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『田舎はこんなもん』

集落を囲む山々の稜線に、細長い建物がへばりつくように建っている。その建物は尾根伝いに回廊のように長く延びて、集落の収まる盆地を縁取るように一周していた。一見すると万里の長城みたいな壮大さで、これはきっと重要な文化遺産だとか宗教的な建造物じゃないかと思われる。でも実際は、バブル末期に着工して一応は完成したが運営会社の倒産によって営業を開始する事もないままに朽ちていく、やたら長大なホテルの廃墟だった。

「もったいない……」
その廃虚を間近にして私が思わずつぶやくと、すこし先を歩いていたシンちゃんがこちらを振り返って「何がよ?」ときいてくる。
「いや、これは立派な観光資源だよ」と私はこたえる。

廃墟ブームなんてものが、ちょっと前から盛り上がっていたはずだ。
この村の乏しい財政状況、どこの地方でも変わらない住民の過疎や高齢化などの事情は私にも何となくうかがい知れるのだけど、たとえばこの廃墟の探索ツアーを組んだりするのに、そう大した予算も人員も必要ないだろう。それに、これだけの規模の廃墟だ。きっと愛好者の間ではすでに有名で、ネットにも何かしら情報が出ているに違いない。だから下地は充分だ。あとはそれを上手くリソースとして活用して集客、今後いかに利益化していくのか、そのためのルートを整備して……。

「はは、ならんよ、そんな観光なんて」
顔の前で大げさに手まで振って、シンちゃんが即座に否定する。
「そんな事ないよ。ほら私、前にそういう仕事もしてたから、ちょっとしたコネとかあるし」
「さすが発想が違うわ。なんやろう、すっかり東京モンやね」
「いや、ちょっと東京モンて……」

いまどきそんな言い方もないだろうと思ったけれど、この集落の環境を十数年ぶり、それも大人になって初めて体感している私は、時代錯誤にステレオタイプな「東京モン」というその決まり文句も、逆にそう間違ってはいないのかもと思い直す。それだけの隔たりが実際にあるような気もする。

「やっぱりなあ、物言いとか雰囲気、わしらとはもう全然違うわ。何やら、そこはかとない都会の空気が匂うてくる」

この村とそこに暮らす人たちのまとう空気は、たしかに都会のそれとはあまりにかけ離れていた。つい数週間前まで都内で暮らしていた私からすれば、いまどき本当に珍しいくらいの田舎だった。山奥にできた盆地、下界からも時代からも隔絶されているような、隠れ里のような土地柄。こうして集落からほんの少し山に分け入れば、人よりも虫や獣の気配の方が圧倒的に強く感じられた。

「サッチンも、すっかりアーバンな女子になりよってなあ。むかしは立派な山猿やったのにのう」
「……ちょっとそれ、わざと言うとるやろ」
それにしたって大げさなシンちゃんの言い草に思わず言い返した私に、いつの間にか土地の訛りがうつっている。

「ははは、すまんすまん。許してな」
屈託のない笑顔でシンちゃんが謝る。こういう所は、やっぱり子供の頃と変わっていないんだなと思う。

私が中学に上がる頃に両親が離婚して以来、父の郷里であるこの村を訪れた事はなかった。だから長い間ずっと会っていなかったシンちゃんは、当然すっかり大人の男になっていた。でもこうして二人きりで話をしていると、子供時代に親しんだあのシンちゃんの姿に重なって見えてくるのが不思議だった。

あの頃は、父方の親戚にあたるシンちゃんシンちゃんの同級生たち、それからシンちゃんの弟——集落の子供たち皆と一緒になって村中を駆け回り、一日中いつまでも、本当によく遊んだものだ。季節毎の休みには必ず訪れ、春夏秋冬で彩りを大きく変えるこの山村の景色、そしてシンちゃんたちと過ごす時間を、子供時代の私は本当に楽しみにしていた。

「ほれ、こっから上れんで」
外壁に付いた非常階段を上り、私たちは廃虚ホテルの屋上に出た。そこはちょっとした空中庭園のようになっていた。
「わー、村があんな小っちゃい」
「まあ、元からちっさな集落やけ」
ホテルの建物自体は高い部分でも三階止まり、でも建っている場所がそもそも尾根の上だから、文句なく見晴らしはいい。

「もう夏も終わりかけやね」
「そうだね」
すこし汗ばんだ肌をなでる風が涼しく、何とも心地よい。
「……ああ、やっぱり空気、おいしいや」
「そら、ド田舎やもん。都会は空気が汚うて、鼻毛がえろう伸びるらしいね」
「あーもう、またそういう」
「サッチンもさぞや鼻毛伸びとろう? わしが抜いちゃろうか」
「いらん事ばっか言うの、子供の頃と変わっとらんね!」

深々と息を吸えば土や植物の色濃い匂いが鼻孔に広がり、夏山の空気で私の両肺が満たされる。取り込まれた酸素が、血液にのって私の全身に行き渡る。それにリンクするように、遠い幻のようだった記憶がゆっくりとよみがえっていく。自分の現実が、いまここでリアルタイム更新されていくような感覚。この村を忘れて都会で過ごした歳月、そちらの方がむしろ幻だったのだと、そんな気さえしてくるのだ。


□□←◆


「サッチン、大丈夫やったか? ケガなんかしとらんよな」
シンちゃんが慌てた様子で私に駆け寄って声をかけてくる。
「……うん、それは大丈夫。でも、何だったの、あれ?」

そろそろ引き上げようかという所で、これまで見た事ないくらい大きな鳥が飛んで来て襲いかかってきたのだ。その鳥は手にしていたスマホを咥えて奪い、一瞬のうちに飛び去っていった。ちょうど辺りの景色を写真に撮ろうとしていたタイミングで、とにかく私は驚いてしまった。

