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短編グルメ私小説 「正義の消費者」

【あらすじ】

地元の道の駅にあるうどん屋が、おれと榎木のお気に入り。細やかで丁寧な仕事、何を頼んでも美味い。

ある日そこを訪れると元ヤン臭いクレーマー家族。色々と我慢ならないおれは、つかみ合いから乱闘に……渾身のドロップキック、ヤンママはナイフ使い!

そこで姿を表す、あのヒーロー。
何故か怪人と化した榎木は伝家の必殺技で爆散、その血肉を浴びて熱狂する群衆。

「お前は逃げろ」
友の最期の言葉を胸に、おれは問う。
正義とは何だ?

互いに喰らい合う、愛とモラルとB級グルメにマイルドヤンキー……ああ、公序良俗リヴァイアサン!

日常変転、バイオレンス式ファンタジーを一気にすすり上げろ!

地元の国道沿い、道の駅。
本館とは別に仮設のバラックみたいな建物があって、その中には飲食店がいくつか並んでいる。それぞれ好きな店の食券を券売機で買って、好きな席で自由に食事する。つまり小規模ながらもフードコートのような形式で、休日ともなれば家族連れなどで大いに賑わった。

そこに出店するうどん屋が、おれたち二人のお気に入りだった。

初めてそこを訪れた日の事。
うどん屋の調理場に立つ店主を見つめ、榎木が言った。

「あいつを見ろよ。……ほら、よく太っているだろう。知ってるか? 太った奴が本当に美味いものを知ってるんだ。こだわっているからな、食うことに」

なるほど、うどん屋の店主は丸々とよく太っていた。そして彼の様子をよく観察してみると、たしかに自分の仕事に対するつよいこだわりが感じられた。ついさっき食券を受け取るときの彼はちょっと卑屈なくらい腰が低く、野暮ったい眼鏡の奥で、つぶらな瞳が気弱に泳いでいた。

しかし、いまはどうだろう。

グラグラと煮え立つ大鍋を前に、うどんの茹で加減をコンマ一秒単位で見極めるような、鋭いその眼差し。その合間に手際よく天ぷらを揚げ、仕上がったものから順に盛り付けていく。迷いのない的確な働きぶりに、おれは思わず目を見張った。

まさに孤軍奮闘。

この厨房の他に己の戦場、すなわち生きる場所はないのだ。そんな気迫が熱い湯気となり、丸っこい彼の巨体からムワッと立ち上っている……。

「やっぱり、太ってるのがポイントだ。焼き肉屋がガリガリに痩せてたら、そいつはどうも信用できない。自分が焼いてる肉、ホントに食ってんのかよ? って思うだろ。……ああ、飲食はやっぱりデブに限るな。説得力がちがう
異様に熱っぽい視線で彼を見つめ、榎木は語る。
「……でも」
「どうした?」
「そば屋なら、痩せててもいいかも知れない……。そういうケースもある」
ふと思いついたように榎木はつぶやき、しかしすぐに「しかし、ここはうどん屋だ」と打ち消すように続けた。「ああ、うどん屋だな」と、おれは同意を示す。

「うどん屋は、デブでいい……」
改めて満足そうに頷くと、榎木はプラスチックのコップに入った水をゴクリと飲み干した。その筋張った首の真ん中辺りで、喉仏が上下するのがはっきり見えた。飲食業における肥満属性に強いこだわりを見せる榎木自身は引き締まった筋肉質で、どちらかと言えば痩せ型だ。酒屋の配送の仕事をもう長い事やっており、それは結構な肉体労働らしく、余分な贅肉がつく暇もないのだろう。

「いま揚げているあれは、お前の」
「ああ、そうだろうな」

おれは「ぶっかけうどん」それに別皿で「山菜の天ぷら(季節限定)」を注文していた。榎木はずいぶんと悩んで「キツネうどん・ミニカレーセット」を選んだ。

この店のウリは、どうやら地場産の小麦粉を使った手打ち麺らしい。ところがカレーや丼にも心惹かれるものが多くあり、うどんとのセットメニューも充実していた。なかなか選択肢が広い。おれと榎木は二人して大いに迷い、熟考を重ねた。その上での注文であった。

「……なあ、あのカレーは」厨房を覗き込みながら榎木がつぶやく。「お前のだろうさ」とおれは言う。

そして間もなく、おれたちの食券番号が続けて呼ばれた。

「む、これは」
うどんを一口啜り上げ、おれは思わず嘆息を漏らす。

こだわりの小麦粉によるものだろうか、コシがかなり強い。それに負けないようにツユの出汁もしっかりと濃い。別皿の天ぷらはサックリと、あくまで丁寧に揚げられている。その他、細かい盛りつけなどにも繊細で確かな手仕事が感じられた。

「むむ……」
うどんと山菜の天ぷらを合わせて味わい、また改めて感心する。このトレイに載っている、そのすべてが——フードコート特有の安っぽい食器までもが——何だかキラキラと輝いて見えたのを、おれは未だに憶えている。

「おい、こっちもすごいぞ」
榎木がセットのミニカレーを絶賛するので、そちらも一口味見する。
「む」
おれはまたもや嘆息を漏らす。

なるほど、このカレーもサイドメニューとはとても思えない仕上がりだ。スパイスを利かせた独特な深みのある黒っぽいルーが、適切な水加減で炊かれた白米と濃厚に絡み合う。……うどんではなく、こっちを専門に営業してもおかしくないレベルだと思った。この味の完成には相当な努力や手間ひま、コストがかかっているに違いない。

「店主を呼べ!」

あの有名グルメ漫画に出てくる美食家ならば、大声でそう言うだろう。しかしここは銀座か何処かの料亭でもなく、そんなことはしない。よく太った店主の男はただ一人黙々と、すぐそこの調理場の流しで食器を洗っている。ここはあくまで道の駅に併設された食事コーナーで、おれたちは海原雄山でも京極万太郎美味しんぼでもない。だから傲慢に店主を呼びつけて激励したり美食倶楽部に招致するとかしてマウントを取ったり、あるいは逆にややこしい山岡士郎みたく料理対決究極VS至高を挑むとかもせず、ただ無言で称賛の熱い視線を店主に送り、頷き合って席を立った。

「……美味かったな」
「思わぬ名店を見つけた」

帰りの車中、おれと榎木は店主の見事な仕事ぶりを大いに誉めちぎった。これだけ真っ当なものを食わせる店が、この辺りにいまどれくらいあるだろうか。さっきおれたちが味わった満足感を、あちこちに喧伝して回りたい気分だった。素材や味のクオリティの高さにも関わらず、価格設定や提供スピードなどはあくまでフードコートの範疇だ。コスパは最大限に良いといえる。

