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短編ゴシックホラー 『悪魔城 ITABASHI』

まったく無駄な遠回りばかりだったと、これまでの人生を振り返って私は思う。

つまり「中年の危機」と世間で謂われるものに、漏れなく自分も捕らわれてしまったのかもしれない。これも俗世に生きる男の多くが経験するという現代的な通過儀礼と考えれば「何だそんなものか」と逆に楽天的になりもするのだが、それと同時に自分というものが余計に詰まらない、如何にも取るに足らない存在に思われてもきて、やはり辛くなる。

いっその事すぐにもっと歳を取って一気に老いさらばえてしまえば、たとえば枯淡の境地というものに近づき、それで自分の精神も救済される——そんな気もしてくるのだった。

この世にはごくありふれている状況ではあろうが、やはり悲惨な我が現状を改めて思う。

自分の属していた会社には海外支社が一つだけ存在しており、かなり長い間そこにいた。そもそも決して望んで赴任したわけではなかった。しかし属している以上は組織の命令に逆らうわけにもいかず、私は大人しく其の国に赴き、そのまま長く働いた。それなりの、すくなくとも期待されていた程度の成果は上げていたはずだ。

ところが数ヶ月前、突然呼び戻されるように帰国させられ、いきなり馘首を告げられた。

何でも世界的な感染症の流行、それに伴う不況の煽り、その他諸々様々な情勢変化により何がどうしたと、総務や人事さらには役員までもが出てきて、とにかく尤もらしい事由を延々と並べ立てた。はっきりと詳しくは覚えていないが、そんなような記憶はある。とにもかくにも自分は会社にとって不要と判断されたわけであり、そのような烙印がまずもって私には痛く、また思った以上に重たくもあり——つまり、そんな如何にもしょぼくれて冴えない中年男、それがこの私だった。

社会保障など最低限の手続きだけは何とか済ませ、その後の私は見事なまでに腑抜けた。そのまま永遠に腑抜け続ける勢いで、帰国後に取り急ぎ借りたアパートに閉じ籠もった。折しも世間では自粛ムードの真っ只中で、自宅に引きこもる事は政府によっても推奨されていた。

そのまま数ヶ月が過ぎた。

一部地域を除いて厳戒態勢が解除され、あらゆる規制が緩和され始めた。そして世間では外食や外泊などの遊楽、盛んな消費活動が推奨されるような空気が途端に蔓延した。ごくたまに眺めるテレビやインターネットから、私はその雰囲気を覗い知った。自分としてもあまりに孤独な日常に流石に鬱屈していて、気晴らしに散歩でもしようかという気になった。それまでも買い物などには出ていたが、明確な目的も理由もなく出歩くのは帰国して以来初めてだった。

家を出て何となく電車に乗って、適当な駅で降りた。朝の早い時間から足の向くまま東京の街を歩き回った。そして宵闇が迫る頃になって私の足が自然と向かったのは、以前暮らしていた事もある懐かしい街だった。そうやって私は、旧国鉄の板橋駅のすぐ裏にある、時代に忘れられたような飲み屋通りに辿り着いた。レトロな雰囲気が過ぎるようなスナックの看板、懐かしい赤ちょうちんの灯りが私の目に飛び込んできた。


飲み屋街 白黒


「……あら、ヤマちゃんやないの! 久しぶりやねえ、元気しとった?」
「ほんまやで! どんだけご無沙汰やねん。ヤマちゃんおらんくなって、うちもとうとう潰れる思ったわ」

暖簾をくぐった途端、店の主人と女将さんが私にすぐに気がついて、むかしと何も変わらない調子で迎え入れてくれた。本当に久しぶりに——もうかれこれ十数年は経っているだろうか——私はその店を訪れた。当時よく通っていたKというその小さな居酒屋は、自分の記憶通りの場所にいまだに存在していた。

「おじさんもおばさんも、お元気そうで良かった」
「ぐふふふ。……もう死んでる思ったか?」
「いや、そんな事は」
店主である老夫婦のコテコテの関西弁も相変わらずだった。あまりに懐かしくて、つい涙まで出そうになる。

「わたしら簡単には死なんよ!」
「そや、しぶといで」
「……ちょっとほら二人とも、ヤマちゃん困ってるよ。とりあえず飲み物訊いたら?」
カウンターの片隅、いつもの席で後ろの壁にもたれるようにしていたハマやんが「久しぶり」と目顔で私に挨拶、飲んでいたサワーのグラスを軽く掲げてみせた。

「ああ、そやな。まずは何飲む?」
「じゃあビールを」
「そういやヤマちゃん、ずっとビールやったね」
「あー、そうだった。何だか懐かしいなあ」
そう言ってこちらを見てくるハマやんに、自分も軽く会釈を返す。この店の古くからの常連であるハマやんとも、よくこうやって顔を合わせて飲んだものだ。ハマやんも、あの頃からまったく変わっていないように見えた。

「いやー、色々変わったで」
「そうなんよ。むかしのままなの、この辺くらいよ」
おじさんとおばさんが口を揃えて言う。
「もしかしてヤマちゃん、駅の方通らんで来た?」
「ええ、ちょっと歩いてきたもので」

すこし離れた所から歩いてきたので、店のすぐ側にある板橋駅は今回使っていない。何でも駅舎が数年前から大幅に改修され、それに伴って駅前の再開発も始まっているらしい。たしかに「とうとう板橋駅にもアトレが!」とか、そんな話題のネット記事を目にしたような気もする。あの古い駅舎や駅前広場の醸し出す独特な雰囲気が、個人的に気に入っていたのだが。

むかしの板橋駅前

しかしアトレ化となれば、その独自性は確実に失われる。きっと都内にある他の駅と同様、代わり映えのしないチェーン店が駅ビルに並び、やがて駅周辺にもその「均質化」が浸食、ついには街全体が個性を失っていく……そういった現代的で詰まらない波が、とうとうこの板橋にまでやって来たらしい。そんな事を考えると、また憂鬱な気分にもなってくる。

「まあね。でも変わるものもあれば、変わらないものもあるから」
「お、ハマやん、またええ事言うね」
「まず変わらんのは、うちの店の儲からなさやで」

おばさんがハマやんを調子よく褒めて気分を盛り上げて、おじさんがお約束のようにぼやいてみせる。こんなやり取りも、たまらなく懐かしい。とりあえず、この店の雰囲気は恐ろしいほどに変わっていない。

「何だか自分だけが歳取っちゃったみたいで……」
私はそう言って、自分の頭頂部を撫でてみせた。そこは半ば剥き出しの状態で、如何にもツルリとした感触がした。

「そうかな? そんな事もないよ」
「そうやん、ヤマちゃん、前とちっとも変わっとらんよ」
「いや——」
やはり自分はすっかり変わってしまった。その自覚はある。
 
この十年程で、まず私は一気に老け込んだ。たとえば鏡に向かう度に自分の容色の衰え、老いの浸食をまざまざ見せつけられる。枕カバーには白髪交じりの抜け毛がいつもこびりつき、自分では分からないが加齢臭もしているかもしれない。若い頃からずっと痩せ型で、いまでも体重自体はそう変わってはいないのだが、下腹だけが妙にせり出して引っ込む気配が一向にない。

「もうすっかり中年で。おまけに会社も辞めさせられて」
「まあまあ、大丈夫よ、そんなの。気にしない気にしない。……ほら、おれもさ、もうこんなよ」
そう言って、ハマやんが被っていた帽子を脱いでみせた。こめかみから上の部分が、綺麗に禿げ上がっている。
「……そら、前からやないかい!」
すかさずハマやんにツッコミを入れる、おじさん。
「そうでした!」
ハマやんが自分の禿頭をペシッと叩いてみせた。

ハマやんはいつも黒ずくめの服装で、大きな黒い帽子も被っていた。その格好がいわばトレードマークで、そして帽子の下の頭はむかしから禿げていた。それがチャームポイントでもあった。別にそれを気にしている様子もなく、こうやってよく自分から披露したりもするのだ。

「ハマやん、何か、すいません。ありがとう」
先輩らしいハマやんの潔い態度に、私は自分を恥じた。
「え、何よ? ヤマちゃん、それ何のお礼よ」
「……あ、分かった! 励ましてくれて、禿げ、ましてくれて、ありがとう……って事やろ! え、違う?」
うれしそうな顔をしたおばさんが、私とハマやんを交互に見つめてくる。
「おばさん、ちょっとそれは……」
私は如何にも中年の男らしく、苦々しく顔をしかめて見せる。しかし実際の気分は、どこか清々しく軽いものになっていた。