「ああ、あれ、やたらデカい鳥な。きっと街にはおらんのやろうね」
「本当に鳥なの? あんなの見た事ないよ」
「いやー、鳥は鳥よ。……こかくちょう。むかし来てたとき、サッチンも遭うてなかった?」
「いや、はじめて見たよ、あんな鳥……」
「ここらでは、よう見るんやけどね」
「……私のスマホ、持ってかれちゃった」
「じゃあ、取り戻しいくかね」
そう言ってシンちゃんは非常階段を足早に降りて、階段の脇にあった小さいドアを乱暴に蹴って開けた。この廃墟の奥に、さっきの鳥が巣をつくっているのだという。

「でもさ、そろそろ日も落ちてくるし」
「やけど、困るやろ? こんな山奥の村で、頼みの文明の利器なくしてよ。なあに、すぐよ、すぐ。サッといって取り返して、サッと引き上げたら余裕よ。こんなん、わしらの庭みたいとこじゃ

いまの私の状況でスマホをなくすのは、たしかに色々と面倒だった。それにシンちゃんの様子があまりに自信たっぷりで、昔よくやった探検ごっこや肝だめしを思い出した。あの頃と同じように、何かの隊長とかリーダーみたいに私を引っ張っていこうとするシンちゃんが、いかにも頼りがいあるようにも、それからちょっと可愛らしくも思えた。だからつい、私はその誘いにのってしまったのだ。

そうやって私たちは、その廃墟の中に足を踏み入れた。


廃墟ぽい


あまり横幅がなく、狭い廊下を進んでいく。両側の壁には窓が沢山ついているけれど、その半分くらいは板が打ち付けてあったり、窓ガラス自体もくすんだり煤けたりで汚れているものだから、建物の中は全体的に薄暗い。

「よしよし、文明の利器な。わしも一応持っとるで」
シンちゃんはそういって自分のスマホを取り出して、ライトを点けて足元を照らす。横倒しになった家具や調度品、崩れかけた壁や天井の資材などで足元が結構危ない。「ほら、そこ気をつけえ。釘出とらんか」なんて、私の三歩くらい先を進むシンちゃんが細かく注意を促す。これじゃ本当に昔の探検ごっこそのままだ。

「でもシンちゃん、あの鳥、本当にこんな所に巣作っとるの?」
「ああ、屋根もあって雨風しのげて人もおらん。あいつからしたら、安心安全の子育て環境やろ」
「え、あの鳥、子育て中なの?」
「ああ、多分やけど」
「へー、そうなんだ」

元がホテルとして造られた建物だから、客室エリアに入ると通路の両側に客室のドアが並んでいる。そのドアを開けたら当然そこには客室があるんだろうけど、いちいちそれを確認したりはせず、シンちゃんはどんどん先に進んでいく。

それにしても勿体ないなあと、建物の中を歩いて改めて思う。
ちゃんとホテルとして営業していたら、ロケーションも建築物も独特で他に似た所もないだろうし、結構評判になったんじゃないだろうか。こうして廃墟になってしまったいまだって、やっぱり廃墟巡りとか、そんなwebサイトとか写真集にも取り上げられて、一躍人気スポットにもなりそうな雰囲気だ。……よし。無事にスマホが戻ってきたら、まずは情報収集。それに改めて自分でも写真や動画を撮りにきてもいいかも。この廃墟をウリにした村おこし、やっぱり私はいけると思うのだ。

「きゃっ!」
思わず女子ぽい声を出して、シンちゃんの腕に飛びついてしまった。すぐ横の客室のドアの向こうで、ガタッと何かが大きい音を立てた。
「……まあ、ケダモンか何かじゃろ」
「まさか誰か住んでる……わけじゃないよね?」
こういう場所にはホームレスや犯罪者がよく住み着いていて、散策中に出くわす場合も多い。そんな話も聞いた事がある。ここは部屋数も多いし、そんな人たちが大勢で共同生活してたり……。
「うーん、人はおらんはずよ
「じゃあ、やっぱ狸とか猪とか? それか熊とか?」
「や、ここらの山、熊はおらんよ」
「ああ、それは良かった」
「……あー、あれかも」
「あれって?」
鬼マグマ人間
「……え、鬼? マグマ? 人間?」
「ええ? ちょっとサッチン、これも忘れとるのかよ」

シンちゃんの説明を途中まで聞いて、やっと思い出した。
鬼マグマ人間。それは子供の頃に私たちがよく噂していた怪人だった。鬼マグマ人間は、身体がマグマみたいに燃えさかっていて、とにかく全身ドロドロして赤い。それで意味もなくそこらを走り回って叫び声を上げたり「ヒヒヒヒヒヒヒ……」とか気味悪く笑ったりもするのだけど、これは口元が焼け爛れたせいで勝手にこんな声が漏れているだけで、本当は笑っているわけではない。たしかそんな設定だったはず。

「あー、そうだった。鬼マグマ人間、あれ怖かったよね」
「まあ、わしもさっきまで忘れとったが」
「なーんだ」
「あいつの本拠地、たしかここやったろ」

集落の周りをぐるりと囲んでいる山を見上げると、いま私たちがいるこの廃墟が稜線に見える。夜になると、赤く燃える火のようなものがチラチラそこをよぎる事があった。それは鬼マグマ人間で、この廃墟をグルグル何周も走り回っているのだ。「ヒヒヒヒヒ」なんて燃えさかり、不気味に笑いながら……。子供の頃に空想して怖くて夜眠れなくなった、そのイメージが急によみがえってくる。

「じゃけ、ここにも探検に来たやろ」
「え、それ私も一緒に?」
「おぼえとらんの? 一度きりやのうて、何回か来たじゃろうが」
「えー、それは思い出せん」
「……サッチン、本当に何でも忘れとるな」

でもそうやって言われてみたら、やっぱり以前来た事があるような気もしてくる。そうやって二人で話しながら歩いているうちに客室フロアを抜けて、エントランスみたいな広い場所に出た。三階まで吹き抜けになっていて天窓まであり、これまで歩いてきた所より大分明るい。割れたガラス窓から、外の光が差し込んでいる。全体的に埃っぽく、とても静かな空間だ。こんな場所で、シンちゃんたちと鬼ごっこや隠れん坊なんかして遊んでいたような、そんな覚えもたしかにある。