なるほど、ここは穴場に違いない。

そういうわけで、おれたちは休日毎にこのうどん屋を訪れるようになった。その間にも一部のメニュー構成が変わったり、季節限定の変わりダネが出てきたりとスタートアップ的な試行錯誤も垣間見えて、おれたちを飽きさせなかった。いずれにしても太った店主の提供する料理は、いつも満足がいくものだった。

ところが、そんな幸福と平和を打ち破る残酷な運命の日が、やがて訪れる。

あの日あのとき、この場所に来ていなければ……。
おれたち二人は、あの頃のまま、もしかしたら、いまも変わらずにいられたのかもしれない。
ふとした瞬間、ついそんな事を考えてしまう自分がいる。

あの日以来、おれがうどんを食べる事はない。


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あくまでフードコート形式なわけだし、並びにある他の店舗も決して悪くはなさそうなのだ。だからちょっとは浮気しても良さそうなものだったが、気がつけば、やっぱり二人とも、あのうどん屋の食券を買っている。
そんな幸福なおれたちの休日ランチが、しばらくずっと続いていた。

その日、おれはカツカレーの単品を注文した。これはちょっとした冒険だった。セットのミニカレーは初来訪の日に食べていて、それが充分に美味いことは知っている。しかしカツカレーを注文したことはなかった。そして値段設定的にカツカレーだけが全体から妙に浮き上がっていて、つまりは相当な自信があるのだろう、おれたちはそう予想していた。そうは言っても、やはりこの店はうどんがメインであり、腹の許容量にも限りがある。だから悩んだ末に結局はうどん系のメニューを選んでしまい、カツカレーの注文には至っていなかったのだ。

しばらくして自分の食券番号が呼ばれ、待ち焦がれていたカツカレーが目の前に現れた。

「おお、これは……」

やはり、このカツカレーは期待を裏切らなかった。スプーンを口に運ぶ手の力が抜けて、思わず落としそうになったくらいだった。

まさに絶品。

軽やかにサックリと、何だか上品な風情で揚げられた豚カツ。柔らかだが存分に肉々しい食感で、噛みしめると肉汁がジュワッと広がる。そんなカツのインパクトをがっしり受け止める濃厚なカレールー、そしてやや固めに炊かれた適切な白い飯……その重なり合い、手堅く交差する熟練のテクニック。ああ、この3プレイヤーズセッションの絶妙よ。おれの口腔内ではジャジーな喜悦がスイングして止まない。

「ううむ」
おれは唸る。
「むむう」
隣からも同じ様な唸りが聞こえた。榎木の頼んだ「鶏天つけ汁うどん」も、負けずに美味いようだ。
その唸りに呼応して、おれもまた唸り返す。
「……むうう」
再びカツをカレーにまぶして口に運んで唸るおれ。
「うむむ……」
鶏天とうどんを交互に食べ、再び唸る榎木。

互いに唸り続ける二人の男が、そこにいた。


○○


しばらく食後の余韻に浸り、ふと気がつけばフードコートは大変に混雑していた。連休の中日であったし、昼時になれば混むのも当然ともいえた。それにしても施設全体が急に賑わい出したような、どうにも騒がしい雰囲気だ。

「今日は何かイベントでもあんのかな?」
「さあ。でもいきなり混んできたな」

うどん屋の方を見てみると、厨房では太った店主が目の回るような忙しさに見舞われていた。突然の注文ラッシュに、さすがに調理や提供が追いつかないらしい。それも無理はない。この店は完全なる彼のワンオペなのだ。

「おなかすいたー」
舌足らずな声で空腹を訴えながら、小さな女の子がそこらを走り回っている。やはり家族連れが多いようだ。こうやって何組かの家族の注文が重なったりすれば、それはもう大変な忙しさになるだろう。食券を置くカウンターにも注文がどんどんたまっている様子だった。

「そろそろ出るか」
「ああ」
そこでおれたちは席を立ち、下げ膳コーナーに食器を返しに行った。回収も追いつかぬようで、使用済みの食器もずいぶんたまっている。忙しくて大変だろうが、それも商売繁盛で結構なことだろうと思いつつ「ごちそうさまでした」と厨房の方に向けて何となくつぶやく。もちろん店主にそれを聞き取る余裕はないだろう。

そのまま建物の出口近くまで歩いた所で、何かに気づいた様子の榎木が後ろを振り返り、そのまま動かなくなった。

「……あれ、何だ」
榎木の視線の先を追うと、客らしい男がうどん屋の厨房にいる店主に向かって盛んに何か言っている。

「……ねえ、もしかして舐めてんの? そういう態度さ、逆に喧嘩売ってるように見えるんですけど」

辺りの雑音に紛れながらも、そちらに意識を向けると聞こえてくる男の声は、どうも相手を恫喝しているように聞こえた。口調が完全にヤンキーのそれに思えた。

「なあ聞いてる? ちょっとは何か言えって」

そうやってなおも店主にしつこく絡み続ける男は、おれたちとほぼ同年代のように見えた。服装や仕草から、北関東ぽさがたまらなく漂っていた。つまり全体的に「昔ちょっとヤンチャしてました」と常に自ら言いたげな、ここら一帯地域の男としては極々ありふれたスタイル、要するに典型的で量産型の元ヤン野郎、あるいはマイルドヤンキーということだ。

そんな一山いくらの、いまだ血気盛んな逸脱メンズにしつこく絡まれて、うどん屋店主の目は完全に泳いでいる。そしてしどろもどろに「ええ、まあ、その、ううう、すいません、申し訳ない、はい、それは……」なんて消え入りそうな声で、ボソボソと要領を得ない返答と曖昧な謝罪を繰り返す。
ふくよかな顔を苦しそうに歪ませて脂汗まで浮かべている彼は、ついさっきまで厨房で一人奮闘していた自信と誇りに溢れるあの姿からは考えれない、まるで別人のような気弱さ、卑屈を露呈していた。

そんな彼の様子に加虐心を一層煽られるのか、クレーマー野郎がさらに調子づいた様子で絡みつく。軽く凄んでみせたりする。その構図が、おれには瞬時に見て取れた。

とにかくあの店主は、本来彼が立つべきステージから不当に引きずり降ろされ、不様に辱められている。見ていられない光景だった。

ちょっと、何ビビってんの(笑)」
いかにも相手を小馬鹿にした舐めた口調の元ヤン野郎。
「だからさ、おれが頼んだセットは、けんちんうどんね。でもこれ、きつねうどんでしょ。あきらかに違うじゃん?」と、そこでドヤ顔まで浮かべる。

そのクレームの具体的な内容を耳にして、おれは驚いた。
……吃驚するほど下らない。

こんなつまらない些細なミスを得意気に追求して、鬼の首をとったように相手の落ち度を執拗に責め立てる、こいつは一体何なのだろう。こうやって彼の時間を拘束している間に、余計にまた店のフローが滞るだけではないか。

……え、そもそも、いいじゃんね別に? きつねうどんも美味しいよ? おれは知ってる。前に頼んだし。そんなにけんちんがいいのか。根野菜とか食べたい気分だった? もしかして意外と健康志向? ヤンキーなのに? それにもしどうしても作り直してもらいたいなら、そう頼めばいいだけなんじゃないの? それだけの話じゃないの? お前は一体何がしたいの? そうやって無駄にしつこく絡んで、お前は何をそんなに主張したいの? 

