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『足の親指の爪垢を肴に吞む話』

一.


 やっぱり片足を引きずらせるようにして、榎木が戻ってきた。榎木の合図を確認して、小坂は裏口のドアを開けた。

「どうだった」
「あんまり良くない」
「良くないって、どう良くないんだ」
「とにかく良くない。もうすぐ日も落ちる」
「……じゃあ飯にするか」

 榎木が拾得物を床に並べている間、小坂は手早く夕飯の支度を整える。夕飯とはいっても、缶詰やレトルト食品を携帯コンロで温めた程度のごく粗末なもの。しかし暖かい食事はそれだけでありがたい。

「この缶詰だけは、やたらあるな」
「ちょうど仕入れのタイミングだったからな」

 鰊の蒲焼きという名目の缶詰だが、実際は甘じょっぱい醤油タレに漬け込まれた煮物のような状態になっている。あるいは網を使って炙ってやれば、もっと蒲焼きらしくなるかもしれない。それを炊きたての飯の上に載せて簡易的な丼に仕立てる。

 ところで蒲焼きだったら、やっぱり炊きたての白い飯で食いたい。濃いタレが白い米に染みこむ、もはや慢性的な空腹を刺激するイメージが小坂の頭に浮かぶ。しかし缶詰の鰊の身は割り箸で挟んだだけで崩れてしまうほど柔らかく、網焼きはちょっと難しそうだなとも思う。

「……ああ、炊き込みご飯」
「炊き込み?」
 ふと思いついた小坂が呟き、榎木が聞き返す。
「ああ。このタレが折角こう、ひたひたに、たっぷり入ってるだろ。それを余すことなく利用するには、いっそ米と一緒に炊いちゃう」
「おお」
「細かく刻んだ生姜も入れてさ。まあチューブのやつでもいいけど。ふっくら炊けたところに分葱をパッと散らす。あと七味も好みで振りかける」
「美味そうだな」
「そら美味いだろう」
「でも米が」
「ないな、生米。パックのやつもなくなりそうだし」
「また調達しなきゃな」

 野営用ランタンのやや頼りない灯火を、缶詰の底に残ったタレが赤黒く照り返している。鰊の身はすぐに食べ終わってしまった。小坂は平べったい缶詰を傾けて、底に溜まっているタレを余さず舐めとるように飲んだ。意地汚いなど言っていられない。榎木も当然同じようにする。それから缶ビールの残りを一気に飲み干す。生温いビールだが、これも仕方ない。贅沢は望めない環境にいるのだ。

「まだ飲むか」と榎木が聞いてくる。
「飲む。腹はふくれるし」
「すぐ小便で出ちゃうけどな」
「ああ」
「銘柄は?」
「恵比寿にしよう。折角だし。まだあるよな」
「あるよ。たっぷり。卸して売るくらい。ビールじゃなくて、いっそ今日はウィスキーにするか」
「いや、ビールが良いよ。ウィスキーは酔い過ぎる」

 酒類などの在庫管理は榎木の担当になっている。榎木は配送主体の酒屋の店員で、ここは榎木の働くその酒屋の倉庫だから、自然な流れとしてそうなった。当然、酒類だけは豊富にある。あとは乾物類に何種類かの缶詰類。とりあえず飢え死にはしない環境ではあった。

「鰊だったら蕎麦か。鰊の蕎麦。前に蕎麦屋で食ったっけなあ」
 小坂の心は、まだ鰊に捕らわれている。
「蕎麦がないだろ」
 あくまで現実的にそれに応える榎木。

「ラーメンはまだあるぜ。鰊ラーメン、意外といけるかもしれない」
「ちょっとくどくないか」
「かもな。だから薬味を効かせる」
「やっぱり薬味か」
「薬味は重要だ。とりあえず生姜と、あとは葱をたっぷり。いや、玉葱の微塵切りでもいいかもな。そうすると八王子ラーメン風になるかもな」
「お前は葱好きだよな」
「うん。使い勝手も良いし、味も食感も好きだな」
「まあ普通の長い葱は調達が難しいかもしれないが」
「……ああ葱食いてえな」
「でも玉葱だったら、まだありそうな気がする」
「え、そうなのか」
「玉葱は保存効きそうだろ。野菜室の奥にいつまでも転がってたり、それか段ボールにまとめて大量に入ってたり、そういうイメージ。長葱はそこまで日持ちしないから、多分もう駄目だろう。でも玉葱ならどこかに備蓄が」
「……なるほど。よし次は玉葱狙いで」

 ゴト、ギィ、ガタ……ドンッ。

 不意に、物音がした。
 この倉庫の二階にある事務室からだ。何かがぶつかって、物が床に落ちたような……。二人とも一瞬そちらに注意を向けて黙り込む。定期的に聞こえた二階の物音については、お互い何も言わずにすませるのが暗黙の了解になっている。

「……ほら、恵比寿」
「おおサンキュー」榎木から二本目のビールを受け取る小坂。

 缶を開けるとプシュという気の抜けた音。生温く発泡した液体を口に含んで飲み下すと、少し胃がふくらんだような気にはなる。でも本当は、さっきから話している薬味の葱や玉葱に限らず、とにかく野菜を腹一杯食いたいと小坂は思う。食物繊維やビタミンといった栄養も、どう考えたって不足しているに違いない。

「いい加減、風呂にも入りたいな」ふいに榎木が言い出し「そうだな……」と思い出したように小坂も手を後ろに回してシャツの裾から突っ込み、ボリボリと背中を掻いた。

 朝晩はかなり涼しくなってきているが、汗や埃で衣服は汚れ放題、地肌はべたついている。頭皮で皮脂が固まっているような不快感も常にある。半ば麻痺していて自分ではよく分からないが、実際かなり臭いもするだろう。人前にはとても出られない状態だ。人前になど出る予定などないにしても、とにかく不潔。背中を掻いた指の爪先に黒い垢が詰まっていて思わず「うわ」とつぶやいて、小坂はもう一方の爪先でそれを削げ落とす。

「汚えなあ」
「お前だって同じ様なもんだぜ?」

 小坂が言い返した通り、榎木もまた汚れきっている。元の生地の色が濃いので目立ちにくいが、トレーナーには赤黒い大きな染みが貼りついている。

「どうせなら、温泉に行きたいな」服をつまんで引っ張って、まじまじとその染みを眺めながら榎木が言う。「服着替えるにしても、身体洗ってからだな……」
「あー、たしかに温泉だったら」
「一番近いのは蛇沼グランドの方かな。あと袋谷にも何カ所か」
「どこが行きやすい?」
「ちょっと考えてみるか」

 榎木は早くも三本目の缶ビールに口をつけた。それから煙草を吸う。表にあった自販機を引き倒して取り出した煙草のストックはまだ潤沢にある。煙を吹かしながら、右足の脹ら脛を変色しているジーパンの上から摩る榎木。やはり痛むようだった。

 ガタッ……ギィ……ギィ……。

 二階からまた物音がした。だがそれを気にするのを止めようと改めて思いながら、小坂も煙草に火を点けた。榎木が何も言わない以上、自分から言うことは何もない。

二.