ここに来ると、いつも気が楽になった。たとえ自分が何者であっても、いつも変わらずに受け入れてくれるような雰囲気が、この店にはむかしからずっとあった。

「これ、サービスね。最近の自信作。食べてみて」
「すいません、じゃあビールをお代わりお願いします」
「はいよ、ビール! ビールは原価高うて、儲け殆どないけどな……」

注文を受けたおじさんが、また軽口を飛ばす。おばさんの料理は相変わらず美味しい。おじさんは自分のコップに日本酒をちょっとだけ注いで舐めるように飲み、また機嫌よく冗談を言う。私はよく食べ、よく飲んだ。ハマやんは自分のペースを崩さず、あくまで淡々と飲んでいる。

——それにしても、不思議な気分だった。

店のおじさん、おばさん、それからハマやんはまったく歳を取っていないように見え、しかし自分だけが確実に年齢を重ねている。結果として、あの頃かなりの年嵩に思えたハマやんと自分はいまや同年代のようになっている。しかしこの人たちの態度はむかしからずっと変わらず、ごく気さくなものだったから、とくにそれで何かが変わっているわけでもない。この店は如何にも古くて汚くて小さく、しかしいつも居心地が良い。自分にとっての聖域サンクチャリのようなものなのだと、いまや中年になった私は思う。


妖しいスナック


「もうちょっとだけ、飲んでいかない?」
そうやってハマやんが誘ってくるのは、ちょっと珍しい事だった。店じまいをしているおじさんとおばさんに挨拶をして、私たちは居酒屋Kを後にした。ハマやんに先導されて路地裏をしばらく歩き、どん突きにあるスナックに入る。

「あらー、ハマやん。今日ちょっと遅い時間じゃない?」
「お、今日も来たな、ハマ!」
やけに重く分厚い扉をハマやんが身体で押すように開けて中に入った途端、カウンターに立つママと常連らしい老人たちが口々に声をかけてきた。ここもハマやん行きつけの店らしい。

「……外から見たとき、営業してるとは思わなかった」
「ここは、そんな感じの店なんだよ」
「窓も内側から板で打ち付けてあるね」
「まあ、こういうご時世だから。明かりが外に漏れないようにして、灯火管制をさ……つまり闇営業ってやつかな? ここら辺だけ、まだ厳しいから。でもほら、お客も結構入ってるでしょ」
ハマちゃんの視線の先には、さっき声をかけてきた老人たちが車座になって飲んでいる。まだそんなに深い時間でもないが、かなり盛り上がっているようだ。

「ま、とりあえず飲もうか」
「ええ」
カウンターの片隅の席に二人並んで座ると、ママがハマちゃんのボトルを持って来てウィスキーをグラスに注いだ。この店にはビールなど置いていないのかもしれない。とにかくこんなスタイルらしいから、私はハイボールにしてもらった。業に入りては業に従え——それも私に長年染みついた規範だった。「では、再会を祝して」とハマちゃんがウィスキーの水割りが入ったグラスを掲げた。


👿


「どう? 飲んでる?」
「飲んでるよ」
実際かなり飲んでいた。杯を空ける度にママがいちいち作ってくれるハイボールはかなり濃く、確実に酔いも回ってきている。
「まあだから国のやる事にね、ただ盲目的に従ってたんじゃ、こういう小さい店だって立ち行かない……って、ちょっとヤマちゃん、おれの話ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ!」

ハマやんも酔ってきている様で、話がどんどんクドくなってきた。話題はいつしか我が国の政治問題になっていて、それについてハマやんには語りたい事や意見が山程にあるらしく、次第に語気も強くなってくる。

「どうなのよ? ヤマちゃん的にも、色々と思う所もあるんじゃない?」
「いや、それは」
国家に対して言いたい事など自分にはない——と、言おうとして、やはり言いたい事は自分にだって実際かなりあるなと思い当たり、しかしそれを上手く言語化して相手に伝える事は困難に思えた。自分の思考に口先が追いつかない。それくらいには酔っていた。

「しかしあくまで自分としては……」
そもそも場末の酒場で酔いに任せてそんな事をしゃべってどうなるのだ? 何にもならない。無意味。ナンセンス! そんな私自身の信条というか諦念もあり、ではそれをまず前提として開示しようではないかと思ったが、すっかり酔っている事もあり、ただ脆弱な己の精神を吐露するような拙い言葉しか出てこない。そして酔っている。「だからね? あくまで自分としては……」とにかく只グダグダに、あくまで醜態を晒すだけの自分がいた。

「いやいや、でも分かるで! それホンマよく分かるわ、ヤマちゃん!」
ところが呂律の回っていない支離滅裂な自分の言葉に目の前のハマやんは鼻の穴まで大きく広げて激しい同意を示してくる。そして何故か胡散臭いエセ関西弁になっている。これは彼がある一定以上に酔ったときに出る癖のようなもので、つまり我々は二人とも結構な量のアルコールを摂取しているという事だった。

「分かる! あくまで本当によく分かる!」
「でしょ? だから実際、本当にあくまで私はねえ」

血中アルコール濃度の急上昇が生み出す束の間の共同体感覚に包まれた私は目の前で同じ様に酔っているハマやんに強烈な共感や親しみを抱きながら「そう、ハマやん。本当にそう、しかしそれはあくまで」ひたすら繰り言を連ねていく。「ホンマそやねんな、そうそう」そしてやたら激しく相づちを打つハマやんの関西弁は、より一層インチキ具合を増していく。そうやって我々二人の間には強烈なグルーブ感が生まれ、それを心理学で言えばラポール空間が急速に築かれたという事であるが、それがどうした? とにかく中年男同士、仲良く酔っているという事だった。

だからいつの間にか我々の会話に入ってきた常連の老人たちに対して、気がつけば自然と共同戦線を張っており「あくまであくまでって、うるせえなオメエは」などと遠慮ない距離感でまずは私を標的に侵攻してきた彼らの中ではリーダー格らしい老人に対して「いやいやゲンダさん、それはあかんて」とハマやんが言い返したり「それはハマやんにも失礼だ。生まれ育ちの問題じゃないと思う。訂正して下さい」なんて私も食ってかかるなど、いつしか最近の政治と云うよりは世代間の意識の違いや根本的な格差やetc、とにかく社会問題全般に大いに踏みこんで場は白熱した。

「だから我々としては、あくまで」
「そう! あくまでね、そこはゆずれへんとこ!」

私もハマやんも、すっかり出来上がっていた。
「だから! さっきから、あくまであくまでって、オメエらよお」
「そうだ! 若えのがクソ生意気に御託並べやがって。ゲンの字よお、もっと言ってやっていいぞ!」
「ああ、言ってやれ言ってやれ」
もちろん老人連合も負けずに酔いを加速させ、議論めいた何かはエスカレートしていく。

ゲンダさんと云うらしい老人を中心に、彼の意見に同調して語気と論調を強めていく相棒役、その二人の言葉をただ繰り返し続けている最初から相当できあがっていた様子のもう一人。ハマやんと私は、その三人組の老人と相対する構図になっていた。

「うんうん、でもどっちの話もよく分かるなー」
店のママはそうやって適当な合いの手を入れつつ、早いピッチで空になる我々のグラスに次々と濃い酒をドボドボと際限なく注ぎ続けた。よく見ればママも結構な年齢で、その動きは古い機械を連想させた。そしてウィスキーだか焼酎だか分からない液体を気がつけば氷も入れずに生のままグイグイと私も飲んでいるわけで、目の前で対峙している老人たちの姿がぐにゃりと歪んだり奇妙に伸びたり縮んだりもした。

「あくまで、あくまで……お前ら、あくまでそう言うのか」
「おう、どうした、ゲンの字よ」
「どうした? どうした?」
「ハマ、おれは、おれは……」
ゲンダ老人が下を向いて、ぷるぷると肩を震わせている。赤ら顔に汗を浮かべて大きく表情を歪め、苦しそうな息を吐く。明らかに様子がおかしく、相棒が心配して彼を見る。私の横で、ハマやんが「おっと、こらいかん」と小さく呟くのが聞こえた。
「おい、ゲンの字どうしたい。飲み過ぎたか?」
「飲み過ぎたな、飲み過ぎだ、飲み過ぎ」
「おれは、おれはなあ、ハマぁぁぁ……」

「ちょっとゲンさん、一回落ち着こう」
すこし冷静になったらしいハマやんが声をかけた所で、ゲンダ老人は顔を上げて目をガッとばかりに見開いて叫んだ。

「……おれは人間をやめたぞ!!」

大きく開けたゲンダ老人の口がたちまち耳まで裂けて広がった。その口から真っ赤な血を吹くと同時に、部分入れ歯がポロリと落ちた。剥き出しになった歯茎からは異様に大きな牙が飛び出すように一瞬で生え揃い、白目がちで陰気に濁り据わっていた目は真っ赤に染まり、酒が染みついたような赤ら顔はドス黒いというか漆黒の、ぬめりをもった両生類じみた肌にみるみる変わっていく。