おれは「?」で頭を一杯にしながら、その様子をじっと見ていた。

「だからさ、変にごまかしてもらいたくないわけ。おれって、そういうキャラなんだよね」

……何だよバカか、見た目通りだな。
お前のキャラとか、そんなん知らねえんだよ。

いいか、お前の特性とかパーソナリティとか出自とか設定に誰も興味ねえんだよ。お前マジでいますぐ黙った方がいい。何故ならお前の脳みそはうんこで生成されていて、こうやってお前がしゃべる度にお前の口から出たうんこが場にまき散らされてる。その状況に一刻も早く自分で気がつけよ、普通気づくだろ、もうガキじゃねえんだよ……ああもう、何でかこっちまで恥ずかしくなってきた。これはいわゆる共感性羞恥というやつだ。とても聞いてられない。耐えられない。

ともかく潤滑に回るべき尊い優良飲食オペレーションが、ここで理不尽に強制停止されてる。お前みたいな夾雑物、うんこ野郎のせいで。

たとえば、つまりお前のような客は落ちものパズルゲームにおける妨害ブロック。さっさと消えてくれよ、おじゃまぷよ。そうやって皆が願ってる。スムーズな連鎖が信条のプレイヤーだったんだよ、おれは。

「別にあんたを苛めたいわけじゃなくさ、ただちゃんと謝って、償って欲しいわけ。おれはホント、そんだけなんだから」
おじゃぷよクレーマー野郎はいよいよ得意げに、いかにもクレーマーらしいことを言い垂れた。

ところでおれは学生時代、都内の小規模なビデオ店で深夜バイトをしていた。そのときよく出くわした理不尽なクレーム客の、広角泡を飛ばす口元のイメージ映像が不意に頭によぎった。

不毛なクレームへの応対によって貸し出しと返却業務の両方が停滞して、狭い店内に溢れた客の列は、まさに失敗したぷよぷよ、もしくはテトリスの様相で、さらに次々落ちてくるぷよとかブロックは各々がエロDVDや韓流ドラマや実録ヤクザものVシネなんかを手に携える、それぞれに無気力だったり明らかに苛ついたり疲弊した暗い表情を浮かべる亡者のような連なりで、つまり繁華街の深夜の民度は当たり前に低かった。

……そんな自分でも心底どうでもいい記憶までフラッシュバックして、さらにおれは苛立ってしまう。

「パパぁ、なにしてるの?」
さっきから辺りを走り回っていた女の子が、クレーム野郎の側に来て無邪気に声をかけた。その幼い娘にわざとらしく柔らかい笑みを向けて「このオジサンが間違ったことしてるから、ちゃんと謝ってもらおうとしてるんだよ。悪いことしたら、反省しないといけないもんね」
元ヤン現パパのクレーマーは、いかにも優しく子供に言いきかせる口調で、自分は良いパパでありますとわざとらしくアピールしてるような雰囲気も漂わせて言った。

「な、だからさ、謝ってよ。ちゃんと手ついて。だってそっちが悪いんだよね? おれら客だよ? 金払ってんだし。さ、大きな声で謝って。誠意見せてよ。こんなの、子供でも分かる社会の常識だよ?」
自分の子供から改めて店主に向き直ったクレーマーのそんな繰り言に、おれはとうとう我慢ならなくなった。土下座でもさせようというのか、こんなどうでもいい細かいミスで。

「おいお前さ、さっきから何様のつもりだよ?」
無意識のうちに奮然と歩み寄り、その場に割り込んだおれに「え?」クレーマー男は怪訝な表情を向ける。
「あ、何様ってお客様か? そうか『お客様は神様』とかって、もしかしてそんな感じだ?」
「……ちょっと、いきなり何です? え、誰あんた?」

いきなり現れた見知らぬ男の登場に、クレーマー野郎はあきらかに戸惑っていた。それはそうだろう。無理もないとおれも思う。しかし頭にすっかり血が上っているものだから「いや誰でもねえよ。強いて言えば、おれもお客様だよ。カツカレー美味かった。そういう同じお客様として、どうにも聞いてらんねえんだよ」
おれはさらに一方的にまく立てる。口から自動的に言葉が飛び出し、相手をにらみつけている。
「は? だから何で急に絡んできてんの?」
そこでクレーマー元ヤン野郎は落ち着きを取り戻し、いかにもそれらしく場馴れした態度でおれに向き直ってきた。

「だから要するに、とにかくお前にムカついてんだよ。それくらい分かれよ低脳が」
「……ああ? テメェ、いまなんつった?」
「お前のどこが正しいって、 その根拠はわずかばかりの金払ってるって、ただそんだけだろうが」
「んだ、テメェ? いきなり何言ってんか分かんねえ! 頭おかしいんじゃねえかコラ」

野郎とおれは、気がつけば超至近距離でガンを飛ばし合っていた。ちょうどバスケのリバウンド争いのように上半身をクネクネさせながら互いに相手を罵り睨めつけ合うという、相手の少しでも下から睨み上げるポジションを取ろうとするヤンキー仕草。それをお互い繰り広げていた。

得意げで浅はかなカスタマー面が鼻につくって言ってんだよコラ」
「はあ? んだコラ、やんのかテメェ」
「スッカスカな頭に下らねえ正当性プリインストールしやがって」
「……あ? ぷり? んストール? さっきから何言ってんだテメェは」

おれの方がこいつよりボキャブラリーに富んでいる。おそらく学もある。しかし傍から見ればどちらも滑稽でしかない、ヤンキー思考特有のこうした威嚇行動。いわばそれは犬の習性みたいなもので、もういい年だというのに衆目の中でそれを晒しているおれは文句なく滑稽だ。そんな自覚がある分だけおれはこいつよりマシだろうと相手を蔑みながらも、なおもこの文脈に流されてヒートアップしている自分がいる。