 男が、こちらに向かって走ってくる。坊主頭の若者で、ひどく痩せている。人に追われて逃げている様子であるが、その表情はどこか必死さに欠けているような印象も受ける。「人生で何を選ぶ? 出世、家族、大型テレビ、洗濯機、車……」走りながら彼が脳内でつぶやくフレーズは、即物的であると同時にどこか哲学的にも聞こえる。
 横道から飛び出してきた乗用車に危うく跳ねられそうになりボンネットに手をついて身体を一回転、しかしすぐに体勢を立て直し、その車をじっと見つめる。運転席からの視線で見る彼の、いよいよ狂気じみた笑顔。
 それから場面は切り替わり、自分の部屋で煙草を吸っている彼の恍惚とした表情。手巻きの煙草には何らかの薬物が混ぜられていることが明白で、そのまま後ろに倒れ込んで、彼の口と鼻からは濃い煙が立ち上る。その間も重ねられていく彼の一人語りはあくまで饒舌で次第に皮肉さを増していく。
「……だがおれは御免だ。豊かな人生に興味はない。そこに理由はない。ただヘロインだけがある」

 この一連のシーンのBGMはイギー・ポップの『ラストフォーライフ』で、主役のレントンを演じるユアン・マクレガーのナレーションがとにかく印象的でスタイリッシュなオープニング。要するに『トレインスポッティング』は高校時代の小坂が大いに感銘を受け、後で考えると恥ずかしくなるくらいに感化された映画だった。

「この前……っていっても、もう結構前だけど、久し振りにあの映画観たら、やっぱ面白かった。お前も憶えてるだろ」
 ようやく息切れが治まってきた小坂が言う。久し振りの全力疾走がかなり堪えて、倉庫の床にへたり込んでいる。

「まあ何となく面白かったような気はするな」
 一方の榎木は、小坂に比べてかなり余裕がある。急いで降ろしたシャッターが完全に閉まっているか確認したりしながら、気のない返事をする。

 その映画に榎木はそこまで思い入れがあるわけではない。小坂の趣味を一方的に押しつけられただけだった。あの頃いつもそんな感じだったように。そんな関係性は、現在に至るまで変わっていない。

「さっき急に思い出した。……走ったせいか」
「うん。そうじゃないか」
「焦ったな」
「ああ、ちょっと危なかった。次は気をつけよう」
「……あの監督の映画、他のも観たけどな。走るシーンが、やたら、多いんだよ」
「うん」
「とにかく走るんだよ。役者、大変だったろうな」
「そうだな」と、やはり気のない返事をする榎木。
「まあでも、走るのしんどいな。マジで……」すっかり消耗した小坂は、そのまま床に寝転んだ。

 ここ数ヶ月で腹回りの贅肉もそぎ落とされ、小坂の体型はあの映画の主演俳優並にガリガリに、とまではいかないにしろ高校生の頃くらいには戻っていた。しかし身体は軽くなっても同時に体力も落ちている。この数週間の栄養不足もあり、すっかり非力な男に仕上がっている。

 一方の榎木は、酒屋の配送は体力勝負でもあり、普段からしっかりと身体が鍛えられていた。この状況においても体力を使う役割を自然と引き受けている。同じように栄養が不足していても、小坂に比べれば身体能力は格段に高い。そして現在二人が立てこもる倉庫は、元々が榎木の職場であり、辺り一帯の様々な事情にも通じてもいる。

「踏切のところにいたオッサン、今日もあそこで、ずっとああしてんのな」
「こうなる前から、ずっとあんなんだよ」小坂の疑問に榎木が答える。
「マジかよ」
「わりと普通の光景だな、あれは」

 すぐ近くの踏切にいたのは、パッと見て五十代後半くらいに見える中年の男で、かなり離れた所から見ただけで、すぐにその異様さに気がついた。

 まず上半身は下着のみ。だらしなく崩れかけた体型と地肌が、紫色のブラジャーによって一層際立っていた。下半身はスカートで、そこまではよく見えなかったが、多分ハイヒールでも履いているのだろう。フラフラとおぼつかない足取りで、開きっぱなしの踏み切りの前を行ったり来たり……まるでステップを踏んでいるようにも見えたなと小坂は思う。

「この辺は元々、あんな奴が多いんだぜ。あと全体の雰囲気自体は、そんな変わってない気もする」

 そう言われてみれば、確かに自分の記憶にある一帯の風景と現在のそれは大して変わらないようにも思えた。地元を離れる前には小坂もこの辺に来ることもあった。準急が止まらぬ私鉄の駅前は、もうずっと以前から寂れ切って、ちょっと荒廃したような雰囲気が以前からあった。

 路上でたまに見かける、着崩れた詰め襟の学ランで頭髪を派手に染めた今どき珍しいヤンキー集団、意味もなく日中徘徊する老人達……なるほど「大して変わらない」といえばそうなのかもしれない。

「にしても、皆ちゃんとマスクつけてるのは笑える」
「あー。それ、おれも思った。こんな状態になっても何だかんだ真面目」
「国民性っていうのかな、いいんだか悪いんだか」
「結果これだしな」

 実際あの女装中年だって格好は変態そのものなのに、マスクだけはしっかり口元を覆っていた。それは近辺で偶に出くわすヤンキーや老人、買い物籠やエコバックを振り回して歩く主婦たちも大体そうだった。こうなってしまえば感染も何もないのだから、滑稽といえば恐ろしく滑稽な光景だったが、現在の二人には大いに恩恵もある民度の高さだ。

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「とにかく外でマスクしてない奴はモラル低い。あと家の中にいるのは基本的にマスクしてないから要注意だ」
「ああ。今後は肝に銘じよう」