……宣言通り、ゲンダ老人は人間をやめた様子だった。

「ゲンの字よお、そらオメェ一体どういう」
腰を抜かし、驚愕の表情を浮かべている相棒役の老人の質問に答える代わりに、すっかり人外の怪物と化した元ゲンダ老人は、彼の首筋に猛禽類じみた鋭い爪を突き刺した。
「うわあァァァ!」と断末魔の叫び、その哀れな老人の頭を容赦なく噛み砕いたのは、繰り事ばかり言う老人だった。彼もまた地獄に棲む悪魔の姿に成り代わっていた。
「アクマデ、アクマデ、アクマダ……!」
口の端から脳漿の一部を滴らせ、小型の飛行タイプ悪魔と化したその老人はまた同じ言葉を三度繰り返す。どうやら人間だった頃の習性を引き摺っているらしい。

「ハマぁぁぁぁぁ……もうおれは、ただの老害でも人間でもない、あくまで、悪魔だ! 覚悟しろォォォォ!」
筋骨隆々な巨体の人型悪魔にすっかり変貌した元ゲンダ老人が、獰猛な迫力を漲らせ、こちらに迫ってくる。

その瞬間だった。
ヒュッ、ヒュッと何かがしなる音。
目の前を、空間を鋭く切り裂くような何かが走った。

「ぐわわわわわァァァァァ!」
「ギャぁぁぁぁぁぁ!」

二体の悪魔は同時に苦悶の叫び声を上げた。スナックの床に元繰り返し老人悪魔の首がゴロリと転がり落ち、その一方で元ゲンダ老人悪魔の首は勢い余って天井まで飛んでぶつかり、それから床でも一回ゴムボールのようにバウンドして、最後はカウンターのテーブルの上にきれいに載った。

「ハマぁぁぁ、それは、聖なる鞭……お前、やっぱりィィィィィ、デデ、デー……」

強い憎悪と憤怒の表情を浮かべながら、首だけで喋った元ゲンダ老人悪魔は青白い炎に包まれ、切り離された胴体と同時に燃え尽き灰になった。

「あかんわ……。つい飲み過ぎた」
私のすぐ隣で、やたら装飾の付いた鞭のようなものを片手にしたハマやんが怠そうに呟いた。



「これはヴァンパイアキラー 吸血鬼殺しって名前の鞭でね」
「……」
「うちに代々伝わってる商売道具」
「商売道具?」
「あれー? ヤマちゃんには言ってなかった? おれほら、こういう仕事なんだよ」
ハマやんはいつも着ている黒いコートの内側に手を突っ込み、そこをゴソゴソと探って名刺を取り出した。そこには「デーモンハンター(フリーランス) 破魔本 銀太はまもと ぎんたと書いてある。

「まあ先祖伝来、おれもガキの頃から親父に仕込まれて、ただ何となく惰性で続けてきた稼業で何とも言えんけど。……にしても飲み過ぎたわ。あー、まさかゲンさんがね」とか言いながら、悪魔と化した元ゲンダ老人たちが残した衣服や手荷物を確認し始めるハマやん。「あ、これは魔石……やっぱりな。でもしょっぱい実入りやなー」ぶつぶつ呟いては「あ、今週もう年金入ってたのか」と財布まで漁っている。

「ハーマやん……」
頭上から声がして天井を見上げると、さっき元ゲンダ老人の首がぶつかった辺りに老婆が四足で逆さに貼りついていた。チリチリと波打つソバージュヘアを垂らして、ギョロリと目を剥いてこっちを見下ろしている。

「今度は私と、あーそびましょ♫」
酒焼けしたガラガラ声で、彼女は歌うように言った。その声で私にはやっと分かった。……この店のママだった。すると彼女がこの騒動の元凶——悪魔使いか魔女、あるいはやはり悪魔そのものだろうか。さっきまで彼女がしきりに飲ませてきた得体の知れない酒、それによってもたらされた酔いが一気に引いていく。

「ねえ、ハマやんに、それから新顔さん……たしかヤマちゃんだったよねェェェ?」
私は思わず身構えたが、ハマやんは老人たちの荷物を漁るのに没頭して気づいてもいない様子だった。まさか,まだ酔ってるんじゃないだろうな。「デーモンハンター」なんて堂々と名乗っているくせに、しっかりしてくれよと思う。

「もっと、もっと飲むよねェェェェェェ?」

そしてママは凄まじい形相で叫び声を上げつつ天井から跳躍、こちらを目がけて一直線に降ってきた。

ザシュッ!
私は咄嗟に床を転がって彼女を避けると同時に、さっき自分の鞄から取り出して念のため手に握りしめていた短刀を、二匹の悪魔に命を奪われた相棒役老人の死体に突き立てた。それに続けて早口で呪言を唱える。

愚碁誤悟吾後期ぐごごごごごご……!」
突き刺さした短剣から電撃が走り、見えない繰り糸に操られたように老人の死体が起き上がる。起き上がると同時にその死体を材料にして赤褐色の悪魔が再構成されて、術者である私を護るような位置に立つ。

我が赤き使い魔——レッドオールドの誕生である。

「飲んで! 飲んで! 飲んでェェェェ!」
愚碁誤悟吾後期ぐごごごごごご……!」

四つ足で跳ねて襲いかかる老婆を、使い魔にした元老人が身体ごと受け止めた。「なんで? なんで? ねえ、なんでェェェェ?」狂乱状態になったママが吠え、私の即席使い魔の頭部にガジガジと噛みついた。これが人間の老女だとは、とても信じられない力と動きだった。

「……よーし、ママさん、もうお休みの時間だよ」
そこで忍び寄っていたハマやんが後ろから組み付いて、なおも暴れようとするママを一瞬で絞め落とした。


🔦


「……ほら、この店なくなると皆が困るじゃない」
なるほど、灯火管制で夜十時以降の営業をいまだ禁止されているこの界隈には、こうして闇で深夜営業している非合法スナックは貴重なのだろう。すくなくともハマやんの様な飲ん兵衛、それから他に行く場所や自分の家にも居場所がない老人たちにとっては——。

「そうは言っても、悪魔で」
「まあまあ、とりあえずこれで大丈夫だから」
ソファ席に横たえたママの顎を持って上向きに口を開けさせると、ハマやんは自分のリュックから出したペットボトルの液体をそこに流し込んだ。気絶したままのママがビクッビクッと全身を激しく震わせる。
「うん、効いてる効いてる。これで朝になれば、ね」
どうやらペットボトルの中身は自家製の聖水らしい。ママはまだ完全には悪魔化はしておらず、人間に戻す事ができるようだった。「あとは原状復帰だ。ちょっと業者に連絡だけしちゃうから」とハマやんは携帯から何処かに連絡して話し始める。

改めて見渡すと、スナックの中は極彩色の悪魔の体液、そして食い殺された老人の赤い血や汚物、それに混じって各種酒類にツマミの乾き物やママお薦めの馬肉やチーズなどもあちこちに飛び散り、カウンターの内側では酒瓶や食器類が勿論尽く割れて砕け散っている。壁や床に天井など、建物の設備自体も一部損壊しているし焼け焦げも目立つ。まさに阿鼻叫喚の嵐が過ぎ去ったような有様だった。これが翌日までに本当に元に戻るのだろうかと私は訝しむ。しかしハマやんはいかにも手慣れて落ち着いており、業者との話もスムーズに折り合っている様子だ。あるいは、これまでにも何度か同じような事がこの店では起こっているのかもしれない。

「それにしてもヤマちゃんも同じ業界の人だったとはね。全然分からんかったよ。大したもんだ」
「いや、自分もハマやんがそうだとは全く」
「まあ、酒場でいちいち自分の仕事の話するのも無粋やもんね」
「たしかに」
「あとヤマちゃんの名前、こんな字で書くんだ? 夜魔音 紅壱ヤマネ コウイチって、何か凄い字面だね」
ハマやんの「破魔本 銀太」という字面も中々だと思ったが、私は何も言わず黙っていた。
「そんで、悪魔精錬士なんてやってたんだ」
「……そう。それで最近、独立して」

ハマちゃんが生業とするデーモンハンターと同様、私もフリーランスの個人事業主という事になる。長年会社に雇われ使われてきて、その身分を気楽に感じるようにもなっていたが、首を切られてしまったのだから仕様がない。年齢からいっても、いまさら他所で雇われるのは色々と厳しいだろうと思われた。だから独立開業するしか生きていく道はない。そんな思いで刷った、まだ真新しくて自分でも見慣れない私の名刺。「悪魔精錬士かあ……」それを手に取ったハマちゃんが、いちいち裏返したりして仔細に眺めている。