「そのクソ仕様、とりあえずいますぐプレゼンしろや。即却下してやるよ、メモリ不足のド低脳スペック野郎」

これとまったく同じような台詞を、かつて職場でも吐いたことがある。おれは以前コンピュータ関連の仕事をしていて、そこでも色々と我慢がならないことが多く、そして最初からあまり我慢をする気もなかったのだろう。ふと気がつけば、そういった我慢を要求されるような枠組みからは放り出されていた。地元に帰省して実家に寄生して、ぼうふらの様に漂う曖昧な毎日を過ごしている子供部屋の男。そんな自分が年甲斐もなくまた吠え立てる、クソみたいな罵り文句。愚かで滑稽で、逆にちょっと笑えてくる。

「だから訳分かんねえな、あと何うすくニヤついてんだ。マジでキメェんだよ、イカレてんのか? テメェどこ中だコラ」
「どこ中だって同じだろコラ。テメェ絶対頭悪いだろ。このクソ、うんこみてえな脳みそしやがってクソがしゃべるな口からクソが漏れて臭えし汚え」

こうやって、またゲロみたいに暴言をぶちまけている自分。ひっそり舞い戻った地元の寒々しい郊外地帯の景色、バイパス道路沿いにある道の駅のフードコートで、おれはクソを相手にゲロを吐いている。こんな吐瀉物ももう何度目かで、この喉を通って淀みなく自然に流れ出る。そうやってすっかり投げやりな気分に浸り、しかしとにかく目の前の相手ご目障りでたまらない。マナーの悪いクソ低脳スペック野郎め。ゲロもクソも、せめて便器とかゴミ箱にぶちまけろよな、お互いに気をつけようぜ。

「テメェ、逆にマジで殺すぞ?」
「おお上等だ、やってみろ。逆に、のその逆で、おれが即殺してやるクソが」
クソ野郎がおれの襟元を掴み上げて、ゲロ野郎のおれもまた同じ様にやり返す。

いきなり現れた相手に戸惑ったものの、その相手を、つまりおれという男を、どうも勝てない相手ではないと、どうやらこいつは踏んだらしい。
たしかにこのクソに比べればおれはまだ上品で落ち着いた格好をしているし、とくにガタイがいいわけでもない。なので十分に勝てるはずだという目算が透けて見える、何とも分かりやすい表情の変化を見せつけて眼前の野郎が凄んでくるものだから、おれの頭にはまた一層血が上ってくる。相手の目もまたすっかり血走っている。まさに一触即発という状態だ。

「やめろよ。ちょっと落ち着けって」
いつの間にか側にいた榎木が、おれに声をかける。それと同時に後ろからおれを羽交い締めにして、すこしでも相手から引き離そうとする。

「ユーヤ、そんな奴、やっちゃいなよ!」
どこからか、女の声が聞こえた。
おそらくはクソの女房だろう。姿は確認していないが、おそろしく頭の悪そうな声なので、こいつはいかにもお似合いの夫婦だろうと思う。
「おお、やってやんよ!」と妻のエールに応えて一丁前にイキってみせる元ヤンの旦那は「ユーヤ」という名前らしい。それこそクソどうでもいい情報だ。

バシッ!

おれの無防備な鼻先に、そのとき衝撃が走った。それから目の前がチカチカする。

おれが榎木に引っ張られて互いの身体が離れるタイミング、そこを見計らった卑怯クソ野郎が、おれの鼻先にパンチを食らわせた。最初の衝撃からすこし遅れて鈍い痛み、それからジンジンと痺れるような感覚が顔面に広がる。

「あんましちょづいてっじゃねえぞ殺すぞコラァ!」
こちらからすこし離れ、威勢よく吠えて凄んでみせる元ヤンパパのクソ野郎、ユーヤ。その姿がすこし滲んで見えるのは、鼻っ柱を痛めたおれの目に生理的な涙が自動分泌されているからだ。
「ユーヤ、いいパンチ!」
まるでスポーツ観戦中のようなユーヤのクソ妻の声援が聞こえた。
「……大丈夫か?」
おれの耳元で榎木が囁いた。

涙と一緒にアドレナリンも分泌されているのか、大した痛みはない。しかし大げさなくらいに鼻血が出ている。じんじんする。手の甲でそれを拭うと、その血の熱さを生々しく感じた。そこでおれは激昂した。

「……テメェいますぐ、死ねェェェェ!」

おれは吠え、次の瞬間には一直線に駆け出している。

そして急速かつ大量に分泌されたらしい何らかの脳内物質の効果によって、おれの感覚にエフェクトが生じる。
おれの周囲何メートルかの領域が、リアルタイムでスロー再生されていく。

——騒ぎを起こしたおれたちを中心に、周りを囲うように野次馬たちが群がっている。そうして形成された空間は、まるで即席のリングのようだった。突然の流血沙汰を非難して眉をひそめるようでいて、さらに何かを期待しているような表情の連なり、いかにもな無責任さ。視界の端にそんな小市民感情もしっかりと確認出来る。……いいぜモブども。その期待にしっかりと応えてやろう。もうゴングは鳴ってる。どちらかと言えば鳴らしたのはヤツの方だ。まあそこで見てろ、あのクソ野郎いますぐ砕いてやる。……おれの右足が地面を蹴り全身が躍動する、つまりホップ

——そんなおれのランニング運動の因数分解に並行して、視界中央に捉えたメインターゲットが拡大表示される。元ヤンのクソ野郎ユーヤ、身長約175センチ弱との目算距離がグングンと詰まり、同時にカメラもそこにクローズアップ。そのいかにも芋臭いサーフブランドの金文字装飾入り紺色のトレーナーに、おれは着目する。……ほとんど同じようなものを、中学の頃に自分も着ていた。ああいう服は、たしか大池通りの店にやたら置いてあった。そんなクソどうでもいい記憶に緊急アクセス。……お前、まさか最近これ買ったの? あの店まだあそこにあんの? いや、もう多分おれは行かないけど。でもちょっと懐かしくもある。しかし、やっぱりダセぇな! ……続けておれの左の足裏が交互に床に接地、スニーカー越しの爪先でぎゅっと地面を掴んで、さらなる跳躍、つまりステップ。

——そして無邪気に勝ち誇ったような表情のままで固まっていたユーヤが、ようやくこちらに目を向けるスローモーション、あるいはコマ送り。意外につぶらなその瞳の奥の鈍い輝きがクローズアップ、おれの焦点はそこに流れ込む。脳内のアドレナリンにドーパミンが混合した麻薬効果か何かでクロックアップされて強引に引き延ばされたらしいおれのタイムライン上、さらに細かく刻まれた、その刹那。対象の、ユーヤの意識が、こちら側に一気に逆流入してくる。