 肝に銘じよう……なんて時代がかった言い方を榎木がしたのは、ついさっき見た光景が影響しているのかも知れないと小坂は思った。
 
 調達の為に窓を割って忍び込んだ一軒家の台所。
 しゃがみ込んだ老婆が、直前までは何とか生き延びていたらしいペットの室内犬を捕食していた。それはまさに「捕食」と表現したくなる有様で、我を失くした老婆は息絶えた室内犬のはらわたに手を突っ込んで探り、生き肝を貪り食っていた。

 ずっと家の中にいたらしい老婆は寝間着姿でマスクをしていなかった。だから「食らう」という死者たちに残された本能を邪魔するものが何もなかったのだ。

「……久しぶりに凄いの見たよな。しかも追っかけてきて」
「老人は逆に元気ってことかな」

 やや皮肉めいたやり取りを榎木と続けながら、小坂の心にはさっきの捕食シーン、そしてそこから連想された記憶がよみがえってくる。

 あの日、榎木と男二人だけのキャンプ旅行から地元に帰り着いて、まず覚えた違和感。そして実家に戻って目にした光景。
 それはやはり小坂にとって思い出したくないものだし、まずは自分たちが生き延びる必要もあり、半ば強制的に、あるいは半ば無意識的に蓋がされていたものだった。

「若い方が、こういう状況では弱いのかもな」
「ああ」

 リビングの床に横たわっていた弟。早くに家を出た小坂と違い、十歳近く年が離れた弟はまだ実家にいて、地元の大学に通っていた。その弟の腹の辺りはどす黒く乾いた血で汚れ、えぐれ凹んでいる。生きているようには見えなかった。

 弟の周りを這いずり回る父親の口元もまた同じ色の血で汚れていて、ドアを開けた小坂を下から見上げる目は正気とは思えなかった。いくら動いても目を開いてこちらを見てきても、やはり父親はもう死んでいる。すっかりゾンビ化していた。

 母親は弟を産んで間もなく死に、稼ぎはいいが思い込みが激しく我が強い父親とは似たもの同士で、小坂が思春期を迎える頃にはすっかり折り合いが悪くなった。

 しかしそんな父親も年を取り、また小坂自身も年齢を重ね、穏やかな性格の弟の取りなしもあって近年ようやく和解しつつある……そんな小坂の父親が先に死んで蘇り、弟を襲って食い殺した。

「逞しいとか、そういう問題でもないし」
「そうかもしれない」
「生き残った者勝ちっていうかな」

 もう死んでいる弟の身体がビクッと震え、ゆっくりと首が持ち上がったとき「頼むから、こっちを見るな」と咄嗟に願い、それから父親がこちらに向かって這い寄ってくるのにも気がついて小坂はリビングから退いた。急いでドアを閉め、着ていたシャツを脱いでドアノブを回らないように固定しようとしたが上手くいかず、結局は玄関にあった傘立てや雑多な荷物類をとにかくドアの前に積み重ねて、とにかく内側から開かないようにした。

 それから小坂は弟の部屋——かつては自分が使っていた子供部屋に引きこもり、ただじっと動かず何もしなかった。携帯の電波はなくなっていて、Wi-Fiでネット接続もできない。

 一日経つと電気の供給も途切れた。
 三日目になって、自分も実家に戻っていたらしい榎木が車で迎えにきた。

「どうだった」と小坂が聞くと「良くないな」とだけ答えて榎木は首を横に振った。だから小坂も自分の状況も詳しく説明しなかったし、榎木にもそれきりで何も聞いていない。「この場所を離れた方が良い」という意見はとにかく一致して榎木の勤め先、つまり現在二人が寝泊まりしている、この倉庫にやって来たのだった。

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「死んだらそれで終わり……っていうか、ああなるのか。死んだら。ああなったら終わりかな」
 倉庫の床に寝転んだまま、小坂は実家に置いてきた弟と父親の事を思い浮かべて呟く。答えが出るような問題ではないとは分かってはいたが。

「……終わりでもあるし、もしかしたら」と言いかけたきり、何か考えているような、やはり大した事は何も考えてないような表情で榎木は黙った。

「その脚、まだ痛むのか」 
 外から持ち込んだソファに腰掛け、少し前に負傷したらしい右脚をさすっている榎木に小坂が尋ねると「いや、痛みはしない」と答える。
 本当は痛むのかもしれない。

 榎木とは中学が同じで、小坂が地元を離れてからも定期的に会って吞んだりもして、付き合いはずっと続いている。いまだに地元で会う友達は榎木くらいで小坂は親友のように思っているのだが、榎木が本当は何を考えているのか、本当の所はよく分からない。
 しかし別に榎木が何を考えていようが特に気になるわけでもなかった。たまに訝しんではみても結局は「まあいいや」と思うだけなのだ。むかしから、ずっとそうだった。
 この状況下においても、それは変わっていない。

「生きてるって何だろう」
「?」

「……生きてるって何だろうって、おれ何か思春期みたいな事言ってるな」
 自分で言った後に自分で突っ込みを入れる小坂に榎木は「そうだな」と、いつも通り気のない返事をする。

 バンッ、ガシャ、バンッ、ガシャ……。

 そのとき、表のシャッターを叩く音がして、小坂は慌てて身体を起こした。榎木も立ち上がり、さすがに緊張した様子で身構える。

「……誰だ? 人間か? 言葉分かるなら返事しろ」

 シャッターに駆け寄った小坂が、押し殺した声で向こう側に問いかけるが何も返事はない。ただ返答代わりの反応とも受け取り難い、何とも不定期なリズムでシャッターが乱暴に叩かれる。

「さっきの婆さんじゃないか……?」
「まさか」

 榎木の予想を咄嗟に否定はしたが、あの家にいた老婆は確かに自分たちの姿を見て立ち上がり、より新鮮な食料を求める本能に従ったのか、意外な程しっかりした足取りでこちらに向かってきた。しかしウォーキングデッドとして人外化したとは言え、元が老婆なのだ。あの家を出てから全力疾走して完全に振り切ったはずで、ここまで追ってきたとは考えづらい。

 だが否定しきれない所もある。もうこの世界はとっくに滅茶苦茶で、現実に考えづらい事も平気で現実に起こるのだから。

「……どうする?」
「どちらにしろ人じゃないだろ。だったら無視だ。すぐに諦めるか、忘れるかするんじゃないか」

 小坂の判断で無視を決め込む事にした。そして予想通りにシャッターを叩く音はそのうちに止んだ。しかし一連の騒ぎに呼応するかのように、二階の事務所でまた物音がしはじめた。

 ゴトッ、ザッ、ズー、ザッ……。

 小坂は二階の事務所には入った事がない。ここに来たときには、階段を上がった所にある事務所のドアノブは針金でグルグルに巻き付けられ、内からも外からも容易には開かないようにしてあった。それは多分、榎木がやったのだろうと思われた。

「何か引きずって歩いてんのかな。それとも床這ってるのか」
「……そうかもしれない」

 物音が一向に止まず、天井を見上げた小坂が思わず口にする。何も聞いてはいないが、何となく状況は予想している。ただ榎木に説明する気がないのだから、それを詳しく聞き質すつもりはない。

「……やっと静かになったな」
「ああ」

 それでもいつかは始末をつけなければならない問題だろう。小坂がそれを分かっているのだから、榎木も分かっているはずだった。


三.