「……あ、キヨシ? そうだ、キヨシ君だ!」
「うん?」
「キヨシ君、元気にしてる?」
「誰や、それは」
「キヨシ君だよ、シンちゃんの弟の!」
「……わしに弟なんぞおらん」
「またまたー。そういえば、こっち来てから、まだ会ってないね」
「だから知らんて、そんなやつ」
「えー、だって」
「キヨシって、あいつの事じゃったら……」
「もしかして、村から出ちゃったとか?」

シンちゃんの態度が急に固くなった気がして、私はその話題をすぐに切り上げた。何か事情があるのかもしれない。もう大人になった私には、それなりの事情がある。シンちゃんの家にだって、そういう事情があっても何もおかしくない。

……でも、懐かしい。
いつもおマメだった、あのキヨシ君。

「おマメ」っていうのは鬼ごっことか隠れん坊とか子供の遊びの中で、要するに遊びの輪の中にはいるけど鬼になったりはしないってポジションだ。キヨシ君は私たちより多分五つか六つくらい年下で、まだ小さくて足取りも危なっかしくて、それでも私たちの後ろをいつも付いてきた。「お前はマメな!」ってみんなに言われて、実際半分くらいは無視されたり、とにかく雑に扱われてた気がするけど、それでも本人は楽しそうにしていた。

あの小さいキヨシ君を思い出して、私はつい一人で笑ってしまう。そんな私をシンちゃんがチラリと見て、憮然とした表情で先に歩いていく。キヨシ君、いまどうしているんだろう。すごく気になるけど、ちょっとシンちゃんには訊きづらい雰囲気だ。

「……ああ、おった。やっぱり、ここにおるんやな
「え、何が?」
建物と建物の継ぎ目のような渡り廊下を歩いていると、シンちゃんが不意に言い出した。その視線は、ちょうど山の反対側の建物の窓に注がれている。でも私には何も見えない。

「鬼マグマ人間、あっち走っていきよった」
「うそ、ちょっと止めてよ」
赤々と燃える鬼マグマ人間がそこを走っているのをたしかに見たと、頑なにシンちゃんは言い張る。いつの間にか日はかなり傾いて、辺りはもう暗くなりはじめていた。だからそんな冗談、いまはちょっと勘弁して欲しい。何だか怖い気分にもなってくる。

「ねえ、今日はもう引き上げない? スマホはとりあえず諦めるし」
「いや、もうすぐじゃけ、あん鳥の巣」
「おじさんたちも心配するよ」
「サッチン、何言うとるの。いまだに独りもんやけど、わし立派なオッサンやで。親父に心配されるとか、そんな年じゃないわい」

シンちゃんと私は同級生で、だから私から見たらオッサンでもないのだけれど、たしかにもう私たちはそんな年齢じゃない。それでも一緒に暮らしている家族は心配するだろうなと思う。シンちゃんの実家が、私にはずっとうらやましかった。シンちゃんの家には子供の頃からお母さんがいない。でもおじいちゃんおばあちゃんも元気で一緒に暮らしていたし、おじさんもシンちゃんもキヨシ君も基本的に明るい性格で、いつも楽しそうで賑やかなイメージがある。

「ああ、おった!」
「だから止めてよ。いないから、鬼マグマ人間なんて」
「ちがうちがう、こかくちょう! ほれ、見てみい。あっちの窓の下辺りに隠れとる。あそこが巣じゃ」
シンちゃんが指差したのは、すぐ先に見える建物だ。あまり目が良くない私には、そこに何がいるのか分からなかったけど。


□□→◆+■


「ギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャ!」

その鳥は、すさまじい声で啼いた。
「……おお!?」
それは一瞬の事だった。巣になっているという建物にシンちゃんが足を踏み入れた途端、鳥はいきなり襲いかかってきた。

「なんじゃ、どうしたこいつ、頭いかれとるんか!?」
飛びかかってきた鳥の大きな爪を片腕で受け止めたシンちゃんは「……ちくしょう、こん糞鳥が!」と罵り声を上げ、廃墟の壁にその鳥を押しつけて殴りつけたり、自分の身体ごと振り回して地面に叩きつける。それでも鳥は離れない。シンちゃんに殴られたり、叩きつけられる度に「疑夜偽家戯也疑夜偽家戯也」鳥はまた叫ぶように啼いた。それは女の人が怒り、泣き叫んでいるような声にも聞こえた。
「いかんな、こらどうにもならん。……やるしかなそうじゃ」
そう言ってシンちゃんは自分の腰元に片手を伸ばす。そこに差してあった山仕事用らしい大きな鉈を掴んで……。

「疑夜偽家戯也疑夜偽家戯也……!」

首を落とされて事切れる、その最期の瞬間まで鳥は啼いていた。
その声は私の耳の奥でしばらくずっと響いた。

そうやって鳥を殺してしまってから、シンちゃんはその場にしゃがみ込んで、しばらく動かなかった。私が声をかけても無言で、ただ片手を軽く上げて「大丈夫」という合図だけ出して荒い息を吐く。

そうしているうちに、すっかり日が暮れてしまった。

「……ああ、糞」と気合いを入れて、シンちゃんはようやく立ち上がり、建物の中に入っていく。私もそれに続いた。シンちゃんはその辺に転がっていた木製の家具や何かを拾い集め、鉈を使ってそれを細かくバラしていく。暗くてよくは見えなかったけれど、シンちゃんが振るうその鉈には、赤黒い鳥の血がべっとり付いていた。

「あ、私もライター持ってる」
「じゃあそっち借りるわ、すまん」
家具や調度品をバラした木材と、ちょうど落ちていた古い雑誌も一緒に焚きつけて、建物の真ん中辺りに大きな焚き火を起こした。いまから山を下りるには、さすがにちょっと遅くなり過ぎていた。