……ここは私鉄沿線、最前線。

準急停まらぬ寂れた駅近くの安普請アパートの外装。駐車場にはローンで買ったワンボックスカー。玄関入ってすぐの台所。冷食のタコ焼きとオムライス、土曜の昼はいつもそれ。最近のインスタント、マジ馬鹿にできない。でもヨメのパスタだって、まあ普通に食える。大親友の彼女のツレだったお前がおれのヨメ。でもその大親友にはしばらくずっと音信不通。生きて重ねる不義理を区切りと呼びもする? 本棚代わりのカラーボックスに全巻並んでるONE PIECE。1クール前のプリキュア玩具が居間に転がる。ああガキは無邪気で可愛いもんさ。でも片付けはちゃんとさせなきゃな。週明け早番出勤マジ怠い。おれより下の世代の奴ら、仕事の礼儀マジ知らねえ。でもこうして、おれら家族三人生きていく。あらゆるものに日々感謝、マジ感謝、ときには顔射、ガキが寝てる間に。ときにはキメてやんぜ、UWAKI!  おれだってまだイケんだぜガンガン。あと風俗くらい付き合えねえじゃ仲間内で男も廃る。ヨメだって分かる理屈。……でも滞りなく愛ってやつは、ここにある!!

レペゼン、家賃四万五千円。

その瞬間に脳を浸したこれらのイメージは、おれの地元のある層に対するおれ自身の偏見に満ち溢れていて、つまり一方的な侮蔑を込めて自分が作り出した類型的妄想に過ぎなかったのかもしれないが、やはりそうではない。これらは真実、眼前に迫った元ヤンうんこクレーマーにしてパパであるユーヤの意識が流れ込んできたものに違いなかった。思えば、この時点ですでにおれの因子は目を覚ましていたのだろう。

「……らあァァァァ!」

加速する勢いのピーク点で思い切り踏み切って、おれは飛ぶ。つまりホップステップから、ここでジャンプ。

そして空中で両足をそろえて前方に真っ直ぐに突き出し、蹴るというより身体ごと相手にぶち当てるようなアタックを繰り出す。ようするにドロップキックだ

着地のことなど考えず、ただ全身全霊を以て対象を粉砕する意志。自らの破壊衝動を直接相手に向けて放った。

そして、その瞬間。
タイムライン上のあらゆるエフェクトは解除されて、おれの周囲の世界は通常速度で再生される。

渾身のドロップキックは対象の胸板に見事クリーンヒット、うんこユーヤは大袈裟なくらい派手に吹っ飛んでいった。まさに飛び下痢。そんな戯言が瞬間的に頭に浮かぶ。それと同時におれは落下して、やはり受け身は上手いこと取れず、固い床に腰を思いきり打ちつけた。

おれはそのまま、しばらく立ち上がれない。しかし相手も起き上がって向かってくる気配はない。テンカウントはとうに過ぎていた。

「ユーヤ、しっかりしてよォォォ!」
すっかり伸びているらしいユーヤの傍らで、その妻が金切り声を上げている。どうやら、かなりのダメージを与えられたようだ。おれの暴力衝動は満足な結果を得たことで充足、一気にクールダウンしていく。

「大丈夫か?」
榎木に助け起こされて、何とかその場で立ち上がる。
「面倒な事になる前に、早く出よう」
榎木はいつも通り冷静で、たしかにその通りだと思う。その場を離れようと、おれたちは歩き出す。

「待ちなよ」
そんなおれたちの目の前に、ユーヤのヨメが立ちふさがった。
彼女はヒョウ柄の上着にスウェットのズボン、安っぽい茶髪をクリップで留めていて、すっぴんらしく眉毛がない。ヤンキー女が部屋着のまま外出してきたようなそのスタイルは実際に目にする前から想像がついていた通りで、田舎臭いヤンママの典型のようだった。

「……ただで済むと思ってんの?」

しかし全くの想定外だったのは、そのヤンママが当たり前のようにポケットから刃物を取り出したことだ。

そこでヤンママが取り出したのは、バタフライナイフだった。

普段からそんなものを持ち歩いているのだろうか。片手でカチャカチャと振り回して刃を露出させる手つきは、器用というよりは手慣れているように見える。人を傷つけるとか威嚇する以外ほとんど使い道がないであろう安っぽい刃物の切っ先が、スッと真っ直ぐこちらに向けられる。

「うちは家族総出でいかしてもらうんで」
「……」

急速に高まる緊張感の中、おれは改めて彼女に対峙する。左足を一歩前に、左手も相手に向けて突き出すように構え直す。いわゆる半身、自分の身体を斜めにして相手に晒す面積を小さく取った。これは空手道の基本的な構えだ。

「ナイフは手の延長線上として考えればいい。普通の突きをいなすように、上手いこと受け流せ」

むかし通っていた道場の師範は、稽古の合間に若い頃の喧嘩話をよく披露した。何とも大人げない人物のように思えたが、そこで仕入れた知識がいまになって役に立つ。今度改めて礼を述べたい。しかし噂によれば師範はすっかりアル中で、団地の商店街のベンチで昼間から缶チューハイをあおっているらしい。そのうちスルメでも持って行こうか。しかしそれも何だか憂鬱だし、第一そんな事を考えていられる状況でもなかった。

「ユーヤの仇、覚悟しな……」
目の前で凄みのある表情を浮かべているヤンママは、亭主であるユーヤよりハッタリも余程効くようだ。普通の突きをいなすように刃物を避ける……そんなことが本当に可能だろうか? おれは考える。そしてイメージと実戦はどうしたって違うのだと、ここにきて実感させられていた。

「でも喧嘩慣れした連中は、刃先を普通にこっちに向けたりしない。こうやってな、後ろ手に隠す。だからどこから刃物が飛んでくるか分からない。いくら場数を踏んでも、あれは怖い」
師範はそうも言っていた。その言葉に、いま心から賛同する。

目の前のヤンママが、構えたナイフを引っ込めて後ろ手に隠したのだ。

「あたし、手加減とか出来るタイプじゃないからね?」
そう言ってヤンママは薄く冷たい笑いを浮かべた。

相当な手練れなのだろうか。一見すると彼女はただのヤンママにしか見えないのだが、その素性は分からない。おれの背中を汗が冷たく伝う。さっき打った腰骨が痛む。しかしそんなことを気にしている場合ではない。ただではすまない状況だ。

そして次の瞬間、ヤンママは吠えた。

「女子舐めんなァァァ!」

吠えると同時に、容赦なく斬りかかってくる。

シュバッ! シュバッ!
すぐ目の前で閃いた刃が空気を裂く、鋭い音。

斜め上から振りかぶってきた第一撃は、とっさに身を引くようにして辛うじて避けた。続く二撃目は、そのまま下から振り上げるように走った。構えた左手ではいなしきれず、おれの上着の袖口がスッパリと斬り裂かれた。
「……くそっ」
おれは咄嗟に後ろに飛び退いて、彼女との間合いを計り直す。