「臭いだろ」
「ああ、臭いな」
「珍味系とか、そういうのは大体臭いだろ」
「たしかに」
「烏賊の塩辛、チーズ、納豆、海鞘、くさや、豆腐ようとか、とにかく臭いものが多い」
「味も濃いな」
「ああ、濃い。凝縮されてるっていうかな」
「発酵とか、そういう作用もあるかも」
「そうだな、発酵。発酵食品も濃厚で、そして臭い」
「まあ臭いな」
「臭くて味が濃い。白飯も沢山食えるし、何より酒の肴になる」

 もう数時間前から、小坂と榎木は倉庫の酒を飲み続けている。調達には何度も出ているが、いよいよ食料が乏しくなってきた。駅前にある数少ない商店や侵入が容易な人家などは、もう粗方漁ってしまった。

「臭いものは、つまみにぴったりなんだよ」
「あ、そういう話だったのか」

 食料事情が乏しいということは、酒の肴になるものも当然なくなってくる。しかし酒類だけは大量にあり、他にする事も見当たらないものだから、とりあえずは酒を飲みはじめたのだった。

「だから、足の親指の爪垢」
「……?」
「足の親指のとこに溜まった、爪垢な」
「それが何なんだ」
「だからさ、足の親指の爪垢は、つまみになるんじゃないかって話だよ」
「……お前、何言ってんだ」
「だって臭いだろう」
「そりゃ臭いだろうが」
「だったら、つまみにぴったり。……そうだな、ちょっとした熟れ寿司みたいな?」
「お前、酔っただろ」
「酒飲んでんだから、酔うのは当たり前だろが」
 
 むかしから小坂が突拍子もない事を言い出したときにする反応をする榎木。冷静に突っ込みはするが、完全に否定はしない。小坂は明らかに飲み過ぎていた。最初はいつも通りビールを飲んでいたのだが「まどろっこしい」と言い出して、しばらく控えていたハードリカーに切り替えてグイグイ飲み出した。榎木もそれに付き合いはしたが、やたら強い酒を際限なくあおり続け、やけくそのように酔いを加速させる小坂には追いつかない。

「『爪垢を煎じて飲ませる』って、言うだろう」
「そういう諺みたいのはある」
「別に煎じなくても、そのまま濃厚な風味を楽しむ感じでチビチビ舐めて」
「そうやって楽しめると本当に思うのか?」
「爪切りするだろ。それで切った足の爪、とくに親指のでっかいやつ、あれ鼻にもってきて臭い嗅いだりするだろ? 臭いの分かってんのに。いや臭いからこそ」
「……まあ、しなくもないかな」
「だろう、そうだろう。するんだよ、皆」
「皆がそうとは言い切れない」
「いや、してる。してるはずだ。潜在的に、やっぱりあの臭いに惹かれてるんだよな、絶対。とくに酒飲みは」

 ただの思いつきを補強する為の乱暴な論理だが、榎木に向けて展開しているうちに自分でもすっかりその気になっている小坂。カロリー摂取の手段としても酒自体は毎晩飲んではいたが、本格的に酔いが回るのは久しぶりだ。長く続くこの状況にも当然ストレスを感じていた。一度酔ってしまえば、際限なく酔い潰れたい気分にもなってくる。

「汚え話だな」
「そんな事ないぞ。これは本能的なものに直結する話かもしれない。臭いってのは……」

 二人とも数ヶ月ばかり風呂に入っていないしシャワーも浴びていない。服も身体も汚れきっている。倉庫の中は、すえた臭いで充満している。すっかり鼻がなれきって、当人達にはその臭いがあまり感じられないにしても。そして足の指の爪の間には、さぞかし熟成された爪垢も十分に詰まっているはずだった。

「それで、その爪垢は、自分のを食うの?」
「え? ああ、それは」
「それともお互いのを食うのか?」
「うーん、そうだな……」

 とりあえず無難な所では自分のものだろうとは思う。しかし曲がりなりにも食料、栄養源という観点で考えれば、他人のそれを食らった方がいいような気もする。近所を徘徊するゾンビ共も自分の臓物を自分で食ったりはしない。それから諺にある「爪垢を煎じて飲ませる」のは飲ませる相手よりも優れた誰かのものを飲ませるわけだし、やはり互いの爪垢を摂取した方が栄養価もあり、また効率的かつ刺激的な体験になるのではないか……それにしても本質的な所を突いてくる、さすがはエノ、中学からのマイメン、あくまでクール……。

 酔いが回った小坂が自らの飛躍した結論、それと同時に長年の友人への敬意を心に抱いていると、また二階から物音がした。

 ガタ、ズサ、ズサ……。

「なあ、エノ」
「なんだ?」
「その足の怪我、二階の……にやられたのか?」
「……そうだよ」

 つい明確に言葉にして、はっきりと小坂は尋ねてしまった。この数ヶ月、決して触れないようにしていた事柄に不意に踏みこんでしまった。僅かな間を置いて、しかしあっさりと榎木はそれに答えた。

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「大丈夫なのかよ」
「何が」
「色々」

 普段と変わらない榎木の様子に少し拍子抜けしながらも、やはり問題の深刻さを小坂は感じていた。

「……おれの爪垢食うのは止めといた方がいいかも」
「何で」
「半分くらい腐ってるだろうし、お前にゾンビが感染るかもしれない」

 負傷した榎木の右脚は、近頃になっていよいよ不自由になっていた。調達に出ても収穫も少なくなってきたこともあり、だから最近はすっかり倉庫に引きこもっていた。

 そもそも負傷の原因は何なのか、そして榎木の身体には何が起こりつつあるのか、それはずっと知らないふりをしてきた問題だった。確実にウィルスに侵食される状況と未来から目を背け、ただ酒を飲んでいたのだ。不意に胃の底からこみ上げるものがあり、小坂は思わず嘔吐いた。