「スマホ、やっぱり巣の中にあったで」
「ありがと。……ああ、でも壊れちゃってるみたい。画面割れてるし、電源も入らないや」
「わしのも、さっきのでイカれたぽいわ。もう動かん」
そう言ってシンちゃんは自分のスマホを苛立たしげに床に放った。何だか乱暴で、私が知ってるシンちゃんでないように思えた。さっきの興奮や気持ちの動揺が、まだ冷めきらないのかもしれない。

「ねえ、あの鳥は母親なんでしょ。そしたら、どこかに雛とか」
「ああ、そんなもんおらんよ。あん糞鳥、すっかりイカれてたらしいわ。……ほれ」
ドサッと焚き火の横にシンちゃんが投げ出したのは、ボロボロになった子供のマネキン人形だった。大体五歳か六歳くらい、ちょうど小学校に上がる位の大きさに見える。
「どこぞでこれさらって、本物のガキじゃあ思っとったんかな。わざわざ巣の中に寝せてたわ」
「……さらうって、あの鳥そんな事するの」
「まあ、こかくちょうじゃけ。人の子供さらいよる……まあ、そんな言い伝えはあるわな。そんで、サッチンのスマホ、その人形の横に放ってた」
「何でだろう……」
「何でかは知らん」
「そんな鳥、やっぱり聞いた事ない」
「東京にはおらんだろう」
「……ああ、でも」
「でも、どうした?」
「いまの子供って、スマホとかタブレット、すごく好きなんだよ」
「……なるほど、そんな時代やろな」
自分の現実だったものがよみがえり迫ってくるような気がして、私は急に胸が苦しくなる。子供、スマホ、さらう、私の……。

「なあ、腹はへらんか」
「ううん、私は大丈夫」

建物の隅には、あの鳥の巣があった。異様に大きい鳥だから、やっぱり巣も大きい。人も眠れるような鳥の寝床。あの鳥は、そこに寝かせた子供にスマホを与えたつもりだったのだろうか。自分の子供がいつまでも私のスマホを弄って遊んでいるものだから、ついきつく叱って取り上げた事を思い出す。壊れたこのスマホのデータは、基本的にはクラウド保存されているはずけど、そこから漏れているものもありそうだ。いまとなっては貴重な想い出の写真や動画だってある。何とかデータをそのまま取り出せないだろうか。あとは近々で必要な連絡先のアドレスは……。

「……ちょっとシンちゃん、それ何やってるの!?」
不意に驚いて、思わず大きな声を上げてしまった。焚き火の側に胡坐をかいたシンちゃんが、あの鳥の死骸から毛をむしっていた。
「何って、焼いて食う前に毛ぇむしっとる」
「ウソでしょ? こんな鳥、食べるなんて」
「猟の獲物も、絞めたトリもみんな食う。自分で殺したら、それを食うんは当たり前じゃ。でないと山の神サンに」

翼を広げれば小柄な女の人くらいはあるだろう鳥の死骸。シンちゃんはその身から無遠慮な手つきで羽毛をむしり取る。鳥が動かないように胴体を押さえつけている左腕には私の持っていたハンカチが巻かれて、そこに大きく血が滲んでいる。毛をむしり取る手はゴツゴツして節くれ立ち、赤黒く乾いた血で汚れている。それがこの鳥の血なのか、鋭い鳥の爪に傷つけられたシンちゃんが流したものなのかは分からない。
焚き火に照らされたシンちゃんの横顔が何だか怖く見える。

「ねえ、やっぱりこんなの、食べない方がいい。やめようよ。それ、何か鳥じゃなく見えるし。とにかく残酷で、気持ち悪いよ」
そこでようやく手を止めたシンちゃんが、私をじっと見てくる。変に無表情で、最初から全然知らない男の人のような顔に思えた。
「都会の女いうより、なんや雌になりよったな」
「え?」
知らない男の顔をしているシンちゃんが、知らない女を見る様な目を私に向けて言う。「もうすっかり年増の、えげつない雌の臭いするわ。……こん鳥と同じよう、毛ェむしって、手込めにして、焼いて食っちゃろうか」
「……ねえ、何言ってるの?」
「都会と違うわ」
「シンちゃん、いま変だよ。ちょっと落ち着いて」
「ここは田舎やけ、こんなもんじゃ」
シンちゃんが立ち上がって、こっちに近づいてくる。私が思わず身を固く縮めたとき、遠くの方から気味の悪い叫び声がきこえた。

「ボボボボボボボボボボボボボボボボボ……!」

こかくちょうのあの啼き声とはまた違う、不明瞭で不自然な叫び。でも何故か。これは鳥ではなく人間、あるいは人間に近いものによる叫びなのだと私は直感する。

「あいつ、ここに来よるな……」
シンちゃんも何かを察したらしく、焚き火を崩して消す。シンちゃんが手に持った薪の先端が燃えて、そこだけが明るい。もう一方の手には鉈を掴んでいた。

「あいつは多分、わしを狙っとる。巻き添えならんよう、なるべくこっちに引きつけるで、そこいらに隠れて一旦やり過ごすんじゃ。そん後で、また合流すりゃええ」

詳しい説明を聞く間もなく、シンちゃんは一人で建物の階段を上がってしまった。辺りは途端に真っ暗になった。手にした鉈で手すりや壁をガンガン叩いて鳴らし「わしは、ここやぞ!」と大声を出して、シンちゃんは先に進んでいった。そうした声や物音も、次第に遠ざかって消えていく。

それから完全な静寂と濃い闇に包まれた。背中にかいた汗がじっとりと肌着を貼りつかせて冷えた。自分の呼吸する音がすぐ耳元で聞こえる。その呼吸音をかき消すように、不気味な笑い声がだんだん近づいてくる。「緋火被悲比否非緋火被悲比否非……!」思っていた通り、それは鬼マグマ人間だ。狂人の笑い声のようなものを漏らしながら、そいつはこの建物に走り込んできた。私は階段のすぐ横の物陰で必死に息を殺し、じっと動かず隠れている。
「緋、火被悲比否非……?」
ちょうど私たちが焚き火をしていた辺りで、そいつは立ち止まった。多分だけど、あの鳥の死骸を見つけたのだろう。