「もう逃げられないよ?」
ヤンママはそこで唐突にステップを踏み出して、それから大きく円を描くように、おれの周りをグルグル回りはじめた。いかにも身軽そうな動き、どこから刃が襲ってくるか、いよいよ先が読めなくなる。まるで手練れのハンターのような冷酷な目が獲物であるおれを捉え、その口元には残忍な笑みが浮かんでいる。

「行け、殺しちまえ! いいぞ、カヨォォォ!」
彼女に比べてまったくの雑魚だった旦那のユーヤの声が聞こえた。さっきのダメージからようやく回復したらしく、今度は彼がエールを送る番というわけだ。夫婦仲は悪くないのだろう。そしてヤンママの名前は、どうやら「カヨ」というらしい。
「うちの家族力、見せたれや!」
……おいでも何だ、その煽りは。とにかくダセえなクソが。ファミリーもろとも滅べ、くそヤンキーども。しかし下手をすると死ぬのは自分の方になりそうだ。後ろ手にナイフを隠したカヨは、相変わらず隙を見せない。どう考えても素人とは思えない身のこなしだ。本当に怖いのは女なのだと、前から何となく知っていた気もするが、ここで改めて実感する。

「ほら、いま、そこだ! いいぞ! それ刺しちまえ! 殺せ!」
シュバッ! シュバッ!

ユーヤの声援、そしてカヨの斬撃が幾度か身をかすめ、おれの上着は所々切り裂かれ、あちこちから軽く出血もしているのだろう。それ確認する余裕もないが。とにかくジリジリと、しかし確実に壁際に追いつめられていく。

「……おい、そこまでにしろ!」
「ママ〜!」

榎木と小さい女の子の声が、ほぼ同時に聞こえた。

「ティアラッ!?」
「……あ、畜生!」

続けてカヨとユーヤが叫ぶ。

「まずはナイフを捨てろ。……こんなこと、おれだって本当はしたくない」
感情を押し殺した声で言う榎木は、片手で女の子を抱き抱えていた。カヨとユーヤの娘だ。まだかなり幼い。娘本人は状況をあまり分かっていない様子だったが、つまり榎木が二人の娘を人質にとったという形になっていた。

「ちょっ、卑怯! てかマジ信じらんね。ティアラ離せ!」
「てめえ、マジで殺す。マジ殺す」

ヤンキー夫婦は一気に興奮して、それぞれ勝手に叫び出す。

「なあ、とにかく一旦黙ってくれ。まずは落ち着いて、この状況を考えろ。あんたたちだって、もうこれ以上は困るだろう? ……とにかく、そのナイフをしまってくれ」
一方の榎木は、淡々と諭すように夫婦に向かって語りかける。

「この変態ロリコン無差別殺人鬼外道いますぐ子供を離してすぐに死ね」

しかしヤンキー夫婦は聞く耳を一切持たず、とにかく大声で喚き立てた。

「クソ何てうるせえ夫婦だ。……頭が、痛くなる」
中学で一緒になった頃から、榎木は至って温厚な性格だった。あれからもう長い付き合いになるが、榎木が声を荒げたところなど見たことがない。いまだってそうだ。この場をなんとか収めようとしている。しかしその静かな声のトーンの奥底にはいつになく暗い感情が込められているようで、おれは何か不穏な気配を感じていた。

「ティアラ大丈夫すぐ助けるからティアラ待ってろ死ねロリコン変態ロリコン社会のゴミ犯罪者の精神病ティアラ返せ殺す」

元ヤン夫婦は完全にヒートアップしており、とにかく大声で榎木を罵り続ける。

そんな両親の姿と自分を抱きかかえている榎木を交互に見上げて、不思議そうな表情を浮かべている娘のティアラ※漢字表記は「天威亜羅」。やはり自分たちの置かれた状況を分かっていないようだ。

「……すこし黙れって、さっきから、ずっとそう言ってる」
荒く息を吐きながら、重い口調でしゃべる榎木。ティアラを抱えている腕がブルブルと細かく震えている。顔色が異様に悪い。「……おれは、そう、言ってる、だから」さらに言葉を続けようとするのだが、とにかく苦しそうな息遣いと声。こめかみ辺りの血管が青く浮き上がって見えた。

「おいエノ、どうした」
たまらなく不穏なムードを感じて、おれは榎木に呼びかけた。それとほとんど同時だった。

野次馬の人垣を押しのけるように、そいつが現れたのは……。

「おのれ怪人! その子をすぐに離せ!」

よく通る野太いその声の主は、革製のライダースーツで全身を包んでいた。一見してツーリングのバイカーか何かと思ったが、どうも違っている。

そいつの頭は、バッタを象ったような意匠の銀色のフルフェイスのヘルメット、目の部分は大きな複眼のように見えた。そして首に巻かれた白いマフラーが、屋内だというのに風にたなびいている。

つまりその男は、仮面ライダーそのもの、という格好をしていたのだ。

何だこのコスプレ野郎は? と怪訝に思ったが、ああ、そうか、この道の駅に併設したイベントスペースでヒーローショーでもあったのだろうと見当をつけた。なるほど、それで今日はこんなに人が多かったのか……そうやって、おれは自分を無理に納得させようとしていた。さっきからの騒ぎの渦中に自分がいながら、段々と現実感が失われていくような感覚があった。そこで乱入してきた、このライダーのコスプレ男には、いよいよ不穏なものを感じていた。

油断すると、すっかり頭がおかしくなりそうだ。

「ライダーだ!」
「ライダーが来てくれた」
「悪者をやっつけてくれるぞ」
「やだ、格好いい」

野次馬たちが一斉に興奮してざわめく。子供のみならず、いい歳をした大人までもが夢中で歓声を上げる。まるで心からその正義の味方を待ち望んでいたかのように。その異常さと熱気に、おれはただ呆然とさせられた。

「なあ、あんた」
「……トゥッ!」
ゆっくりこちらに近づいてきたライダーのコスプレ男に、おれはまず声をかけようとした。しかしいきなり腹にワンパンをくれるという行為により、彼は「問答無用」という明快な態度をおれに示した。

メキッという音が、自分の身体のなかで響いた。
あばら骨の二本か三本は確実に折れていた。その耐えられない衝撃と痛みに、おれはその場に崩れ落ちた。

さっきのユーヤの拳などとは根本的に質が違う、圧倒的な暴力。的確に否応なく対象を破壊する力が、おれのボディに行使された。たった一発食らっただけで、それきりもう二度と立ち上がれそうにない。