「お前、酔っただろ」と榎木。
「……かなり飲んだからな、ウィスキー」
「水飲むか?」
「水はまだあるのか」
「たっぷり、とはもう言えないけど結構まだあるよ」

 もともとペットボトル入りの水は酒と共に大量に在庫があり、他にも外から回収して集めたものもあった。それでも着実に消費され、あらゆる物資は段々と目減りしている。当たり前の事ではあるが、いつかは全て無くなる。

「とりあえず、これ飲めよ。まだ奥にあるから」倉庫の奥に行ってペットボトルの水を取ってきた榎木が小坂にそれを手渡して、
「ちょっと行ってくるぞ」
 自分が飲みかけていたブランデーの瓶を片手に下げて、榎木は二階へ続く階段に向かっていった。

「待てよ」
 榎木を止めようとした小坂だが、立ち上がる足元がふらついて、片足を引きずる榎木にも追いつけない。酔ったせいで、別に聞かなくてもいい事を聞いてしまった事を後悔する。その場でまた吐き戻しそうになる。

「……いい機会かもしれない」
 階段の前で立ち止まった榎木が、こちらを振り返りもせずに言う。
「小坂は入ってこなくていいから。どうなるにしても、そのまま放っておいて構わない」

 榎木は階段を上っていき、それからすぐにガチャガチャとドアノブに巻いた針金を解いてドアを開けようとする音がしていた。

 暫くしてドアが開き、また閉まる音。
 それから内側から鍵がかけられた音。
 続けて、足音、物騒な物音、何かを引きずり倒す音……。

  それらの物音に小坂は耳をふさぎたくなり、実際に両手で耳をふさいだのだが、やっぱり聞こえてくる。気にしないようにした所でどうしても気にしてしまうのは当たり前で、榎木が渡してきた水ではなく、やっぱりまた酒を飲み始めた。
 胃の底がムカつくが、吐き気も含めて無理矢理に呑み込もうとする。

 榎木は始末をつけにいったのだ。

 二階に閉じ込められているのは、おそらく榎木にとって容易に始末がつけられない人間の熟れの果て。

 人が死んでゾンビになるという事実と、ついさっきまで話していた発酵という現象に何か共通のものを一瞬感じたが、よくよく考えれば何も共通などしていない。
 とにかくそれを、実際にそれが誰であるのか、いまとなっては尚更に聞いても仕方ないのでもう聞くつもりはないが、そのどうにもならない臭いものに榎木は蓋をした。蓋をして、そのまま閉じ込めていたのだ。小坂が自分の実家のリビングに弟と父親を閉じ込めたままにしたのと同じように。

 始末がつかないなら、無理につけなくてもいいじゃないかと小坂は思う。どうせなるようにしかならないのだ。なって欲しくもない結果しか見えないなら、別に何もしなくてもいいんだと、榎木に言ってやればよかったんだ。いまになってから気がつく。

 二階では、さっきよりも一層激しい物音がする。
 男とも女とも分からない叫び声まで聞こえてくる。

「ゾンビって叫ぶんだっけ?」
 小坂は独り、つぶやいてみる。それに応える人間は誰もいない。

 まさか榎木は叫んだりはしないだろうなと思う。そんな場面をこれまで見たことがない。あいつが叫んだりするような状況は異常だ。あいつが自分で始末をつけようとしている、あいつにとって大切な誰かがゾンビになってあんな声を上げているとしたら、もちろんそれも異常だ。まるで地獄のようだと思う。

「どうしてこうなった?」
 誰にでもなく、また問いかける。応じる者などいないので、自分で考える。混濁しはじめた自分の意識と認識が、すでに確定された事実を述べる。

 全世界的に流行していた新型のコロナウィルスが、ある時点で劇的な変化を遂げた。感染して死んだ者の多くがゾンビとして蘇り、人を襲った。ゾンビに殺された人間はまたゾンビとなり、瞬く間に感染と被害は拡大して、世界は一変した。

「マジかよ、それは」
 自分で自分の回答に突っ込みを入れる。

 マジかよ? って改めて本当に、心から自分もそう思う。だってゾンビだぜ? ゾンビパンデミックが起こるなんて、まるで映画か漫画。それが現実化するなんて馬鹿げている……それにしても。

 こうやって考えていると、すべては自分が原因だという気もしてくる小坂だった。

 そもそも「ゾンビ」だ。
 
 大体のゾンビ映画において「ゾンビ」は存在しない。作中で日常生活を送っていた人々は「ゾンビ」という存在をそれまで知らない。突如現れて襲いかかってくるゾンビは未知の恐怖であり、だからこそ必死で逃げまとい、未曾有のパニックが起こる。つまり彼らの世界ではジョージ・A・ロメロがゾンビ映画の先駆けとなる三部作も撮っていないし、そこから派生して拡大した一連のゾンビ文化もない。そもそも「ゾンビ」という存在の概念がないのだ。

 その一方で、自分はたしかにゾンビという概念を以前から知っている。ということはつまり、この状況は自分の妄想が引き起こしたのではないかと考えられた。

 あるいは自分が何かのタイミングで世界線を超えて、フィクションを現実としている世界に移行してしまったのだ。そのようにも考えられる。
 
 フィクションであると自分が認識していた概念が現実化しているという事は、つまり自分を中心とした何らかの作用が働いている可能性が高いのではないか。あるいはメタフィクション的な、たとえば劇中で「ゾンビ」という概念や他作品にまではっきり言及するような、近年ではもう珍しくもないタイプのゾンビ作品の世界に自分が取り込まれたのかもしれない。そんな事まで小坂は考える。

 そして二階の物音は、いつの間にか止んでいた。

 あれだけ騒がしく気をもんだのだが、いまは嘘のように静かだった。すべてはなかった事のようにも思われる。

 榎木はどうしたのだろう?
 あいつは本当に二階に行ったのだろうか?
 目の前のウィスキーの瓶は空になった。 

 いよいよアルコールで脳を浸しきった小坂は、それ以上は何も考えられず動けもせず、その場に昏倒した。

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 目を覚ますと薄暗闇の中。なじみ深いコンクリの冷たい床、高い天井の梁がぼんやりと見えてくる。いつもの倉庫にまだ自分はいるので、この悪夢は簡単には覚めない性質のものらしいと小坂は悟る。