「母、慕墓、亡母慕墓亡母慕墓亡母慕墓亡……!」

さっき遠くで聞こえた叫び声も、やっぱりこいつのものだった。何かに激しく怒り、また悲しんでもいるような不吉で耳障りな咆哮、それが今度はこの建物中に響きわたる。物陰から恐る恐るのぞき込んで目にしたそれは、子供の頃に私がイメージした鬼マグマ人間そのものだ。赤黒いマグマに覆われた全身が、暗闇で燃えさかっている。ギョロリと剥かれた目が虚空を睨みつけ、ひきつれた口元からは気味の悪い笑い声が洩れ出して……。

「……緋火被悲比否非緋火被悲比否非……」
それからそいつは私のすぐ近くにある階段を上って、そのまま遠ざかっていった。やっぱり、こいつはシンちゃんを追っているのだろう。



闇の中で手探りに、ただひたすら先に進む。そうするしかなかった。緩やかにカーブしていく長い廊下は、どこまでも果てしなく続くように思えた。実際この廃墟ホテルは山の尾根沿いに一周しているのだから本当に果てしなく、最初から終わりも始まりもないのかもしれない。

すこし先でまた合流しようと言ったシンちゃんは無事だろうか。最初に入った非常口まで一周してしまえば、自分一人でも逃げ出せそうな気はする。でもとにかくここは暗い。窓がすくなくて月明かりも微かにしか入らない。その暗闇にもようやく慣れてはきたけれど。

足元には何だかよく分からない物が転がっている。ときどきそれに足を引っかけて転びそうになった。やっぱり手元に灯りが欲しい。スマホは完全に壊れてしまって、電源が入らないからライトも付かない。懐中電灯でも持ってくれば良かった。

そこで私は、ようやく思い出す。
……やっぱり、ここには何度か来た事があるのだ。シンちゃんの言った通りだった。

多分、肝だめしか探検ごっこで来たのだろう。そのときは懐中電灯をちゃんと用意してきた憶えがある。あの懐中電灯、どうしたんだっけ。ここに置き忘れて、そのまま落ちていたりしたら、いますごく助かるんだけど。でも普通に考えて、隊長でリーダーのシンちゃんが持っていたんだと思う。そしたらちゃんと持って帰ってるよな、絶対。あれでシンちゃん、意外にしっかりしてるから。……ああ、でも何となく違ったような……あのときも、こうやって鬼マグマ人間に追われて? ……いや、キヨシか。そうだ、キヨシ君も一緒だったんだ。いつもみたいに私たちの後ろをついてきて「ボクがやる」とか散々駄々こねて、それで……。

駄目だ。
どうもそこから思い出せない。

とにかく疲れた。もう全部よく分からない。このままここで私は死んでしまうのだろうか。あの鬼マグマ人間とか、それかまた別の怪物に殺されちゃうのかな? あの鳥みたく毛をむしられて、焼かれて、最後には美味しく食べられる? ……ああ、いやだなあ。こんな所、来なければ良かったのに。

「……キヨシにも気をつけえよ。あいつも、あんときから、ずっとここにおるんじゃ」
そういえば、さっきシンちゃんが言っていた気がする。……キヨシ君に気をつけろ? それって一体、どういう事なんだろう。


□□→●


長い廊下が一旦終わって、二階までの吹き抜けになっている広いホールのような場所に出た。

明かり取りの窓も多いので、その分だけぼんやりだが明るい。きっと団体の宿泊者用の食堂とか、催し物の会場としても使われる予定だった場所なんだと思う。ひどく疲れていた私は、大きなテーブルの端っこの席に腰掛ける。ずっと使われずに放置されていた木の椅子がギシギシと軋んだ。

「……チン……ねえ、サッ……でしょ?」
そこで小さな囁きが聞こえた。
「ッチン……やっぱりサッチン……だ!」
その声が、自分に呼びかけているのだと私には分かる。
「もしかして、キヨシ君? いま、近くにいるの?」
私はテーブルの下をのぞき込む。
「ああ、やっぱり」
……いた。
そこに、キヨシ君がいた。

「ボク、ここにずっとおった。あれから、ずっと」
私が見つけたのは、あの頃とまったく変わらない、小さな子供のままのキヨシ君だった。

「ねえ、そこから出ておいでよ。もう怖くないから」
そうやって私が何度も呼びかけても、キヨシ君はテーブルの下から出てこない。自分の膝を両手でぎゅっと抱え、その膝の間に頭をうずめて下を向いている。「なんでやの? なんでボクだけ、ここにおいて」なんてメソメソして、そこから動こうとしない。本当にあの頃のままなんだなと思う。それでつい私もあの頃の自分に戻ったみたいで、声を大きく張り上げる。
「いじけてないで、早く出てきなさい!」
……それでもやっぱりキヨシは出てこない。だから自分もテーブルの下にもぐりこんで、そこから無理やり引っ張り出してやる事にした。私の方はすっかり大人の身体になっているから、子供のままのキヨシは人形みたいに小さくて軽い。

「……サッチンは、ひとでなしじゃ
やっと出てきたキヨシが、恨めしそうに言う。何だよ「人でなし」って。久しぶりに会ってもキヨシはやっぱりガキンチョで、そのくせ生意気だ。昔みたいに思わず小突いてやりたくなる。
「ねえ、ボクのにいちゃんは? いっしょじゃないの?」
「シンちゃんは、どっか先に行っちゃった……。ほら、あの真っ赤な奴が追いかけてきて」
「おにマグマにんげん!」
「そう、そいつ」
「あいつも、ずっとここらにおった! ボクおそろしくて、だからここでじっとして」
「一人で隠れてたの? 自分だけ子供のままで」
「だって、だって」
「……あのさ、これってどういう状況なの? ここに来てから意味分かんない事ばっかりなんだけど。あんた、何か知ってる?」
「ぜんぶ、サッチンがわるいんじゃ。ボクまだちいさくてよわいのに、ひとりで、ここおいてかれて……。それだってみんな、ぜんぶじぶんだけわすれて」

