ACジャパンのCMに抱いた違和感
きっかけ
テレビをみていたら、こんなCMをみかけた。
無意識な性差や思い込みを想起させる意図のCMだ。
ハッとさせるような鋭い内容で、とても良い取組だと思うんだけど・・・なんかひっかかる。なんだろう、この気持ち。
この違和感の正体を言葉にしたい。
CMから感じとった『問題の論理構造』
まずは僕がこのCMからどんな論理構造を感じ取ったのかを説明したい。
ずばり、こうだ。図にしてみた。
これを順に説明していく。抽象的な概念のままだとわかりづらいので、育児を例にとって考えてみよう。
まず最初に、これまで育児においては女性が子を育て、男性は仕事で家族を養うという役割が当然とされる前時代的な価値観が蔓延していた。これが今回のはじまりとなる偏見・差別(①)である。
次に、この偏見・差別の意識のために男性の育児参加率はこれまで低い値となっていた。これは客観的に観測される事実(②)である。
さて「育児に携わる人の声は男性、女性どちらだと思われるか?」と問われたとしよう。事実(②)に基づくと、きっと自然に「これは女性だろう」と推論(③)をすることができるだろう。
今回のCMではこの推論をきっかけに問題提起(④)をしており、解決に向けて意識を変えていくことを提案(⑤)している。
おおむねこんな感じだ。この時点で文句があるかもしれないが、とりあえずこの論理展開をひとまず肯定しよう。
僕の違和感はどこからきたのか
僕が違和感を抱いたのは、問題提起の部分だ。ACジャパンが「これって問題だよね」と問題提起しようとしている「これ」ってなんだろう?
答えはめちゃくちゃ簡単。偏見・差別(①)が存在していることだ。これに異論の余地はないと思う。
しかしもう一度、CMのメッセージを思い出してほしい。
これをバカ正直に捉えると、
CM「想像したのは男性の姿?女性の姿?」
僕「女性の姿です」
CM「無意識の偏見に気づくことから始めませんか」
という会話が頭の中で想像される。するとこのメッセージでは「女性の姿を思い描いたこと」つまり推論に対して偏見の問題提起をしているように思えてしまうのだ。
しかし、この推論は客観的な事実に基づいて行われたものであり、この推論過程そのものには偏見・差別は含まれていない。
別の例で考えてみよう。
街で関西弁を話している人をみかけたとする。それをみたあなたは、その様子から「この人は関西の出身なんだろうな」と想像するだろう。
これは不自然な推論ではない。関西出身と関東出身、どちらに関西弁の話者が多いかといえば、当然に前者だからだ。
だが、そんなあなたは「関西出身の人は関西弁を話すべきだ」という偏った考え方を持っているだろうか。ここではただの割合の話をしているだけで、偏見や差別といった思想の話に踏み入ることはおかしいことがわかるはずだ。
なるほど、これが僕の感じた違和感の正体だ。
"伝えたいメッセージ" と "伝えているメッセージ" が遠い。
もちろん、CMのメッセージから深く1つ1つ掘りすすんでいけば真の問題である偏見・差別(①)にたどり着ける。のだけれど、CMという短い時間のなかで視聴者に主張するには迂回しすぎているように感じられる。
ここで想定される反論として「いやいや、それを深く考えさせるのがCMの目的だよ」という主張があるかもしれない。
でもCMがメッセージを届けようとしている「無意識に偏見を抱いている人」ってのは、自分は偏見を抱いていないとこれまでずっと思い込んでいる。
そんな人間に婉曲的なメッセージを与えて「自発的に自らの認識の誤りを察する」ことに賭けるってのは、なんだか割に合わない博打になってしまわないだろうか。
だったらセンスのある表現に頼るよりも、直接「なぜ育児をしているのは女性の声だと思いましたか?」と訴えかけるのもありじゃないかな。
さいごに
CMが訴えている「内なる偏見に気づく」ことは、とっても大切だ。
それを啓蒙する「手段」には僕はピンとこなかったけど、こうした啓蒙活動そのものを否定したいわけではない。むしろ応援している。
ただ、もっと直接的な表現でもよかったんじゃないかなと感じてしまった。僕の抱いたこの違和感が、僕にしか感じられないような些末な杞憂であることを願います。
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