 床に転がっていたペットボトルの水を手に取り、一息に飲み干す。心許ない懐中電灯の明かりを頼りに倉庫の隅まで歩いて、そこで小便をした。そして新しいウィスキーを棚から取り出して封を切る。

「……なんだよ、まだ飲むのか?」

 いつの間にか、すぐ横に榎木がいて声をかけられた。

「戻ったのか?」
「……ああ」

「二階で一体、何があった? お前は何をした?」とは聞かずに「どうせなら高いの飲んでやろうかと思って、これにした」とライトの明かりでウィスキーのラベルを照らしてみせる小坂。
「山崎か。良いな。おれも貰おうか」普段と変わらぬ様子の榎木。
「じゃあ、改めて吞むか」
「そうしよう」

 キャンプ用のランタンに火を入れて、二人はまた酒を飲む。燃料の節約で小さく絞った明かりに照らされた榎木はすこし顔色が悪いようにも見えたが、とくに変わった様子もなさそうだった。

「この缶詰も、さすがに在庫切れが近い」
 榎木が鰊の甘い醤油漬けを箸でつつきながら言う。倉庫にあった食料も燃料も、何もかもが尽きていく。それも分かっていた事だ。しかし酒だけはまだまだ潤沢にある。

「あの炊き込みご飯とラーメン、美味かっただろ」小坂が聞けば「ああ、うまかったな」と榎木は答える。

 本当に聞くべきことは他にあるし、これからの事を話し合うべきなのだろうとは思う。しかしとにかく、いまは吞んでいるのだ。悲惨なパンデミック禍の中で、長年の友達と二人で酒を飲んでいる。せめて気楽な話を肴にしたかった。いまぐらいは、そうしていたかった。

「薬味を効かせたからな」と小坂。
「玉葱と生姜な」
「薬味は偉大だよ」

「……これなくなったら、つまみどうする」
「そうだなあ」
「何も食わずに飲むと、また悪酔いするぞ」
「やっぱ、あれかな」
「……足の親指の爪垢?」
「そう、珍味な」 
「自分のを食うか」
「まあ、お前のでも別にいいかな。どうせ死ぬほど酔ってから食うだろうし。何でもいいや」
「おれは、お前の食うのか……」
「そんな嫌な顔すんなよ。おれは気にしないんだから」
「ま、とりあえず飲むか」
「うん、飲もう」

 それから言葉通りに死ぬほど飲んで、後は覚えていない。酒に強い榎木も流石に酔ったようで、おかしな言動もあったような気はするが、きっと自分もそれ以上におかしな言動をしているのだから、後になって思い返しても、とくに小坂は気にしなかっただろう。

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 しかし夜明け近く、微睡みからふと目を覚ました小坂が目にした榎木は、はっきりと異様だった。

「よう小坂、やっと起きたか。まだ飲めるだろ?」
「……なんだよ、お前ずっと起きてたのか?」
「起きてたよ。お前がだらしなく寝てる間もずっと」
「どうした?」

 いつになく当たりが強い榎木に、小坂は戸惑わされる。切れ長の目がすっかり据わっているように見えた。自分が寝ている間も飲み続け、すっかり悪酔いしたのだろうか。榎木に限っては滅多にない事だったが。

「たまには、大勢で吞みたいよな」
「何言ってんだ?」
「マンネリもいいところだ。変化も必要だろ」

 榎木は立ち上がり、足早に倉庫の入り口まで歩いていって、ガラガラと一気にシャッターを押し上げた。

「おいエノ、何してんだよ、お前!」

 明け方の太陽の光が一気に差し込んでくる。
 それを後光のように背負って、ゆらゆらと揺れている人影が見える……数え切れない何体ものゾンビが、倉庫の中に次々と入ってきた。

「……皆、おれたちと吞みたがってるみたいだぜ!」

 見たこともない表情をした榎木が、聞いたことのない大声で叫んでみせ、すっかり感情が壊れたような笑い方をした。
 小坂の幼馴染みは、すでに人ではないように見えた。

 ……まるで画に描いたようなバッドエンドじゃないか。

 あまりに過酷な状況に榎木は狂ってキャラクター崩壊を起こし、この物語にも崩壊の結末をもたらす。
 
 おれはどこかの時点で選択を間違えた、あるいはするべき選択をしなかった……だからこうなった? 

 ともかくフラグ管理に失敗したのだと思われるが、ここからの巻き返しは可能だろうか? 自分に問いかけながらも尚、小坂はこの現実のフィクション性を追求しようと考える。

 そうやって何とか目の前の現実を否定しようとする意識の一方で、悪夢から目を覚ます為に悪夢の中で精一杯もがくように、小坂は無我夢中で身体を動かす。生き残る為には、そうせざるを得ない。

 わらわらと目の前に現れては次々に掴みかかってくるゾンビ共は、普段からこの辺りを彷徨く老人やヤンキーや主婦の連なり、それから踏切にいた変態中年男に、犬を食っていたあの老婆……。

 このまま自分が噛み殺されたら、それで目が覚めるのだろうか。しかし夢の中だとしても殺されたくはない。それは本能だった。だから必死で抗う。迫り来る死に恐怖して、それを拒否する。

 二階に続く階段を一体のゾンビが転げ落ちてきて「大丈夫?」と榎木がそれに駆け寄って助け起こすのが見えた。肩を貸している途中でその肩から首筋の辺りに思い切り喰らいつかれ肉が裂け赤黒い血飛沫を上げても「痛い痛い……おれの肉、そんなに美味い?」なんて、これまで小坂が聞いたことのない声色でその女ゾンビに囁いている榎木。

 何体ものゾンビに組み付かれては振り払い、渾身の力を込めて殴り、蹴り、投げ飛ばし、倉庫の閉鎖空間の中に強烈な腐敗臭と血の臭いや自分の体臭が立ちこめて混じり合い、もはや自分が人間なのかゾンビなのかも分からなくなっていた。
 
 それでも有象無象のゾンビ共の中に自分の父親と弟がいた事にはっきり気がついていた小坂の意識、それからもう救いようのない世界もゾンビも自分を裏切った親友も何もかも、やがて全てが遠のいて消えていくのだった。

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四.