青い月


「もう終電とかヤバいかもしれんけど、とりあえず駅まで送るわ」
「いや、別にそれは」
「ヤマちゃん知らない間に駅の周り、やっぱり変わったからさ。迷ったりするとアレだし」
「そうですか。じゃあ頼みます」

そういうわけで我々は路地裏のスナックを後にして、駅までの道を歩いていた。近所に住んでいるらしいハマやんは自転車を転がして、中年男同士が月明かりの下で仲良く並んで歩いている。

「今夜は満月……か」
「なるほど、満月だ」
夜空には、大きな月が浮かんでいた。見上げている私たちを冷たく見下ろしている。いつしかハマやんのエセ関西弁もすっかり引っ込んでいた。ようやく酔いも覚めてきたのだろう。
「……ヤバいかもなあ」
「そんな気がしますね」
月が皓皓として明るい分だけ、その周りに浮かんでいる雲が黒々とした不穏な絵画のように際立っていた。


🌕


「やっぱりヤバかったね」
「本当に」
すぐに駅には着いたが、やはり終電どころではない。

まず視界に飛び込んできたのは、鉄製の長大な槍だ。そして地面に突き刺さったその槍には、哀れな犠牲者たちが貫かれたまま、串刺し状態の骸になっていた。

「……あれは、そこの交番の巡査だな。見覚えがある」
「あの制服、旧国鉄の職員?」
「そうだろうね。あとは背広の勤め人も多い。大方は迷い込んだ駅の利用者なんだろうけど、もう大分傷んで、ちょっとよく分からん」

月光に照らされた駅前広場に、百舌鳥の早贄のような猟奇的または退廃的ななオブジェが夥しく陳列されている。その間を縫うようにして、我々は歩いていく。これは何らかの見せしめか警告、あるいは儀式的なものとも考えられた。如何にも悪魔的な光景だった。

「この広場、前からこんな?」
「いやいや、やっぱり色々と変わってるんだよ、駅が」
「変わったって、ただ再開発でアトレが出来ただけじゃなく?」
アトレ? そんなもの、板橋にできるわけないって。……ちょうど今日は満月だ。ちゃんと自分の目で見て、確かめたらいいよ」
 
悪魔に支配された土地では、月齢に気を配るべきだ。月の満ち欠けが、あらゆる事柄に強く作用する。

そして満月の夜には、こんな事もよく起こる。悪魔精錬士として働いてきた私は、それをよく知っていたはずだった。

「ほら、ここから見上げて」
「これは……」
「悪魔城だよ。でも悪魔城駅って呼んでもいいかもな。駅の上に、そのままくっついてる」

かつて私にも馴染みがあった旧国鉄板橋駅の古びた駅舎。その上に、どのように建造、あるいは建て増しをしたのか想像もつかないのだが、やたらに厳めしいゴシック式の古城が、そのまま載っていた。


西台の天空団地?


そのまま入り口から突っ込むのは如何にも危険であると、ハマやんが主張した。そこで線路から侵入する事にして、ついさっき飲んでいた居酒屋Kの裏手のフェンスを乗り越えて線路から侵入することにした。店主夫婦は店舗の二階で寝起きしていたはずだが、もう寝てしまったのだろう。店はしんとして、人の気配が感じられなかった。

「やっぱり電車も走ってない」
「満月の夜は、ダイヤ編成も変わるんじゃない?」

本来なら、まだ終電も来ていない時間ではあった。しかし電車が発着するような気配もなく、すぐ先に見えているホームは一応電灯こそ点いているが乗客や駅員の姿もない。辺りは完全に静まりかえっていた。線路の間に敷き詰められた石を踏む、ジャリジャリという自分たちの足音だけが聞こえた。

「結構な額の報酬が出る」というハマやんの誘い文句に、つい自分は釣られてしまったのだ。「お互いフリーランスなんだし、こういう機会には乗っていかないとね」続けて言われたこの言葉にも、たしかな説得力と重みがあった。我々の仕事には何の保証もなく、だからこそ賭けに出るべきときはあるのだろうと私は納得した。

失業保険はそのうちに切れてしまう。貯金もたかが知れている。この業界での再就職など、そう簡単には叶うまい。しかし自分の職能を全うして生きていくしか私には道はない。これからは独力でやっていかねばならないのだ。

「協会から出る報酬とは別に、貴重な魔石に宝物とか本とか悪魔の希少種……とにかく色んなものあるはずよ。何せ悪魔城だからね。ヤマちゃんも悪魔精錬士なわけだし、そういうの換金する方法も色々あるでしょ」

……そう、私は悪魔精錬士だ。

人外の邪悪な存在を自らの商売道具として利用する。とうの昔から、そうやって生きていくしかない運命なのだ。魔を糧にして、私は生きている。


線路ぽいやつ


「切符を拝見」
「Suicaならスマホに入ってるけど」
「残念ながら、この改札は切符専用で」
「ないな。そもそも電車に乗ってきたわけじゃないし」
「……それは困りましたね」

線路から駅のホームに上がり、改札から駅ビルに入ろうとすると改札に駅員が一人ぽつんと立っており、乗車切符を求められた。もちろん私もハマやんも切符など持っていない。

「では定期券はお持ちですか?」
駅員は帽子を目深に被り顔が見えず、切符を切るハサミを絶えずカチカチと鳴らしている。……どう考えても、悪魔に違いない。

「いまどきどこも、自動改札だってッ!」
言うが早いか、デーモンハンターのハマやんが問答無用と鞭を振るう。しかし鞭は虚しく宙を打った。

「ははははは! 随分と威勢がいいお客様で」

駅員が黒い霞に変わったかと思うと、その霞が次第にもやもやと再び人影を作った。漆黒のローブを頭からすっぽり被った痩せた老人……いや、ローブからのぞいた素顔は、黄灰色の髑髏だ。こいつは……。
「死神だ!」
「……くそ、いきなり凄いのが出た」
さすがのハマやんも狼狽しているが、それも無理はない。たしかに大物だった。死神は悪魔城という現象の要で、悪魔城に蠢く魔物たちの元締めのような存在だった。

「デーモンハンターに悪魔精錬士とは、なかなか珍しい組み合わせだ。……久方ぶりに力のある訪問者、大いに歓迎しよう」

私は懐に入れた手で幾枚かの呪符を掴む。すぐ隣ではハマやんが鞭を構え直す気配——完全に臨戦態勢だ。

「待て。ここで戦う気はない。歓迎すると、私は言っただろう? どうせなら、この城の城主——いまはそうだな、板橋駅の駅長も兼ねている。ともかく、その駅長に会ってゆくと良い」

死神はそんな事を言い残し、不気味な笑い声を響かせながら闇に消えていった。ハマやんと私は、そこで無言で顔を見合わせた。


🎫


改札を潜り、いよいよ駅ビル領域に侵入した。構内の電気は点いていたが、まったくの無人だった。城部分に到達するため、まずはエレベーターで二階まで上った。エレベーターのドアが開くと、そこからは完全に魔物の巣窟だった。

「ヤマちゃん、次の奴が右に回った!」
「了解。呪符が爆発するから、そこから離れて」

バシッ!

ハマやんが鞭を振るって正面から迫る悪魔をなぎ倒し、やや後ろに控えた私がサポートに回る。聖なる鞭の威力は悪魔に対して絶大で、一振りで首を跳ねられ、あるいは身体ごと吹き飛ばされた悪魔が次々に焼失していく。

ドゴォォォン!