とても人間の力とは思えなかった。

コスプレなんかではないのだと、おれはそこで理解した。
正真正銘、本物のライダーパンチだった。

「やりやがったな、ライダー……!」

押し殺しているようだが不気味によく通る低く重い声で、榎木が言った。その場にティアラを下ろして、改めてライダーに向き直り構えをとる。

「いいだろう、勝負してやる。……ここは狭いな、表に出ろ」
そうやって榎木は、ライダーに一対一の決闘を挑んだ。おれはただ床に倒れ伏して、その様子を見上げていた。

——いつの間にか榎木の頭部は、デフォルメされた爬虫類のようなものに変化していた。

まるで特撮のかぶり物じゃないかと思った。しかし質感も妙にリアルな感じがして、おれは中学から高校にかけて榎木が部屋で飼っていたイグアナを思い出した。

あのイグアナは結局どうしたんだっけ? 大きく育ち過ぎて飼えなくなったとか聞いたような……とにかく榎木のあの顔は、あれによく似ている。でもまさか、だからといって……。

白昼夢のようなその場面で、おれはそんなことを考えていた。


○●


「おのれライダー! これでも食らえ、シャー!!」
「お前もすこしはやるようだな、イグアナ男!」

おれは文字通り血反吐を吐きながらフードコートを這いずり出て、決闘に臨む榎木とライダーの後を必死で追った。そして群がる群衆の足の間から、その戦いを見守った。おれに出来る事はそのとき、それしかなかった。

おれの地元の、むかしからの親友の榎木であったはずのイグアナ男と仮面ライダーは、駐車場横のイベントスペースを舞台に、壮絶な格闘戦を繰り広げた。

「いまだ、ライダー!」
「とどめを差せ!」
「怪人なんて殺しちまえ」

熱狂に飲まれた観客たちの声援が、その場に明るく残酷に響く。

いつしか勝負の行方は完全にライダー優勢に傾いていた。善戦虚しくイグアナ男はすっかり疲弊していた。蓄積されたダメージが膝にきているのか、あからさまにフラつき、もはや隙だらけだった。どうぞトドメを差してくれ、といわんばかりの状態だ。

「……いくぞ、必殺」
その気を逃さずにライダーは存分にタメをつくり、「トゥ」という掛け声と共に天高くジャンプした。「宙に舞い上がる」という表現がまさに相応しい、おれのドロップキックなど比較にならない人間離れした飛翔。重力の存在など、もはや完全に忘れ去られているかのようだ。
ライダーはそのまま空中でクルリと一回転、そこから一直線にキリモミ落下しつつ自分の技の名前を叫んだ。

「ライダーァァァ、キィィィック!!」

流星のように対象に降り注ぐ、必殺のライダーキック。
それがイグアナ男の胸に直撃した。

「……ニ、ゲ、ロォォォォォ!!」

断末魔の叫びを上げて、イグアナ男は爆散した。

その瞬間を、イグアナ男の哀れな最期を、おれはただ眺めていた。テレビ画面の中で何度も繰り返されてきた、悪の怪人がヒーローにやっつけられるお約束の場面だ。おれのリアリティなど関係なしに、ただそのシーンが目の前で展開していった。

「ありがとうライダー!」
「敵は死んだ!」
「ありがとう! ありがとう!」

天からスコールのように降り注ぐのは、イグアナ男と化した榎木の肉片と血潮だ。それを全身に浴びる群衆は恍惚の表情を浮かべ、ライダーの活躍を口々に褒め称えた。そんな賞賛の嵐の中、いつの間にかライダーはイベント用のステージに上がって勝利ポーズを決めている。

おれの親友の血肉にまみれたヒーローショーが、最高潮に盛り上がっていた。

「お父さん、ライダーって格好いいね」
西武ライオンズの青い野球帽を血糊で紫に染めた少年が、目を輝かせて隣の父親に言う。
「そりゃあ正義の味方だからな」
出店のタコ焼きを頬張りながら、父親が満足そうに答える。タコ焼きには紅生姜がたっぷり多めに、だが紅生姜だけにしては赤過ぎた。

「ほら、ティアラ。ライダーにお礼いいな」
「ありがと〜」
「マジ最高。あんたマジでハンパねえよ」
ユーヤとカヨ、それにティアラがステージに登壇して、ライダーを囲んで記念撮影をしていた。カヨは自撮り棒を持ち歩いているらしい。マイルドヤンキー家族力を存分にアピールする、満面の笑み。悪の怪人から無事救われた善良で仲睦まじい一家として、これからも彼らはたくましく図々しく世にのさばっていくのだと思われた。

「……悪は、滅びるのみ」
このライダーにはお約束の勝利ポーズと台詞のバリエーションが幾つかあるらしく、群衆のリクエストに応えて、それを順繰りに披露している。そうやってポーズが決まる度に観客のスマホが向けられ、バシャバシャと耳障りな撮影音が際限なく響く。

おれはただ目の前の光景を呆然と眺め続け、ただ一つ心に気にかかる事があった。

イグアナ男は、すこし前まで榎木であったはずのあの悪の怪人は、あの最期の瞬間、おれに向かって叫んだのだ。
「逃げろ」と、たしかに榎木はそう言っていた。

「……いまのうちです。さあ立って。肩を貸します」
いつの間にかおれの横にいたうどん屋の店主が、茫然自失状態のおれを引きずり起こした。
「ここにいては危ない」
そして人目をさけるようにして、おれは肩を担がれ店主と共にフードコートの建物に入る。人々はいまだ熱狂の中、ステージのヒーローに夢中のようで、そこに人の姿はなかった。
「とりあえずは、ここに」
うどん屋の調理場の片隅に、おれは匿われた。外からは上手い具合に死角になっているようだった。

「こうなってしまったら、もうどうしようもないんです」

そうやって店主がおれに言い含める。

しかし「どうしようもない」とは一体どういうことなのか。「こうなった」とは、どうなってしまったということなのか。
ほんのすこし前、おれと榎木はこの店でうどんを食べていた、それなのに。

「お友達は、本当に残念でした」

さっき目の前で爆散したイグアナ男は、やはり榎木だったのだ。そしてあの断末魔。あいつはおれに「逃げろ」と言った。

「とにかく、いまは逃げて下さい。それしかないんです」
うどん屋の店主もまた、榎木と同じ事を言う。

……何から逃げろというのだろう。
おれはどうして逃げなくてはいけないのだろう。

「まだ仲間がいたはずだ、探せ!」
どうやらおれを探しているらしい声が聞こえて、フードコートに群をなした市民が雪崩れ込んでくる。

なるほど、戦国時代の落ち武者狩りはきっとこんな感じだったのだろうと思われた。これも映画や小説で出てくるような場面だ。そしてこの狩りの対象となっているのは、間違いなくおれなのだった。