 目を覚ますと薄明の中にいた。
 内側から板を打ち付けて塞がれた窓の隙間や、ほんの僅かに開かれたままの入り口のシャッターと床の間からも、やわらかい光が差し込んでくる。
 埃っぽい倉庫の内部が、ぼんやりとした明るさに包まれている。

 その光景と空気感から判断して、多分いまは明け方だろうと思う。
 あるいは黄昏時かもしれない。

 頭が重たく、ぼんやりとして判断がつかないが、とにもかくにも目に映る世界はやわらかく、いつになく優しいものに思えた。

「おいエノ、お前も起きろよ」
 起き上がった小坂は倉庫内をしばらく歩き回り、すぐ近くに榎木が倒れているのを見つけて声をかけた。うつ伏せに倒れ込んでいる榎木は、死んでいるように動かない。

「そろそろ起きろって、もう朝……いや夕方かもしれないけど」榎木のそばにかがみ込み、肩を掴んで揺り起こす。

 榎木のトレーナーの肩口がべっとりと濡れている。元から汚れきり、所々破れてもいたが、さらにそこに赤黒いシミがついている。

「なんだこれ、汚えな……」小坂は手をこすってぼやく。鼻先にその手を持ってきて、臭いを嗅いでみると「あれ、この臭い……」

 そこで榎木が、ビクリと身体を震わせ「うー……あ、あ、あ」と変なうめき声を上げた。

「あ、この缶詰か。これお前、もう最後だって言ってたのに、こんな食っちゃったのかよ」

「あーあ、しかもこんな汁残して服にまで付けて……もったいねえな」
 横たわる榎木の側に、空になった鰊の缶詰が三個ばかり転がっているのを見て小坂が咎める。それから自分の手の平でベタついている鰊のタレを舐めてみる。甘塩っぱい、濃い味がする。

「……昨日か? ちょっと飲み過ぎたな」ようやく目を覚ました榎木は上半身を起こして頭を軽く振り、
「さすがにちょっと気持ち悪い」と続けてぼやく。

「そうだな、飲み過ぎた」
「ああ、おれたちは明らかに飲み過ぎだ」
「何か変な夢も見たような」
「……ま、この現実も似たような惨状だけど」
「うげえ……こらヤバい」
 床に散らばるシケモクを拾って火を点け、一吸いした途端に胃の腑からこみ上げるものがあり、小坂は倉庫の隅まで走っていって、とうとう思い切りゲロを吐く。

「……しばらく吞んでばかりいたよな」と榎木。
「ああ。まいったな」
 小坂も応えるが、一度全部吐いてしまうと妙にすっきりして、気分は悪くなかった。それで榎木が食い残した鰊の缶詰の余りを食い始める。うまい。

「温泉行くか」
 右の太ももを手でさすりながら、ふいに榎木が言った。
「ああ、前にそんな話したな」
「蛇沼じゃなくて、袋山の方にしよう。距離は変わらないけど、そっちの方がルート的にいいはずだ」
「そうか。じゃあ車か」
「ああ。専務の軽トラなら、まだ多分、燃料入ってる」
「それ、どこに置いてある?」
「ここの裏の、ちょっと行ったとこの駐車場」
「じゃ、とりあえずそこまで辿り着けるか」
「ああ。運転くらいなら、まだ全然できる」榎木は右脚をポンと叩いて「温泉、お前も入りたいだろ?」

「……よし、温泉行くか」
 少し考えてから、小坂は覚悟を決めたように言う。
「温泉入れば、色々何とかなりそうな気がするんだ」
「おれも何となく、そう思う」

 思い出したように、頭も背中もかゆくなる。風呂に入りたい。小坂は缶の底に溜まった甘塩っぱい鰊の濃いタレを飲み干した。多分、これで最後の一缶だ。……うまい。

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「後ろからも来てるけど、あいつらは動き鈍いから、まあ大丈夫だろう。それより、あの畑で立ってる爺さんがヤバいと思う。……そこ迂回しよう」
「え、あれ案山子じゃないの? 爺さんなの?」
「そうだよ。すげえ元気な爺さんだったから、警戒した方がいいだろ」
「了解。そこ曲がるぞ。でも砂利道だから、ちょっと覚悟してくれ」

 酒屋の配送に使う業務用のバカでかい台車、そこに選び抜いた酒の在庫と水、それから細々とした必需品、そして榎木を積み、後ろから小坂が押して全力疾走。それが二人で考えた作戦だった。そのままゾンビ達を振り切って、駐車場まで行く。そこからは車に乗る手筈。

「ああああああ、すげえ揺れる。これヤバいな」
「我慢しろよ。おれのスタミナだって相当ヤバいんだよ」

 崩れ落ちそうな段ボール箱を押さえて、榎木が言う。欲張り過ぎたのかもしれない。台車が重い分だけ、小坂の体力の消耗も激しい。ビールや酒などの嗜好品は、もし他の生存者と出くわした場合に取引の材料として有効になると踏み、出来うる限り積み込んだのだった。

「ああ、くそやっぱり追いかけてきやがった」
「マジかよ。……うわ、あいつ走ってんじゃん」

 後ろを振り返り、榎木の視線を追った先には、案山子のような格好をした爺さんのゾンビが、たしかに走って二人を追いかけてきている。健脚のご老人、というよりは気合いの入った市民ランナーくらいの速度は十分あった。追いつかれるのも時間の問題だ。

「良くないなあ……」
「そりゃ良くねえよ」

 血走った目を狂気にギラつかせ、片側のひもが取れたマスクをプラプラさせながら頑丈そうな入れ歯をカチカチいわせている。それが視認できる距離まで迫ってきているのだ。 

「……そうだよな、走るゾンビだって、そりゃ出てくるよなあ」
 小坂はつい考えてしまう。高校時代の小坂が好きだった映画『トレインスポッティング』には、やたらと走るシーンが出てくる。そして監督のダニー・ボイルは『28日後…』というゾンビ映画も撮っていて、そこに出てくるゾンビ共も皆走るのだ。それも、人間というたがが外れたように老若男女問わず恐ろしい勢いで全力疾走。
 そこまで現実化するなんて、ほんとマジで勘弁してくれよと小坂は思う。
 
 まあしかし、そもそも「走るゾンビ」という存在も、ゾンビ文化史的にいえば……なんて現実から遊離した思考をまた展開しそうになっているタイミングで、

「よし、当たった!」
 榎木が快哉の声を上げる。
「え、何だ。……あ、いいじゃんそれ」

 榎木が箱から出したビールを案山子ゾンビに向けて投げたのだ。榎木は別に野球経験者でもなかったが、それにしてはコントロールもよく、面白いくらいにヒットする。

「くそ、当たってもよろけるくらいか」小坂が嘆息するが、榎木はただ黙々と、次々にビール缶を投げつける。
 そして何発目かが案山子ゾンビの頭部にクリーンヒットした。

 大きく開いた口蓋、入れ歯にちょうどはまり込むように缶が挟まり、ゾンビは仰向けに倒れて地面に頭を打って動かなくなった。
 穴が開いた缶から、噴水のように黄金色のしぶきが上がる。