鞭が追いつかない悪魔には、私が呪符を放つ。用意していた呪符には限りはあるが、単純な爆発物、たとえば手榴弾のように扱える為、悪魔城駅の狭い通路ではかなりの威力を発揮した。

「よし、そろそろ駅舎抜ける」
「あそこの窓から出て、屋根伝いに城に入れそう」

即席のコンビとしては、我々は文句なく優秀だ。この城の完全踏破も、あるいは夢ではない。そう思えるくらいの快進撃だった。

そのままの勢いで、私たちは城の奥深くまで進んだ。途中に立ち寄った書庫では貴重な魔術書を発見、そして城の地図の断片、数々の仕掛けや謎に関する重要な情報も手に入れた。それらの情報を手がかかりに、悪魔城には似つかわしくない礼拝堂の奥、あからさまに怪しい壁を破壊して隠し通路まで発見した。その先には宝物庫があり、そこで我々はこの探索の成功を確信したのであった。中年男が二人して、年甲斐もなくハイタッチまで交わした。

「さあ、ここからどうする」
「どうするって」
「本番はここからって、そういう考え方もある」
「しかしなあ」

差し当たり持ち運び可能で換金率の高い財宝を吟味しつつ、ここで一端引き返す事をハマやんに提言したのだが「いや、やはり先に進むべきだよ」と否定された。たしかにこのまま進んで、この城を悪魔から開放できる可能性は充分にある。それくらいに私たちの調子は良く、諸々の条件も揃っていた。「それにさ……」ハマやんは更に私を説得しようとしてくる。各地に出現する悪魔城、それを一つでも開放すれば、業界で一躍名が通る。まさしく一夜にして人生が変わる。夜が明けたとき、自分たちは英雄になっているだろう。もちろん組合や自治体からの特別報酬も見込めるし、何よりこれからの仕事に確実に活きる実績となる etc……。

——そして結局、我々は迷路のような悪魔城を更に先へと進む事になった。いつになく口が回るハマやんに、私はまた言いくるめられてしまったのだ。


👿 👹


「……にしても、それちょっと何とかならん?」
「それって?」
「いや、その、おれらの周りにおる奴らよ。どんどん増えてきてない?」
「増えて何が悪い? 彼らは貴重な戦力だよ」
「いやいや、分かってはいるんだけどさ」

ハマやんが言っている「それ」とは、私が精錬した使い魔たちの事だ。悪魔城の各エリアには、道半ばにして倒れた我々の同類や先達の死体が無造作にゴロゴロ転がっている。それに私は漏れなく短刀を突き立て、自分に付き従う悪魔——使い魔に変えていった。いまや三十数体、一個小隊程度の使い魔たちが私たちの周りを囲んでいる。手強い悪魔にやられてしまう事はあるにせよ、順調に増員してきた頼もしい兵士たち。我々がここまで無事に来られたのは、彼らの尽力によるものが大きい。だというのに、この脳筋デーモンハンターときたら……。

「でも呪符とか、何か他の術とか、色々あるやん」
「手持ちの呪符には限りがあって、補充もできない。それに悪魔精錬の本懐は、あくまでこの使い魔たちであって」
「いや、分かってるけども! でも、何かちょっと臭ったりもするし、第一、人間を材料にしてるっていうのが、おれとしてはどうも……」
「それはあんた、そんな事言ったら」悪魔精錬士を何だと思っているのだと私は憤慨して、ついまた余計な事を言ってしまう。

「ハマやんこそ、人間の死体でも悪魔でも何でも、とにかく持ち物漁るけど、あれは本当に浅ましい。絶対やめた方がいい」
「……は? いやそれはだって、デーモンハンターとして必要な調査も兼ねてるわけでね、別におれが浅ましいとか、そういうんじゃ」とハマやんは顔を赤くして。ムキになったように反論する。

「金目のものならもう十分手に入れたし、装備品とか道具だって、ちゃんと立派なものが揃ってるだろ。何も遭難者の財布を漁ったり、やられたハンターの身ぐるみ剥がす必要はない。それに倒した悪魔の牙だの角だのをいちいち採集して……」
「いや、だから! それは本当、あくまでデーモンハンターとしての! それにその死体だって、結局ヤマちゃんが片っ端から悪魔にしちゃってさ」「あ、そう。あくまでそれが職業意識とか義務だと云うのなら、この使い魔たちだって勿論、あくまで大切な」

やっぱり私もムキになってきて、更に言い返してやろうとした所で、使い魔小隊の中から一匹の赤い悪魔が飛び出てきた。

その赤い悪魔は、私とハマやんの間に立ち塞がると「喧嘩は止めて」というような仕草と表情をして愚碁誤悟吾後期ぐごごごごごご……?」と唸った。

その唸り声に所々シワがよった赤い身体、そして頭部についた噛み跡……こいつは城に入る前のスナックで常連客の老人を元に作った使い魔、レッドオールドだ。どうやらあのスナックからずっと私たちの後ろをひっそり付いてきて、後から出来た使い魔たちの間に紛れ込んでいたらしい。自分の使い魔ながら、何と健気なやつだろうと私は感心した。

「……分かったよ。もう意味のない喧嘩は止めよう。お互い、自分の領分てやつがあるわな。そこに口は出さない」

そこで急にハマやんも大人しくなる。じっと自分を見つめるレッドオールドに、かつての顔馴染みの面影を見つけたのかもしれない。ラッパ飲みしていたワインのボトルを見て「勿体ないけど、これももう止めとこう。また飲み過ぎると困る」と言った。

「私もつい飲み過ぎたし、言い過ぎた。ごめんなさい。……そろそろ出発しよう」と私も抱えていた赤ワインを床に置く。

さっき貯蔵庫で見つけた年代物の最高級ワイン、持って帰るには重過ぎるので小休止の間につい二人して飲んでいた。小休止と言いながら、つい結構な時間飲んでいた。いくら何でもひどいなと自分でも思った。私たちはプロなのだ。しかしワインは極上物で、滅多に手が出るものではない。じつに素晴らしい味であった。思わずまた手が伸びそうになるが、仕方ないので諦める。まだ瓶には半分以上残ってはいたが。


🍷


「あ、これは」
「……たまらん眺め」
 
いかにもな西洋貴族趣味の調度で設えられたエリアに足を踏み入れると、そこには何体かのサキュバス淫魔が待ち構えていた。

どこかで香が焚かれているような蠱惑的で淫靡な匂いが濃厚に漂った。たちまち幻惑の魔空間が広がり、そこで我々二人の中年男性を豪奢な寝室に誘い込み誑し込もうと、あからさまに淫乱な彼女たちが露骨に誘惑してくる。「あっはん」だの「うっふん」だの、そういった甘い吐息や囁きが耳元で絶えずしていた。

「……ちょっとだけ、この罠に乗っかってもいい? いやホントちょっとだけだから」
「ちょっとでも駄目に決まってるよ! 何言ってんの、しっかりしてくれよ! ハンターのくせに逆に狩られそうになってる」

それが淫魔の手練手管だと充分に知っているはずのデーモンハンターでありながら、ハマやんは見事に鼻の下を伸ばした漫画のような顔で誘惑に身を任そうとしている。じつにだらしがない。「辛抱たまらん」とか口走り、目も血走っている。情けない。普段Kで飲んでいる分には至って紳士的だが、実はこういった誘惑には滅法弱いのだ。私はそれを以前から何となく知っていた。

「あ! あいつらまで……」
ふと気になって周囲を確認すると、私の使い魔の約半分以上——元は男性だった者の殆ど全員が、サキュバスの誘惑に完全に蕩かされていた。もちろん元老人のレッドオールドも魅了されて、如何にもだらしない呻き声を上げている。我が使い魔ながら、なんとも不甲斐ない。

「……こうなったら、もう仕方ない」
「お、やっぱりヤマちゃんも誘惑に乗ってく? いいね。そう来なくちゃ。男だもんね」
「いや違う違う」
「ほら、むかし何回か、ガールズバーも一緒に行ったもんね? ヤマちゃんだって決して嫌いなわけじゃ」
「ああ、もう、ちょっと黙ってくれ!」
私は懐深くに手を入れて、魔力の籠もった指輪を取り出し、自分の指にはめて呪言を唱えた。

戯夜秘ギャピー!!」

指輪から強烈な魔力が解き放たれ、その絶大な効力によってサキュバスたちは一気に四散、激しく焼き尽くされた。


💍


「……さっきの」
相変わらず襲いかかってくる種類豊富な悪魔たちを軽々なぎ倒しながら、ハマやんが声をかけてくる。
「さっきの、何?」
「いや、その指輪、何か凄かったなと」
「ああ、これ」
私は指にはめた指輪をチラリと見る。あまり積極的に使いたくないアイテムだったが、あの場合そうするしかなかった。
「ヤマちゃん、結婚してたんだ」
「まあ、一応ね」
しばらくずっと外していた指輪は、自分でも意識しないうちに左手の薬指にはめていた。
「一応って?」
「別居中なんだ」
「……そうか。おれはバツイチだよ。ま、人それぞれ色々あるわな」
「うん」
「これ終わったら、また改めて飲もう。話聞くし、よかったら、おれの話も聞いてよ」
「……そうだね。また飲もう」

城主がいるのは城の最上部だ。それは分かっていた。

この悪魔城を開放するには、やはりその城主を倒す事だ。最上部に行くためには巨大な電波塔を昇っていく必要があり、その塔への入り口へは中庭を経由するのが最短ルートであった。

そして我々は、その中庭に辿り着いた。

「いよいよ来たな……」
「ここで総力戦のようだね」

中庭はやたらに広大で、ちょっとした平原のようになっていた。全体的な城の規模からすると、どう考えても広過ぎる。しかしそもそも悪魔城の次元は歪んでいて、まず何といっても板橋駅の上にそびえ立っているという非現実的な構造をしているわけで、縮尺とか構造とかそんな事を真面目に考えてみても仕方がない。第一、いまはそんな場合ではない。