「あいつも仲間だぜ! すぐ殺さないと」
「そうそう、マジで危険だから!」

おれを探し回る市民の中にはユーヤとカヨもいて、やかましく盛んに喚いて群衆を扇動している様子だ。

ここで見つかれば、おれも確実に殺される。
……いつもの、むかしからよく知っている榎木の顔がぼんやりと曖昧に思い浮かんだ。だからおれはここで殺されるわけにはいかないのだと、そのとき誓った。何としてもおれは生き延びる。

「この場は、私が何とかします」と店主が言う。
「でも、あんただって」
おれを匿った事が分かれば、彼もただでは済まないはずだ。
「いいから急いで」
「……おい、いるぞ! あの店の奥だ!」
そうしている間にも市民たちの声が迫った。

「さあ、ここから外に出られます」
よく太った店主はその体格に似つかわしくない機敏な動きで厨房の床の隠し戸をこじ開け、そこにおれを押し込んだ。

地下へと降りていく梯子に何とか取りついたおれの頭上で、ゆっくりと蓋が閉められる。その間際に、うどん屋店主の声が聞こえた。

「いつも食べに来てくれて、本当にありがとう」

おれは闇の中、梯子伝いに下へ下へと降りていく。

降りていく途中、頭上から金属が床に落ちるような音が聞こえた。
それに続けて鳴り響いた物音、そしてどうやら蓋の隙間から垂れてきたらしい熱く塩辛い茹で汁から、あのうどんを茹でる大鍋が床にぶちまけられたのが分かった。
「ぎゅぉぉぉぉん……!」
それから得体の知れない動物のような唸り声、それに市民たちの怒号に悲鳴、爆発音などが続いた。

阿鼻叫喚の騒ぎが、あのうどん屋を中心に巻き起こっている。

「ライダー、早く来てくれ。こいつも怪人だ!」
義勇穏ぎゅおん 擬有恩 ぎゅうおん偽優怨悪音唵ぎゅうおおおおん !」
「きゃっ、こいつはアルマジロ男よ」
「やっちまえ!」
「……トゥッ! ライダー見参」
義勇穏ぎゅおん 擬有恩 ぎゅうおん偽優怨悪音唵ぎゅうおおおおん !!」
「すぐに殺して! すごい何か気持ち悪い」

おれはひたらすら梯子を降りていった。

全身全霊が、すっかり傷んでいるように思われた。体力も精神も限界近くまで疲弊してる。それに追っ手は必ずやって来るだろう。ここを脱したとして、状況は絶望的なものに変わりはない。

だが何としても逃げ切らなくてはならない。

まったく光の届かない地下通路は、そのまま下水道に繋がっていた。深い闇の底を潜り抜け、おれは夜の河川敷に抜け出した。そこに生い茂る背の高い草の茂みに隠れるように、おれは身体を横たえた。

いつになく赤く大きな月が、夜空からおれを見下ろしていた。

汗か涙か血か、うどんの茹で汁か漬け汁か、それともヘドロか汚水だったのか。自分でも判然としない塩分を含んで粘ついた液体が全身を濡らし、さらにまだずっと自分から流れ出ているような感覚。

あらゆるものが入り混じったようなその臭いは、いまでもおれを包んでいる。


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——以上が数年前、おれの地元にある道の駅のうどん屋で、実際に起こった出来事だ。

おれの親友の榎木は、どうやら悪の怪人イグアナ男であったらしい。

いつからそうであったのかは分からない。その事実がどうであれ、榎木はおれの親友だった。それに何の変わりはない。あいつは本当にいい奴だったのだ。自分の死の直前、わざわざおれに「逃げろ」と言い残すほどに。

そして、あのうどん屋店主はアルマジロ男だ。

しかしそれが何だというのか。彼は自分の仕事をまっとうしていた。丸々とアルマジロのように太っていた彼は、食べる事が本当に好きで、その楽しみを客にも分け与えていた。良心的で誠実な商売だ。でもそんな彼も、きっと殺されてしまったに違いない。おれを庇ったせいで。

自分にとって掛け替えのないものを「正義の味方」であるライダーが無慈悲に破壊した。そして人々はその暴力を承認して「正義」であると賞賛する。

満身創痍ながら、あの地獄からは辛くも逃げおおせた。しかし善良な市民からなる酷薄で執拗な追っ手は何度でもやって来た。あの事件以後、全国的に自警団のようなものが組織されたらしい。その追跡も、おれは何度でも振り払ってきた。

そこには理由がある。
おれは目覚めたのだ。

「正しさとは何だ」
「正義の味方とは何だ」

わき上がるその疑問、直面した理不尽な現実とその構造への激しい怒り、憎しみ。おれは打ち震え、ついにはそれに身を任せた。そういった負の感情が一体となって、稲妻に打たれたような衝撃を脊髄に走らせた。……まるで悪夢から目が覚めて、さらなる悪夢を見るような感覚。瞬間的におれは確信、すべてを理解した。奴らと自分とは、もはや相容れぬ運命にあるのだということも……。

おれに組み込まれていた因子は完全に覚醒した。
そのたしかな徴が肉体に現れ、約束されていたメタモルフォーゼが引き起こされた。

おれの背中を食い破り、漆黒の翼が生えた。

肩甲骨から広がる、大蝙蝠のような一対のその翼で、おれは宵闇へと飛翔する。
正しさを標榜する自警団も、その片棒を担いでケツを持つ暴力装置たる正義の味方も、そこまでは追ってはこられない。宵闇に紛れるように、おれは生まれ故郷の街から再び逃げ出したのだった。

それからのおれは太陽を避け、いつも深い森や暗い洞窟あるいはうらぶれた街の路地裏に隠れ棲んでいる。いつでも浅い眠りは逆さ釣り、ときおり差し込む微かな月の光だけを慰めとする。

呪われた怪人コウモリ男として、いまの自分は生存している。

おれは自ら望んで改造手術を受けた覚えはない。ただ目覚めさせられた。しかし結果として世間において絶対的な異分子たる「悪の怪人」と化してしまった。イグアナ男とアルマジロ男だって、きっとそうだったのだろう。現行の社会と相容れない因子を、ただ人より少しばかり多めに持ち、ふとした切掛でそれが目を覚ます。ただ、それだけの事なのではないか。

……それは、悪なのか?

いま一度、おれは問いかけよう。
お前たちの言う「正義」とは、何だ?

あのうどんを榎木と食うことは、もう出来ない。


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