「おお、すげえ!」
「野球やっとけば良かったかな」
「お前、吹奏楽部だったのにな」
「ああ」
「……しかしビールかなり投げたな。おかげで軽くなったけど、ちょっと勿体なくもある」
「まあな」
「……あ、何だよ。投げたの第三の奴とか発泡酒とかばっか」
「ちゃんとしたのは残してあるよ。当たり前だろ」
 本物のビールが詰まった段ボールをポンと叩いて、榎木が言った。
「流石のプロだな」と感心しながら、小坂はほんの少し軽くなった台車を押して走り出す。

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 燃料がまだ入っているはずの軽トラは、酒屋の倉庫からすぐ近くの駐車場にあるはずだった。だが道とゾンビの状況で、かなりの遠回りを強いられている。

 走るゾンビはあれから出てこないが、曲がり角などで不意打ちで出くわした際には、どうしても接近を許してしまう。そういった場合には、事前に準備しておいた武器を榎木が手に取る。モップの柄の先に、鋭く磨がれた包丁がくくりつけてある、小坂謹製のDIYウェポン壱号。

「……ああ、また刺し殺しちゃった」
「もう死んでるんだろ」
「まあ、そうだけど」
「何か一応、念仏みたいの唱えとくか」
「そうだな、そうしよう」

 そういうわけで、かなりいい加減な念仏を口のなかでモゴモゴ唱えながらゾンビの冥福を祈ると同時になぎ払い進んでいく酒屋の台車。

「何が『Go To』だよな。笑わせる」
「え、何?」
「いや、行きっぱなしで、帰れやしねえじゃんて」
「本当にそうだな」と榎木が声を上げて笑う。

 かつての政府の経済対策に毒づきながら、小坂は「行ったきりで帰れない」本当にそれが問題ではないかと考えている。

 このパンデミックの直前、まとまった休みを取り、政府のキャンペーンも多少は利用して、榎木と二人でキャンプ旅行を続けていたのだ。

 基本的に山の中でテントを張ったり車中泊をしたりして、人には殆ど会わなかった。風呂にもろくに入らなかった。だから帰り際に温泉に寄って行こうとしたのだ。しかし榎木に急な連絡が入り、温泉は止してまっすぐに地元に帰ってきたのだ。

「……で、こうなった」
「なるほどな」
「だから温泉入れば、何かもう大体全部が正しく修正されるような」
「理屈はよく分からんが、とにかくこの脚にも良さそうだし、とりあえず風呂には入らないと」
「まあ、だからとにかく温泉だ」小坂は再び力を振り絞って台車を押し、さらに加速をつける。

「この制服、おれらの後輩かな……」
 台車に乗った榎木が、民家の裏から飛び出してきたヤンキー中学生ゾンビの頭部を正確に狙い仕留めてから呟く。
「……おい、そんなのより、あれ」
「何だよ」
「あそこに生えてるの、葱じゃねえか? 長葱」
「マジか」

 さっと台車を離れ、小坂が走って民家の庭先まで確認しに行くと、まさしく長葱。何本かまとめて引き抜いて、台車に戻り、そこにドサッと放り込む。泥付きで新鮮。

「うわ、葱臭え」
「やったな! 葱! 薬味! 最高!」
「……ああやって土に差して長く保存してたんだろうな。生活の知恵だ」
「なるほど、頭が下がるな。大事に食おう」

 さあ、この葱で何を作ろうか。
 しかし何はともあれ温泉。
 温泉に入って、すべてをリセットする。

 この現実がまだ続くとしても、一回そこでリセット。熱い湯にすべてをふやかして、汚れを落として清潔な服に着替える。それからやっぱりビールでも飲んで一服しよう。それを小坂は強くイメージする。
 
 温泉の設備は荒れ果てていたとしても、きっと絶対、地面からは、地中の深くから、こんこんと湯は湧き出ているはずだ。
 魂と身体とゾンビと世界を洗い落として癒やし尽くす、熱い温泉が、ただそこに湧いている。

「……くそ、もう汗だくだ」
「もう少しだ、頑張ってくれ」

 そこにはあるいは生存者が集まっているかもしれない。生活には息抜きが必要だ。やっぱり酒が飲みたい奴だって、結構いるだろう。
 
 倉庫には鍵をかけてきた。
 さっき小坂が「パンデミック配送酒屋でもやるか?」と聞くと「悪くない考えだ」と榎木は応えた。酒の在庫はまだまだあるのだ。

「温泉、温泉」
「温泉、温泉、温泉」
「そうだ、温泉の事をとにかく考えとけ」
「ああ、分かってるよ。温泉、温泉、温泉、温泉……」

 シャッターを外から下ろし、台車を押して走り出すときに、榎木は二階の窓をじっと見ていた。黒い人影がゆらゆらと窓によぎったのを小坂ははっきりと見た。……それだって、何とかなる。

 何だって、何とかなるのだ。
 ただ温泉、温泉に浸かりさえすれば。
 ゴートゥー温泉。

 足の親指の爪垢はふやけて流れ落ち、もし食いたければすくい取って食えばいい。ちょっと酒粕ぽい。とりあえず見た目は似てるような。
 そんなイメージを榎木に伝えれば「相変わらず気色の悪い妄想だな……」とか、きっと呆れるだろう。まあ葱も手に入ったし、またおれがうまい(まともな)モノ作ってやるから晩飯はお楽しみに……と小坂は独り言ち、台車を押して走る。
 ゆるやかな下り坂に入って、台車はどんどん加速する。

 あと少し、もう少しで駐車場。
 ……ああ、もう見えてきた。
 そして車に乗り込めば、地元の温泉まではあっという間だ。
 
 あらゆる怪我や万病を癒やし、世界線の捻れと凝りも解消、あらかじめ失われた恋人を取り戻し、家庭内不和を解決して統合の失調も復調、死からよみがえり亡者と化したゾンビ共を更に蘇生させ、この世界と自分と友達を遍く救う……そんな奇跡を起こせるのは、

 温泉。
 ああ温泉。
 ただ温泉。
 おれは温泉に入りたい。

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