビアズリーの作品は『女の平和』の挿絵など猥褻なものが多かったが、死の直前には、スミザーズに宛てた手紙の下書きで、それら全ての猥褻な作品を破棄するよう依頼した。しかしこの依頼は実行されず、その代わりに彼の作品はハリー・クラークやバイロス、フォーゲラー=ボルプスヴェーデなど多くの画家に影響を与えた。日本では、水島爾保布、米倉斉加年、佐伯俊男、山名文夫たちの作品にビアズリーの影響が濃厚である。漫画家では山岸凉子や魔夜峰央がビアズリーからの影響を自認しているほか、手塚治虫もその作品『MW』で彼の作品の模倣を行なっている。

(山岸涼子は)幼い頃からオーブリー・ビアズリーの絵を好み、ビアズリーのように細くはっきりと描けたらと思っていたという。また、ふきだしを四角く書いているが、それはふきだしに入る文字数を見誤りやすく、四角にしたところ写植がひっかからずに入るためにそうなったと語っている。
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重要なのは、ビアズリー自身が時代的にも背景的にもジャポニズムの興隆の中で生まれたアール・ヌーボーの潮流の影響を受けた作家だということである。つまり、ある意味で日本の少女漫画家たちは日本風の美術を逆輸入したという形になる。

ちなみに、ここまで語っておいて難なのですが、ジャポニズムからの影響、そして日本への影響、特に少女漫画との関係性などは全く説明も描写もされていませんでした。それなので、すべてわたしの仮説・妄想でもあります。だはははは

それでもアール・ヌーボーの画風が漫画にぴったりであったことは、ビアズリーの作品だけでなく展示されていたほかの作品も多いに証明している。

マンガ!

マンガ!!

絶対マンガ!!

いずれも、1960年代の西洋の作品。

さて、ここからさらには、フェミニズムにも絡めて見ることができる。

ミュシャの影響を非常に受けているであろうことが明らかであるこのポスターは、当時の南満州鉄道株式会社のポスターである。
ご存知南満州鉄道株式会社、通称満鉄は、日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで満州(中国東北部)に存在した日本の特殊会社だ。鉄道事業を中心に、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となったこの会社は、もちろん大日本帝国の植民地主義の精神を具現化したものであるといえる。

(この満鉄の元社員が集まって作った「満鉄会」が、2009年10月23日に高輪パシフィックホテルで「満鉄ポスター展」の一般公開を午前11時から正午までの1時間のみ行ったそう。)

まさにアール・ヌーボーの潮流を受け継いだ素敵なデザインなわけだが、ここに描かれている女性は満州地方の先住民族である女性である。民族衣装を着て微笑む女性のこの絵が満州鉄道、植民地主義のプロパガンダに使われた歴史がそこにある。当時、大日本帝国からすれば、植民地としての満州への眼差しは、ヨーロッパの美術商が発見した日本を見つめた時と同じ、「オリエンタル」なものを見るそれであった。そして、その「オリエンタル」なものを纏うのは常に女性であった。
戦争、女性、植民地。
民族、帝国主義、資本主義。
アートや表象が、わたしたちにいろいろなことを教えてくれる。


話は変わるが、パリのいくつかのメトロの入り口もアールヌーボーの様式のアートといわれている。パリを歩くときはメトロアート(中も面白い)に注目しながら歩くのは一つの粋な楽しみ方だろう。

メトロだけではなく、街のあちこちにある(といっても中心地に多いけれど)パサージュも、アール・ヌーボー風。

いきなりひょっこり現れるパサージュ。
ここでぶらぶら歩きをするのが本物のパリジャン・パリジェンヌというもの。

拝啓、ベンヤミン先生。
先生もここで遊歩者しましたか。


【過去テキスト】

時の宙づり:

https://note.mu/minotonefinland/n/n2a182b91e783

不思議惑星キン・ザ・ザ(Кин-дза-дза! Kin-dza-dza!):

https://note.mu/minotonefinland/n/n3d2e049be0ff

日本からのサプライズの贈り物:

https://note.mu/minotonefinland/n/n1f33b547e2f4

フランスについて、2014年夏に思うこと:

https://note.mu/minotonefinland/n/n5bbe675bd806

エミールの故郷への旅(前編):

https://note.mu/minotonefinland/n/n8d7f3bc8d61d

エミールの故郷への旅(後編):

https://note.mu/minotonefinland/n/n6ccb485254c2

水とフィンランド:

https://note.mu/minotonefinland/n/n82f0e024aaab

ヘルシンキグルメ事情~アジア料理編~:

https://note.mu/minotonefinland/n/nb1e44b47da30

わたしがフィンランドに来た理由:

https://note.mu/minotonefinland/n/nf9cd82162c2

ベジタリアン生活inフィンランド①:

https://note.mu/minotonefinland/n/n9e7f84cdc7d0

Vappuサバイバル記・前編

https://note.mu/minotonefinland/n/n2dd4a87d414a

サマーコテージでお皿を洗うという行為:

https://note.mu/minotonefinland/n/n01d215a61928


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