そうやってキヨシがまたいじけたようにベソをかき出すものだから「そんなんいいから、分かるように説明して!」思わず私はその肩をつかみ、乱暴に揺さぶった。そうすると異様に頭でっかちなキヨシの首がガクガク上下に動く。その頭の動きが、ちょっと変だなとは思った。思った瞬間にカチッと何かのスイッチが入ったような音がした。

「わ、まぶしい!」
一瞬で目が眩んだ。強い光をいきなり目に向けられたようだった。
「……もしかして懐中電灯?」
「うん! ボクえらい?
目をつむったままキヨシに訊く。やっぱり、あのとき懐中電灯はキヨシがそのままずっと持っていたのだ。
「……なくさなかったのは偉いけど、いきなり人の顔に向けたら」
文句を言いながら目を開いた私は、すぐ目の前にいるキヨシの姿をようやくはっきりと見た。それで、何も言えなくなってしまった。

「ほらサッチン、みてよ」
子供のままの身体のキヨシの頭だけが、馬鹿みたいに大きな懐中電灯になっていた。「ボクすごい?」とキヨシが自分の頭の後ろの電源スイッチをカチカチ押すと、キヨシの顔面に相当する部分がピカピカと明滅した。「もっとちゃんとみて」って顔を近づけてきたり、さらに下からのぞき込むようにしてきたりして、ほんと眩しい。

「……ねえ、本当にやめてよ」
あまりに眩しくて、私は思わず目をギュッとつむる。そうして次に目を開けたときには、いつの間にか私は椅子に座らされていて、すっかり立派な懐中電灯人間になっていたキヨシが、私をそこで尋問するようにいたぶり始めたのだった。

「サッチン、どうも君はボクをフリークスとか怪人とか異形とか怪異なんて、とにかくそういうものに貶めて認識したいらしいけど、ボクから言わせてもらえば、君の方がよっぽどおかしいよ。だってさ、君こそが人でなしだろう」

頭部の光源をさらに強くして、キヨシは私にその顔を近づける。「……ああ眩しい」と思った次の瞬間、キヨシがスイッチを切って光は消えて再び暗闇。「……ああ今度は何も見えない」と思った所で、またもカチッというスイッチの音がして、それからキヨシが私を真っ直ぐに見つめるものだから、やっぱり私の目は光に眩む。そうやって眩しい、真っ暗、眩しい、真っ暗……繰り返される明滅の中で、どっちにしろ私は何も見えていないのだと思い知らされていく。

「そう、ボクは実の兄や君たちに置き去りにされた小さいおマメのキヨシの成れの果て……哀れなキヨシは、この廃墟に潜んでいたマッドサイエンティストに人体実験されてしまった。たしかに、そうした可能性は否定できない。いわゆる改造人間、そこら辺をまだ走り回っている鬼マグマ人間と同類の、怪奇・懐中電灯男。もし本当にそうだとしても、つまりそれは君やお兄ちゃんたちのせいだよね。……この人でなしどもめ

不自然に大人びた口調で私に語りかけるキヨシ。……いや、語る? しゃべる? おかしいよね。だってキヨシの頭は馬鹿みたいに大きい懐中電灯になっていて、見た限り口なんかどこにも見当たらない。じゃあ一体どこから声を出してるのかな? そんな事を考えはじめる。

「ほら、そうやってすぐに現実から目を背けて逃げようとする。もっとちゃんとボクを見てよ。つらくても、しっかり向き合ってよ。……ああもう、やっぱり全部君が悪いじゃないか。君自身が子供のままで大人になれないんだから、君に子育てなんて無理だったんだよ。始めから、そうに決まってた。だから君は人でなしなんだよ」

この変に気取ったキヨシの口調や声が、数ヶ月前から離婚調停中の夫のそれと重なっている事に私は気がついていた。でも気がついた所で、こうやって一方的に糾弾されている私は動けない、上手く反論も出来ない。あの日と同じように、ただ私は黙ってそれを聞いているしかなかった。

「心にやましい所があるから、そうやって黙るしかないんだろう。この人でなしめ」

私の夫みたいなキヨシが私を睨みつける度に眩しくて怖くて私は目をつむる。でもそれを彼は決して許さない。

「ちゃんとボクを見て。(逃げるなよ)どうして置き去りにしたの?(そうだ、あんな子供を)一人で置き去りにされて、どれだけ怖かったか。(いまでも「ママ、どうして帰ってこなかったの」って泣いてるんだ)この廃墟は山の稜線をぐるりと一周している円環だよ。(君の言い分は、まったく信じられないな)途中で落としたりなくしたものとは、次の周回で必ずまた出会うんだ。(ボクが育てるよ、もちろん)ねえ知ってた?(君のような女に親権なんか渡せるわけがない)だからこれは必然なんだ。(弁護士は手配済みだから)ボクたちは、あの日からずっとここで鬼ごっこだの隠れん坊だの肝だめしを続けてる、それだけの話かもよ。(異議があるなら、また裁判で争う事になるね)でもだからって、なんでボクを置いてった?(どうせ他に男でもいるんだろう?)ずっと小さいおマメで足手まといだから?(君はボクと子供の両方を裏切った)ただ一緒に遊んで欲しかっただけなのに。(皆言ってる「母親失格」だって)ねえ、どうして、どうして……」

「母、慕墓、亡母慕墓、亡母慕墓亡母慕墓亡……」
私の口から、あのおぞましい呻き声が勝手に漏れ出している。

……ああ、もう意味が分からないよ。でも始めから意味なんてないのか。本質的に私は無意味で無価値。「知ってる」その場によって都合のいい役割とか解釈で自分や他人を誤魔化してきただけ。「実際ただのビッチ」だから存在自体が罪なのかもしれない。「ねえ、いつからそうなった?」ああ、もうこれで、そろそろいまの「私」の精神は限界だ。「母、慕墓亡母慕墓亡母慕墓亡母慕墓亡……」もうすぐ私は「私」でなくなる。でもそれでいい。それがいい。もう耐えられないし。「でもやっぱり男は欲しい?」ああこんな「私」はすぐに消えて欲しい。消えたい。すぐにでも。もう待てないよ。さあ、早くして。……いますぐにきて!