目の前には悪魔の大軍勢が控えていて、その背後に目指している高い塔が見えた。

ここを突破するしか、もはや道はないのだ。

「悪魔城って云うよりは、だだ広い戦場みたいだ」
「そうだね。ちょっと戦国っぽい」
「おー、たしかに。黒澤の映画とか、久しぶりに観たくなるね」
「ああ、観たいな。『影武者』とか、いかにも制作費かかってる合戦シーンがあるやつとか」
「いいね、それ。無事に帰れたら、早速観るかな」
「……じゃあ、そろそろ行くか」
「おう」

異様な程に大きく夜空に浮かんだ月、それから無数の松明や篝火、そして自身の体自体が燃えさかっている魔物や使い魔たちも双方ともに多い。それらによって、真夜中の戦場は地獄のように赤々と照らし出されていた。まさに修羅場である。

「全軍、前へ進め!」

私は自分の使い魔たちに一斉号令を掛けた。

使い魔たちは、いまや日本軍における一個大隊規模にまでふくれ上がっていた。それだけ場内に転がる死骸が多く、また悪魔に魅入られて襲いかかってくる人間も多かった。その尽くを、私は使い魔に変えてきた。使い魔の中には勝手に自己増殖を繰り返す性質のものも混じっており、それらも加えた総数が、現在の我が軍勢であった。敵味方含め、この戦場にいる悪魔たちの総数は、偶然にも板橋駅の一日の乗降客数と大体同じくらいであると思われる。

「一気に打ちかかれ! 蹴散らせ! 駆逐しろ!」

私の指揮の下、使い魔たちが雄叫びを上げて突撃する。玉砕覚悟で全軍をぶつける。非人道的な戦略などと躊躇する余地はない。相手方もまた獰猛な悪魔であり、とにかく力任せに攻めて来る事は間違いなかった。起伏に乏しい地形的にも混戦になる事は必然で、ただそれを制するのみだ。

「ぐわァァァァァ!」
「ぎゃー!」

阿鼻叫喚の地獄絵図、修羅の世界における戦場。まさに血で血を洗う戦の隙間を縫うようにして進んだ。私は残り少ない呪符を惜しげもなく放った。ここが踏ん張り所だ。背中を預けているハマやんも片手で鞭を振るい、もう一方の手ではナイフを投げ、さらには聖水をまき散らす。混戦の中に血路を見出すべく、我々は獅子奮迅の働きをした。

「よし、あそこを切り崩せば、塔まで抜ける!」
「任せろ!」

私は殆どの魔力を使い果たし、そろそろハマやんの体力も限界に近いはずだった。しかしハマやんには、まだ隠された技があったのだ。

「魔を破れ! なぎ払え!」

ハマやんはずっと被っていた黒いトラベラーズハットをとって、ブーメランの要領でそれを投げた。

ギュゥゥゥン!

どういう原理になっているのかは一切不明だが、高速回転するうちにハットのツバの部分が次第に刃のように鋭く、そして大きくなっていく。それが悪魔の一団の首を情け容赦なく次々と斬り落としていく……まさに魔を破る、必殺のギロチンハットであった!

「まったく、大した商売道具だな」
私は思わず感嘆の声を漏らす。そして剥き出しになったハマやんの禿げ上がった頭が月光を反射してピカリとしたのを見て、思わずまた自分の頭部に手をやって己自身の禿げ加減を確認する。自分の指先が触れた地肌は、すっかり冷えた汗でぺっとり湿っていた……。


🎹


奇想曲っていうのはイタリア語だとカプリチオって言われて、それが日本だと狂詩曲あるいは狂想曲とも訳される。それでラプソディなんかと混同もされるんだけど、実際は別物で」
「そんな蘊蓄はどうでもいいんだけど、とにかくヤマちゃん、それ弾けるの?」
「うん、まあ昔はバンドもやってたりして音楽は好きだけども、本格的なクラシックとなると、ちょっと自信が」
「分かった。弾けないって事ね。……じゃあ、ちょっとその楽譜貸して」
ハマやんはそう言って私から楽譜を取り上げた。そして椅子に座り、大きく腕まくりをして、ハマやんがピアノを弾き始めた。



信じがたい事に、見事な腕前だった。

「うちの教育方針でね。ガキの頃から、こっちも練習させられてたのよ」なんて演奏の片手間に余裕で嘯いてみせるハマやん。さっきまで悪魔相手に鞭を振るい続け、また酒を飲むとき微妙に震えがきているのと同じ手指とはまったく思えないその優美な動きに、私は目を見張った。

おそらく譜面にはきっちり正確で、それでいて情緒にもあふれている……そんな音色が、塔の入り口すぐの小さなホールに響き渡っていた。

「……どうよ?」
「ちょっと悔しいけど、良い演奏だね」
実際の演奏こそ不得手だが、私は音楽には相当うるさい方だ。
「これならいけるな……」と私が口にする前に、吹き抜けになったホールの上から半透明の浮遊板が降りてきた。

このピアノで特定の曲を演奏すると、こうして特定の仕掛けが作動する。書庫にあった資料で予め確認していた裏技だった。

私とハマやんが魔力による浮遊板の上に立つと、その魔力式のエレベーターはゆっくりと浮上する。段々と速度を上げて、我々を一気に最上階へと運んでいく。

「いやー、これは助かる」
「ホント、もう身体ボロボロだしさ」

さっきの悪魔の大軍勢との戦いで私の使い魔はほぼ全滅、どうやらハマやんも技を出し尽くした様子だ。バカ正直にこの塔の螺旋階段を上っていたならば、どうせ各所には手強い悪魔が待ち受けていた事だろうし、厭らしい罠も数多く仕掛けられていたはずだ。そんなもの、いまさら御免被る。もう若くはないのだ。若いうちなら正攻法でも良かったかもしれないが、我々はもう中年だ。疲れている。だから大人はズルをする。そういうものだ。

「もう一息だ。よーし、やるぞ!」
ハマちゃんが気合いを入れ、私は腰を反らせて軽いストレッチをした。腰や背中の骨がバキバキと大げさに鳴る。職業的な訓練を長年積んできたといっても、この歳になっての過度な飲酒、それから夜を徹しての極端な運動……いくら何でもキツいに決まっている。しかしその分だけ実入りは大きいはずだと、もう若くない私たちは、それに賭けているのだ。


💻


城主、あるいは駅長の部屋は最上階フロアに隠されていて、私たちはすぐにそこを突き止めた。ハマやんを先頭に一気にそこに踏みこむと、城主らしき男が椅子に座り、パソコンに向かっていた。

「……え?」
男は私たちに顔を向けて、信じられないという顔をした。パソコンの画面には、卑猥なアダルト動画が大きく映し出されていた。
「侵入者? ここまで? マジで?」
どうやら、この城主は何一つ状況を分かっていないらしい。
「そうだよ」「気の毒だけど、君はもう終わりだ」
「え、なんで?」
「いまから我々に討伐されるから」
「マジかよ」
「マジだよ」「マジだね」
「……何でこうなった?」
城主の椅子に座っているその男は、頭を抱えて唸り出した。パソコンのスピーカーからは、わざとらしい演技が透けて見える女の喘ぎ声が垂れ流されていた。
「それは君が、いわばパチ物とか紛い物とか、そんな類の」とハマやんがまず男の質問に答えて「……まあ要するに城主の器ではなかったんじゃないのかな」と私がまとめた。
「うううう、そんな……」
そうやって残酷な真実を私たちが告げると、彼はより一層頭を深く抱えてキーボードの上に突っ伏した。何とも無力な、もはや状況に抗う気力もない、ただ脆弱な青年として、この悪魔城の城主は醜態を晒した。


画像6


いまから数年前、板橋駅の線路内で一人の青年が死んだ、もしくは行方不明になっていた。

その青年が現在、私たちの前にいるこの城主なのであった。

そうした事情もまた書庫にあった記録——死神による詳細な報告書——を盗み読み、私たちは予め知っていたのだ。

夕方から夜にかけての退勤時間、混雑時の埼京線。部活帰りのある女子高生に対して、勤め人であった青年はふとした出来心から痴漢を働き、それが車内で発覚して騒ぎになった。周りにいた正義の市民たちが彼を取り押さえようと団結して動き、車掌にも報告がいった。あやうく捕まりそうになった青年は、板橋駅でドアが開くと脱兎の勢いでそこから飛び出し、ホームの端まで走って、そこから線路に飛び降りた。
その夜も満月で、赤黒く大きな月が出ていた。
再開発工事の真っ最中の板橋駅の地下深く、そこに埋まっていた超古代文明の遺跡をショベルカーが掘り壊し、地獄門の封印が解け始めていたのは、その日の午後だった。
偶然か必然か。とにかくそういった因果が幾重にも折り重なって、地獄から直行する臨時幽霊列車が、そのとき板橋駅を通った。
青年が線路に飛び降り、そのまま逃走しようと駆け出した所を、ちょうどその幽霊列車が牽いた。
生きながらにして幽霊列車に牽かれた青年は、その身体ごと地獄の側に引き込まれた。折しも地下深くから浮上せんとしていた悪魔城は諸事情により城主が不在だった。その欠員を埋めるようにして、哀れな青年は仮初めの城主にさせられた。

