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記憶を売る店

 古い市場の中を歩いていた。シャッターが閉まったままの店舗が増えて、寂しい感じがするが、再来年には創設100周年を迎えるという長い年月を経てきた市場だ。
 乾物屋やお惣菜屋、魚屋、漬物店などが元気に営業中だ。


 ふと、見慣れない店があるのに気がついた。古いガラスケースや木製の古い棚にごちゃごちゃと色んな物が置かれている。
 最近できたのかな?アンティーク、というよりはガラクタに近い商品の数々。
 50年くらい前のジュースの空き瓶。牛乳瓶もある。そのそばには牛乳の紙のフタまであった。私が子どもの頃に身近にあったものばかりだ。
 かと思えば給食で使っていたアルマイトの食器に先割れスプーン。こんな物がよく残っていたものだ。
 昔のヒーローの人形や衣装がレトロな着せ替え人形に混じって、私の目を引いたものがあった。
 ぜんまい仕掛けでカタカタ動く、黄色いヒヨコのオモチャである。🐤
 安っぽい黄色のナイロン毛を生やしたヒヨコは、くたびれたボール紙製の箱に入っていた。
 「これ、わたしのだ・・・」
 箱の蓋に描かれた粗い印刷のヒヨコの絵に見覚えがあった。


 わたしが小学校に入って間もない頃、父親が夜遅く帰ってきた時に、珍しく手土産を持って帰った事があった。幼稚園児の妹と一緒に、わぁー、なに?ヒヨコだぁー、動くの、かわいいねー、と興奮したのを覚えている。
 父がヒヨコのお腹のゼンマイを巻くと、ジーーー…と、ゼンマイが戻る音と一緒に、ひょこ、ひょこ、とヒヨコが歩いた。
 母が台所から洗い物を終えて現れた。
「あら、めずらしいわね」歩いていたヒヨコのネジが切れて止まった。
 母がヒヨコのオモチャを手に取り、お腹のゼンマイを巻き始める。ギリッギリッギリッ…
グギッ。
異音がした。一瞬、皆の目がヒヨコに集中する。まさか…
 母が床に置いても、もうヒヨコは歩かなかった。ゼンマイを巻きすぎてネジが切れてしまったのである。
 そこからはもう、わたしも妹もわあわあ泣くし、父親は母親をなじるし、楽しかったひとときが、一瞬で地獄に変わった一夜であった。


 なつかしいなぁ… それにしても、なんでここにこれがあるんだろう?
 大量生産していた安物のオモチャだから、今でも残っていたのかな。
 でも、やっぱり、気になる。
 店主は店の奥で何か品物の整理をしていたが、思い切って声をかけてみた。
「あのー、これ、ゼンマイ巻いてみてもいいですか?」
 見た感じ60代くらいの男性店主は、ちらっとヒヨコに目をやったが一言、「それね、壊れてるよ」と言った。
 わたしはなんだか当然というか、やっぱり、といった気持ちになり、それを買うことにした。
 店主は壊れてるから売り物にならないし、あげるよ、と言ったけれど、わたしはそれを買った。
 子どもの頃、すぐに壊れてしまったから、一度もゼンマイを巻くことができなかったそれを、巻くことができないそっくりそのままもう一度、手に入れた。

 

Prof.Bergsonが、記憶には、体験として取り容れられてゆくものと、或る時期に属してその後はどうしても取り戻すことのできないものとの二種があると申していますが、私はこの云い方に何か心の扉を叩くものを感じています。
ー略ー
 それ は果して何物か?そしてわれわれの或る時期に事実存在したのかどうか?ということは心理学や形而上学の対象でありましょう。
けれどもわれわれには、うっかりと  それ  を見逃してきたように思われ、それならばこそいまさら追究するのだし、またあのとき限りに見失われたにせよ、将来世界はきっと あのもの を取戻すことであろうなどと考えずにおられません。

稲垣足穂 / 「記憶」より抜粋

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