ちょうどそうやって、自分がこの「私」をすっかり手放そうとしたタイミングだった。

「こらキヨシ! あんま喚くな、うっさいんじゃ! もっと、男らしゅう……せえや!!」

突然現れたシンちゃんが雄叫びをあげて、ホールの二階部分から勢いをつけて大きく飛ぶ。落下しながら両手で持った鉈を振り下ろして、懐中電灯人間キヨシの首をバッサリ伐り落とした。

「あ、あああ? お、お、にいぃぃぃぃちゃああぁぁんんんん……!!」

そこに口などないはずなのに声を振り絞り絶叫して、絶叫しつつキヨシの頭部はゴトリと落ちて転がった。胴体の切り口からは血と電流が入り交じって激しく噴出する。その電流鮮血シャワーがある程度収まると胴体は前のめりに倒れてテーブルの上に突っ伏した。なおもビクビク痙攣する首がないキヨシの胴体を、私はただ呆然と見つめる。もう完全にR指定。スプラッター映画の世界だった。

「わはははは! どんなもんじゃい」
床に転がる弟の頭部を平然と拾い上げて、シンちゃんは野蛮な英雄みたいな笑みを浮かべ、それを高く掲げて「ほうれサッチン、見てみい」と私に誇る。キヨシの頭部はやっぱり完全に懐中電灯で、チカチカ光って暗闇を照らし出す。どうやら電源はまだ入るらしい。


床に落ちたライト


キヨシの生首が行く先を照らし、それを頼りに私とシンちゃんは廃墟の中をさらに先へと進んでいく。

「……いやあ、懐中電灯がキヨシになっちゃって大変やったね」
軽い口調でシンちゃんが言うと、シンちゃんの手の中で意味もなくスイッチをオン/オフされているキヨシが小刻みに明滅して(にいちゃん、ひどいよお)なんて、いつものようにいじけてベソをかく。
「それともキヨシが懐中電灯になっちゃって大変なんやった? なあ、サッチン?」
そんな事聞かれても、私には分からない。
「まあええわい。どっちでも同じようなもんじゃい」

「でもキヨシの身体、あそこに置いたままでいいの?」
ふと気になって私はシンちゃんに訊ねる。
「別にええじゃろ。こうして頭はちゃんと持っとるし、ちゃんと光っとるし。キヨシは懐中電灯の係、ずっとやりたかったんやもんな?」
シンちゃんの手元から(やりたかったのは、そうだけど……)キヨシの声が微かに聞こえてくる。
「……まあええ、とにかく、これで全部ええんじゃ」
「いいのかなあ」
「ええんやって。サッチンは大人になって、いらん事考えすぎじゃ」
「そうかな」
「そうじゃ。もっと何も考えんと、何でも気楽にやったらええ」
「……そうだね」
気がついたら意味が分からないこの状況にも、中々終わりそうにないこの廃虚巡りにも、何だか慣れてきた自分もいるのだ。あまり深く考えても結局は理解が出来ないから、何だかもうどうでもいいような……それで逆に気が楽になってきたような……。

「まあ、田舎はどこも、こんなもんよ」
「え、そうなの?」
「そうじゃ。何というか、大らか
そんなシンちゃんの言葉で私の心はたしかに楽になった……ような気もしていた。これで実際いいのかは分からないけど、いいような気もしてくるのだから「まあ別にいいか」と思う事にした。とにかくシンちゃんはこの廃墟を先へと進むつもりらしいから、それに私もついていく。

「……ま、しかしサッチンもすっかり都会に染まりよったから」
「またその話? そんなの、いまさら関係ないじゃん」
「いや、ほんでな、この際やから言うが……そんなムチムチに熟れた、色っぽい女になりよってな」
「え?」
「独身のオッサンにはえげつない、もうたまらんで。目の毒じゃあ。……なあ頼む。わしと再婚を前提に、存分に乳繰り合うてくれい!
「え、えー? ……どうしよかな。まあ、とりあえず調停終わったら……考えてみてもいい、かもしれないよ?」
「お、おおおお! たまらんのう。たぎってくるわ。わしの人生とこん村には、色気のある女が、サッチンが、圧倒的に不足しとった。青年団の面々にも、おいおい正式に紹介せんといけん」
(サッチンも兄ちゃんも、何やらフケツじゃ……!)
「こら、キヨシは黙っとれ」
「そんなだから、あんたはいつまでもマメなんだよ?」
「そうじゃそうじゃ」
(……う、うえええーん)


→□□○■◆←


(ああ、にいちゃんダメじゃ、そんなじゃ、あいつにつかま……)
「緋火被悲比否非、緋火被悲比否非!」
「キヨシぃぃぃぃ! お前、言うのが遅いんじゃああ!」
「ああ、シンちゃあああん!」

長い廊下の曲がり角、そこで待ち伏せしていたらしい鬼マグマ人間がいきなり向こうから走り迫ってきた。自慢の鉈を振りかぶる余裕もなく組みつかれ、ついにシンちゃんは捕まってしまった。
「ギャアアアアアァァァァァ…!」
鬼マグマ人間の火が燃え移り、シンちゃんの服や皮膚は一気に燃え上がり、それが一緒くたに溶けてドロドロと流れ出す。「シンちゃん、死んだらやだよお……」幼なじみで近い将来の婚約者もしくはセフレ候補でもあるシンちゃんが、私のすぐ目の前で赤く焼け崩れていく。

