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仰げば尊し



「もう今夜は大丈夫でしょう。
 落ち着きましたよ」

そう言って主治医は
病室を後にした。

夜の病院は
電気がついていても
どことなく薄暗く感じる。

「良かった。姉さん、俺は
 電話して来るよ。
 各方面に、峠は越したよってね」


2番目の弟は
そう言って
ひょろりとした身体を
廊下に運んだ。


「俺は母さんと一緒に
 父さんの着替えを取りに行って来る。
 すぐ戻るよ」


実家の後を継いだ1番目の弟は
母とともに車で
一旦実家へ戻って行った。


そうして病室には私と
ベッドに横たわる父だけが
取り残された。


父は肺癌の末期で
今の医療では
対処のしようがなかった。


60歳。


若すぎるこの残酷な仕打ちに
周りは嘆くけれど
本人はさも当然のことのように
飄々としている。


先祖から引き継いだ
呉服屋と二足の草鞋を履いて
厳しい修行に耐え
僧侶にまでなった人だから
肝が据わっているのだ。


「お父さん、大丈夫?」

「大丈夫だよ。心配かけたな。
 お前は子どもたちを残して
 こんな夜にわざわざ来たんだろう。
 問題ないのか」

「お義母さんに頼んだから
 大丈夫。
 あんな人でも常識はあるから」


父の口調はしっかりしていて
いまだに最期の時を覚悟しきれていない
私と比べると
どちらが病人なのか分からないほどだ。


仰げば尊し 我が師の恩



突然、ベッドの中にいる父が
急に歌い始めた。

教えの庭にも 早や幾歳


なぜ、仰げば尊しなのか
分からない。

特に父が好んで日々
歌っていた歌でもないけれど、


しっかりした音程、
間違えのない歌詞。


思えばいと疾し この年月
今こそ別れめ いざさらば


そうしっかりと歌い終えてから父は
こう言った。


「もう疲れた。
 少し寝るから
 電気を消してくれないか」


「はい。よく寝てね。
 お休みなさい」


私がカチッと電気を消した瞬間、
父の眼が、確かに
ぐるんと動いた。



「お父さん?」




「お父さん?」



私は思わず
みっともないような
大きな悲鳴をあげた。


すぐさま看護師や当直医が飛んできて、
即座に部屋から出された。


それが父の最期だった。



あまりに安らかで
あまりに突然だった。


公衆電話に電話をかけに行った弟も、
シャワー室へ行ってしまった主治医も、
一旦家へ戻った弟も母も、
間に合わなかった。



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これは母方の祖父の
最期を書いた
本当の話です。


祖父は60歳で亡くなる間際に
仰げば尊しを歌いました。


祖父と母の会話を一部
私が捏造した以外は
全て真実です。



祖父が若いうちに
亡くなったので
私はあまり祖父のことを覚えていません。


記憶にあるのは
袈裟を着た
いつだって優しい笑顔の
眼鏡の姿だけです。


祖父が怒っているところも
だらしないところも
見たことがないので
私の中で祖父はあまりに
神格化されていましたが、


きっと外孫の私には見えなかった
人間味もたくさんあったのでしょう。


思えばいと疾し この年月



今までずっと
若い道を歩んできたつもりで
想像も出来ませんでしたが、


人間の一生なんてとても短くて
身体だけは老いていっても
内面はいくつになっても
達観することなく、



日々いろんなことがあって
対処しきれず
右往左往しているうちに
一生を終えるのかもしれませんね。



祖父が亡くなったこの年、
母は今の私よりずっと
若かった。


そう考えると
よく耐えられたなと思います。



互いにむつみし 日ごろの恩
別るるのちにも やよ忘るな


もうすぐ留学生たちが
仰げば尊しを歌う練習を
始めます。


歌詞が文語で難しかったり

「仰げば尊し」が押し付けがましかったり

「身を立て名をあげ」が競争的だから、


卒業式でこの曲を
歌う学校は珍しくなったでしょうが、

私にとっては忘れられない曲です。


日々出逢い、別れて行く人たちに
感謝しながら
生き抜いていきたいなと
思います。


思えばいと疾し この年月。

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