「うううう、ぼくは、ぼくは。ただ、真面目に、朝から晩まで会社に勤めて、とくに楽しい事も何もないのに、それでも……それで、だから、ちょっと魔が差して、だからって、こんな」
「……その気持ちは、分からない事もないよ」
ハマやんが諭すような口調で青年に声をかける。
そして職種などは全く違うのだろうが、私も長年会社勤めをしてきた身だ。やはり同情の念がわかなくもない。
「でも、これが私たちの仕事なんだ」
ハマやんに目配せしながら、私は言う。どうしたって始末はつけなければならないのだ。

「……城主よ」

そのとき、部屋の天井の隅に黒い霧が出現して、それはすぐに人の形を成していく。聞き覚えのある重苦しい声と、その姿は……。
「ああ、死神さん! ……頼む、助けてくれ。この人たち、何とかしてくれよお」
憐れな青年は、この城の管理者である死神に駆け寄り、助けを求めた。

「しかし城主よ。地獄理事会で、決議が成された。……あなたは解任だ」
感情に乏しい声色で、死神はそれを報告する。
「え? どういう事? それ、どういう意味?」
「ただし現職城主としてこの侵入者を退ける事ができれば、あるいはそれも覆るかもしれず」
「そ、そんな……」

どうもダブルスタンダードというか、いい加減で都合のいい事を言う奴だなと私は思った。ハマやんも隣で肩をすくめている。本当に悪いのは、やはりこの死神ではないだろうか。

「クソ! 要するに勝手に自分で何とかしろって事かよ! いつもそうだ……この世界、どこもクソだ! 地獄もクソ! とにかくクソ! もう全部終わってしまえばいい!」

急に喚き出した城主の様子に危険なものを感じたのか、ハマやんが鞭を振りかざす。私も手の中にあった礫を放とうとしたが、それも一瞬遅かったようだ。
 
鬼気迫る青年城主は凄まじい速度でキーボードを叩き、パソコンにある文字列を入力した。

——どうやらそれは、この城の自爆コードであった。


螺旋階段


「これはやばい、逃げろ!」
「もう逃げてる。急げ!」
「……ああ! 結局は階段だ」
「だまって降りろ。舌を噛む、膝が笑う、クソ!」

城主の部屋を一目散に飛び出して、我々は一気に塔の階段を駆け下りている。エレベーターを起動している余裕はなかった。塔はもう上から崩れ始めている。

「駄目だ! どう考えても間に合わない」
「諦めるな、そこに窓が」
「飛び降りろって言うのか」
「じゃあ他にどうしろって?」

その辺にあった長椅子をハマやんが持ち上げて投げつけ、窓を叩き割る。そこに取りついて外を、それから下の方を見ると、はるか遠い地面で投げ捨てた長椅子がバラバラに砕けていた。

「絶対死ぬ」
「いや一か八か」
「……とりあえずハマやんが先に」
「いやいや、ヤマちゃん先にどうぞ」

愚碁誤悟吾後期ぐごごごごごご……」

耳に馴染みある呻き、風にのって鼻孔をつく微かな硫黄臭と加齢臭がして窓の方を見ると、そこには私の使い魔であるレッドオールドがいた。

愚碁誤悟吾後期ぐごごごごごご!?」
レッドオールドは私たちを見て、嬉しそうな呻き声を大きく上げた。その背中に赤黒く大きな翼が生えている事に、私はようやく気がついた。



「あー、助かった」
「こいつ、人間の頃より全然良い奴で頼り甲斐もあってさ。……何だかちょっと皮肉じゃない?」
「そうだね。本当そう思う。人間とか悪魔って、一体何だろう」

あの熾烈な戦場で、おそらくは他の悪魔を捕食して生き延びであろうレッドオールド。そうして高レベルに進化した使い魔に抱えられて空を飛び、私たちは崩れ落ちる塔から無事に脱出した。そのまま悪魔城の領域からも抜け出して、元の駅舎部分に降り立った。

城主が起動させた崩壊シークエンスに従い悪魔城は殆ど全壊、瞬く間に崩れ落ちた。その土台となっていた板橋駅も勿論ダメージは受けているようだったが、それも部分的なものに止まっている様子だ。

如何にも古くてボロい、馴染みのある板橋駅がそこにあった。

「このまま始発を待って帰るよ」
「……疲れたもんね」
「いや、まったく。本当に疲れた」
「でも、おれたちやったね」
「うん、やった」
ハマやんと私は、そこで固い握手を交わした。
「とにかく家に帰って休んで、それから今後の事でも相談しよう。またゆっくり飲みながらでも」
「そうしよう」
「じゃあ、おれはチャリだから」
「おつかれ様でした」
「おつかれ。お休み」
 
ハマやんが去った後、私は誰もいない駅のホームの椅子に座り、しばし放心状態に陥った。今夜一晩で起こった事があまりにもめまぐるしく頭の中を駆け巡り、ちょっと自分でもどうしたら良いのか分からなくなっていたのだ。
愚碁誤悟吾後期ぐごごごごごご……!!」
しかし警戒するようなレッドオールドの唸り声で、私はたちまち我に返る。

「すばらしい活躍でしたね」
明け方近くの薄闇の中、目の前には旧国鉄職員の制服を着て帽子を目深に被った男——真の駅長である死神が、そこに立っていた。

「……まだ、やるのか?」
 私はすっかり疲弊して満身創痍だ。しかしまだ戦うというなら、それなりの覚悟はあった。いまや頼もしい仲魔に成長を果たしたレッドオールドも、すぐ傍らで私の攻撃指示を待っている。

「いえ、ちょっと御相談したい事がありまして……」
死神駅長は、そう言って私を見つめた。髑髏の目の空洞に広がる暗闇を、私もじっと見返した。


河内屋のカウンター


「じゃあ、乾杯!」
「おめでとう! 何となく全部丸く収まったんちゃうか」
「そやねえ。とにかく二人とも出世よね、大出世」
「ありがとうございます」
「まあ何にせよ、飲もう! 今夜は大いに飲もう!」
「『今夜は』って、ハマやん昨日もそういって飲んだじゃないか。もう毎晩のように飲んでる」
「いいの! めでたい事は何度でも……ってね」
もはや何度目かも分からない祝杯を、いつもの居酒屋Kで上げていた。私とハマやんが悪魔城を陥落させてから、もう一週間ばかり経っていた。

「すいません、ビールお代わり」
「はいよ、原価高めのビールね!」
「ヤマちゃんは、やっぱりビールばっかだね」
「これが一番だよ。酔い過ぎる事もないし」
「たまにはさ、城にあったあの高いワイン、ああいうの持ってきてもらってもいいんだけど」
「お、そんなに良い酒やったら、ワシも飲んでみたい」
「あれ、おじさんワインも飲むんだ? じゃあ、今度持ってきますよ」
「頼むわー」
「さっすが城主様やね!」
「まあ所詮は雇われですが、それくらいはね……」

そこでハマちゃんが立ち上がって、わざとらしく咳払い。いつもの黒いコートの胸には、数日前に協会から進呈された勲章が光り輝いている。

「では、改めまして。……ヤマちゃんの城主就任! おめでとう!」「ハマちゃんも! A級ハンター認定、おめでとう!」
そうやって何度も繰り返し、我々は祝杯を重ねた。

悪魔城陥落の明け方、駅のホームに現れた死神は、私にある話を持ちかけてきた。それは「新たな城主にならないか」という勧誘だった。諸々の条件を鑑みた上、すぐに私はそのヘッドハンティングを受ける事に決めた。


👾


「完全にフリーでやっていくよりは、こちらの方が安定している。自分の性質を考えても、それが向いているように思う」

城を出た翌日に改めて顔を合わせて説明をすると、ハマやんはしばらく黙った後で、こんな事を語り出した。

「まあ、それもヤマちゃんの選択やから。……やっぱり、それぞれの道よ。そこで誰が裁くとか裁かんとか、そんな話でもない。ただ、ヤマちゃんという男がそこに、いまここに、おれの目の前に、おるだけやん。デーモンハンターでも悪魔精錬士でも雇われ城主でも、そんなんどうでもええわ。そういうふうにサイコロが転がっただけやもん。……よし、飲もう!」