「……やれんわ。わし、次の鬼なってもうた」激しく燃えさかりながら、シンちゃんは残念そうにつぶやく。「わし完全に変わったら追うから、今度はそいつと逃げえや」

シンちゃんが「そいつ」と指した鬼マグマ人間は、さっきシンちゃんに突き飛ばされて床に倒れたままで、何やら激しく悶絶していた。よく見ると全身を焼いていた炎が半分くらい消えかけている。シンちゃんとタッチ交代で、どうやら人間に戻ろうとしているらしい。みるみる修復が進むその姿に、何だか見覚えがあるような気がした。
……あれ、もしかしてシンちゃんの従兄弟の、ナカぽん?
子供の頃にナカぽんともよく一緒に遊んだ。え、マジであのナカぽんなの?  ずいぶん背が伸びたんだな。ナカぽんも、しっかり大人になってる。シンちゃんとはまたタイプが違うけど、やっぱり男らしくて逞しい身体つき。田舎の男って、みんなこんな感じなの? ……ヤバ、あの骨太で実用的な筋肉、ちょっとヤバい。ぶっちゃけ、かなり好みではある。

(ねえ、にいちゃん。ボクがつぎのオニかわろうか? それかにげるやくする? したら、こんどはサッチンがカイチュデントーやったら!?
地面に転がった懐中電灯のキヨシが、そこで不穏に明滅する。
「あ、何これ、……やだ、自分が眩しい!」
自分の目の前が急に明るくなった。驚いて目を瞑っても何でかずっと眩しい。どうもこれは、自分の頭部が電光を放っているようだ。つまり私の頭が懐中電灯になりかけている。ええ? ……じゃ次は私が懐中電灯人間? ちょっとマジで勘弁して欲しい。
「じゃけど、キヨシはマメやろ」
鬼マグマ人間から人間に戻る過程で「ぐおおおお」とか悶絶していたナカぽんが、いきなり人間性を取り戻して言った。
「そうじゃな。キヨシはまた懐中電灯やっとけ」
鬼マグマ人間になりかけて「亡母慕墓……」とか人外の呻き声を上げていたシンちゃんも急に落ち着いて、そうやって自分の弟に命令する。
「あ、ライト消えた」
いきなり目の前が暗くなる。……助かった。懐中電灯になりかけていた私の頭、どうやら元に戻ったらしい。

(ほんとはボクもう、カイチュデントーいやなんじゃ……)
「なんでじゃ。お前、あんだけ懐中電灯の係やりたがって」
(あたまおもいし、ずっとまぶしいし、もうボク、やなんだよおお!)
たしかに、ずっとはちょっとかわいそうかな? でも懐中電灯人間なんて私やりたくないし。鬼マグマ人間も絶対いやだけど。
「こいつ、またワガママいいよるな」
とシンちゃんが呆れたように言う。
「キヨシのくせに生意気な奴じゃ」
ナカぽんもそれに乗っかる。これも昔通りのパターンだった。
「ほれ、サッチンも何か言うたれ」
「キヨシ、しっかり懐中電灯しなさい! また置いてくで!」
そして私がキヨシにビシッと言ってやる。この四人でいると、本当にすっかり子供時代に戻ったみたいな気分になる。
「……なあキヨシ、おなごの言う事は黙ってきいとけ」
「それも男じゃ。耐えろ」
(ううううう……)
「次は悪いようにはせんから」
「でもさっきあんた、私にモラハラしたよね? あれ忘れんから」
さっきの尋問を思い出して、私はキヨシに釘を刺しておく。あれはしばらく絶対許さない。
「だからほれ、懐中電灯」
「はよせんか」

(わかったよう、またボク、カイチュデントーやるよお……じゃけえ、こんどはおいてかんで?)
生意気にも人間の役になろうとしたキヨシはベソをかかされ、また大人しく懐中電灯におさまる事になった。ひとまずは一件落着だ。

「亡母慕墓亡母慕墓……緋火被悲比否非……!」
そしていよいよシンちゃんは鬼マグマ人間に完全トランスフォーム。私は今度はナカぽんと手をつなぎ、この廃墟をグルグルと逃げて回る。キヨシは生首懐中電灯として不安な手元や足元を真面目に照らして、おマメの割には役に立っている。今度はちゃんと家に持ち帰ってやろうとは思ってるけど(まだいえにかえらないの?)とか思い出したようにベソをかくのが本当に面倒くさい。

「疑夜偽家戯也疑夜偽家戯也……!」

万里の長城のような廃墟の暗闇で、シンちゃんが殺したあの鳥もよみがえり、不気味な啼き声を再び上げている。私たちはそうやっていつまでもこの夜を彷徨い、代り番こで役割を演じて、ただずっと遊んでいるだけなのだ。だからこの鬼ごっこはまだまだ続くのだろう。

ところでナカぽんは子供の頃から無口で、あまり無駄口をきかない。シンちゃんとはタイプがまた全然違う。でも好き。どうしよう、どっちも好き。そしてキヨシは結局はやっぱりおマメで、いつまでも頼りない。でも幼い年少者は守ってやらなくちゃ。まあ、だからいつまでもおマメなんだけどね。まあ、それも勘弁してあげる。ほらね、都会と違って田舎は大らか。だから人でなしかもしれない私でもやっていける……のかもしれない。なるほど「田舎はこんなもの」かもしれない。そうやって「かもしれない」を連ねながら、私たちはグルグル巡って駆け回る。

ときどき足を止めて割れたガラス窓から外を眺めれば、夜空に瞬く星と驚くほど大きな月。すごい田舎だから、空気もすごく澄んでいる。遠くの方で、元はシンちゃんだった鬼マグマ人間が赤々と燃えながら走るのが見えた。何だか夏祭りの夜みたいだなと私は思う。




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