ハマやんは目の前の杯を干した。私もビールをグビリと飲み、それからこう言った。

「いまの台詞、何か殆ど全部、吉田拓郎の歌詞みたいだったけど……」
「あ、分かっちゃった? ヤマちゃんも拓郎好き? よし歌いに行こう! またあのスナック、いますぐ行こ」

そうやってまた懲りずに闇営業スナックに流れて、その夜は慣れないカラオケを私まで歌わされた。そこには仲魔のレッドオールドもいて、あのママにいいようにコキ使われていた。ほとんど生前と変わらない彼の状況に、私はすこし複雑な気分になった。


スナック森



「……ほんでな、これでもワシ、むかし神父やってん」
「え、うそでしょ? またいい加減な」
「あ、それはホンマよ。おとうさん、結構人気やったで。河内のエクソシストって、いっとき有名やったんやから」
「そやで。そんで、おかあさんは伝説の聖女や。いまはこんな太ってもうたけど……あん頃は、そら可愛かった」
「ええやん、太ったくらい。おとうさんだって、いまもうこんなにだらしなくて……」
「ふたりで堕落したんや」

嘘か本当か分からない老夫婦の来歴を聞きながら、私はビールをひたすら飲んでいる。ハマやんはいつも通りのサワー。他の客はなかなか入ってこない。恐ろしく居心地の良い、何年経ってもちっとも変わらない、むかしから行きつけの居酒屋で、私はまたこうして飲んでいる。

「人生、ホンマに色々なんよ」
「また歌詞みたいな台詞」
「それよりハマやん、グラス空いてるで。何ぞ注文せい」
「あ、客に無理矢理飲ませる、すごい店!」

どうやら私は無事に再就職を果たした。それだけでなく、世間的にはいわば逆転出世をしたわけだ。基本的には住み込み、しかし実際の勤務時間にはかなり融通が利く。崩壊した城の修復は、城付きの悪魔や業者に任せっきり。死神は優秀で、大抵の事は勝手に処理する。そして城、つまり駅の周辺なら出歩きも自由だ。だから気楽に毎晩ここで飲む事も出来るというわけで、こうしてハマやんとも頻繁に顔を合わせている。普通に考えれば決定的に敵対するはずの立場ではあるが、いまの所そんな気配もない。

「ハマやん、こないだ新しく出来た、やきとんの店知っとる?」
「あー、通りの出口のとこ?」
「そうそう。あそこな、悪魔だの化け物の肉使ってるんやて。そういう噂あんで」
「あー、まあなあ。たしかに安いし。でも美味けりゃ、まあいいんじゃない? それにこの辺だと、いまどき結構どこでも……」
「えー、そんなんワシいや。気色悪いわー」

おじさんはそう言うが、実際はおばさんが黙って魔物由来の食材を仕入れている事を、城主である私は知っている。そしていまおばさんと目がチラリと合ったから、私が知っている事を彼女も分かっているのだろう。

この辺りで店をやるような人間は元々から図太いタイプばかりのようで、夜の闇を跋扈する悪魔とも何となく折り合いをつけたり、あるいは逆に利用していたりする。まだ始めたばかりにせよ、城主としても度々驚かされるような事がある。どちらが冥府魔道に生きる者で、どちらが善良な一般市民なのか、段々と分からなくなってくる。魑魅魍魎が、どうにも多過ぎるように思う。

「また飲んでいるのですか? 一応は城主になったのですから、すこしは自覚を持って下さい」

カウンターの上に伏せていたスマホが振動して、恐る恐る確認すると、妻からのメッセージが入っていた。とにかく色々とお見通しのようで、私は思わず身震いする。

……あの夜。悪魔城に侵入して、ずっと外していた指輪をはめて魔力を行使した事、そして最終的に地獄側との雇用関係を結んだ事、この二つが切っ掛けとなり、別居中の妻ともまた連絡を取るようになった。

「へえ、それじゃ、姉さん女房なんだ。いいねえ」
「まあね。世話焼きが過ぎる所があるけど」

いい加減な合いの手に、私もいい加減に返す。ハマやんは今夜もかなり酔っていて、どうせ話の内容など覚えてはいないだろう。

妻とは、かつて私が会社雇いの悪魔精錬士として赴任したヨーロッパの辺境地で運命的に知り合い、現地で結婚した。妻は不死の一族の出身、古き女吸血鬼として一部ではよく知られた存在であった。妻の名はカーミラという。

妻からは、雇われ城主としての業務の完遂——つまり不死の一族の英雄にして悪魔城に真に相応しき城主ブラド・ツェペシュ、つまりドラキュラ伯爵の再降臨——を強く促されていた。


悪魔城ドラキュラ


しかし私はのらりくらりとそれをかわしている。これからも、できる限りその方針を取るつもりだ。今の所、まだ死神も文句をつけてはこない。私はただこの現状、温い地獄がいつまでも続けばいいと願っている。この土地には如何にもそれが相応しいように思える。雇われ城主として、くたびれた中年男として、現実的な日和見主義をどこまで貫けるのか。それが自分の戦いであると、私は思っている。



「ちょっと暖房効き過ぎちゃう? 暑いわ」
「そうかあ? もう空調もボロいから、細かい温度調節あかんみたい」

首を傾げつつ、おじさんがエアコンのリモコンを弄る。ハマやんは帽子を取って、おしぼりで頭頂部の汗を拭った。その見事に禿げ上がった頭を見て、私も自分の頭頂部に手をやる。……やはり禿げている。もしかしたら、すこし進行したかもしれない。いつまでも気苦労が絶えない、この性格のせいだろうかとも思って暗澹たる気分になる。

しかしそもそも自分の老いや衰え、薄くなっていく毛髪を気にしているのなら、さっさと吸血鬼である妻の元に帰る、或いは速やかに呼び寄せるべきだろう。そして遠慮なく血を吸ってもらい、不死の一族に加えて貰えば良いのだ。だが私はそれをしない。妻と出会い、それから長く暮らしてきた彼の国でも、私はそうはしなかった。そうした妻からの提案を、幾度も拒否してきたではないか。

それは……何故だったのだろう。

いくらビールなら酔い過ぎる心配はないと言っても、連日連夜、かなりの量を飲んでいるわけで、今日だって、もう何杯目だか分からない。さすがに酔ってきたのか、自分の目に入る世界がぐらつき出している。

「……よう禿げ上がっとる」
「何やの? いまさら」
「いや、改めて見事なもんや思って」
「もうずっとこのスタイルだから。別に気にもしてないし」
「そら立派な事や」

たとえば禿げはじめる以前の自分。その若い自分だったような記憶はたしかに現在もあるのだが、本当にその頃の私が現在の私であるのか、その確証は持ち得ない。どこかの時点で、かつての私は得体の知れない悪魔のようなものに入れ替わった、或いはそのように誰かに精錬された存在なのかも知れない。

失業の憂き目にあった自分が十数年振りに訪れた街。思い出の居酒屋は昔から全く変わっておらず、しかし最寄りの駅は魔物たちの巣窟、悪魔城になっていた。そして自分は悪魔精錬士としてデーモンハンターとコンビを組んで戦い、紆余曲折あって最後には新たな城主に収まった。

……何なのだろう、この状況は。

改めて自らの連続性を疑っていけば、現時点での自分という存在も目の前に広がる世界も、当然のように揺らぎ出す。その感覚に抗うように、私は自分の頭を抱えて剥き出しの頭皮を撫で擦る。さも人間らしい、如何にも中年の草臥れた男らしい、そういう地肌の感覚を確かめる。

「ちょっとヤマちゃん、どうした? さっきから難しそうな顔して」
「飲み過ぎたんちゃう?」

そう、私は飲み過ぎたようだ。
しかし、
 
「いや、まだまだ飲めるでしょ?」
「そうや。男一匹、飲んでなんぼよ。よし、ワシもお酒飲んだろ。人生の先輩として見本を示さんと」
「ちょっと、おとうさん、そうやって理由つけてまた店のお酒飲んで……」
 
たとえ私という存在が何かの紛い物であろうとも、その実存はただ続いていくのである。

「よし、飲もう!」
「よお、それでこそ城主様!」

ならば続けなければならない。
それでいいのだと、私は開き直る。
そういう事にした。

「乾杯!」
「乾杯!」

この店を出れば、今夜もきっと月が出ているだろう。いくら飲んでも終電を気にする必要がないのは、まさに役得だと私は思った。


 

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