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ボクを踏まない靴


9/4(日)開催 J.GARDEN52
小説新刊「ボクを踏まない靴」
冒頭試し読みです。
できれば後日もう少しUP予定。

スペースNo【E18b】まで、是非遊びに来てください!



第一章 再会

 赤にするか青にするか、それが問題だ。
 マティアスはようやく二足まで絞った最終候補を棚に並べてから、もう一時間近く悩んでいた。

 赤い靴は、水牛の革に透かし彫りを施した精巧な逸品だ。革の厚みと光沢、ハリといった硬い印象に対して、細かく緻密な曲線の紋様が、幻想的な雰囲気を生んでいる。伝統の綿のレースも革に合わせて鮮やかな夕陽色に染めた。「この茜は一級品ですよ」と、染職人が嬉しそうに笑っていたのをよく覚えている。これを履けば、あたかも夕暮れの空の淵を足元に纏うことになるだろう。
 やはり赤か。
 対して青い靴も、これまた繊細である。この靴の表面には絹のレースを張り込んだ。絹の染めはもちろん高級パステル。埃っぽい屋外を歩くには向かないが、マティアスに今必要なのは、屋敷の玄関での出迎え用の靴だ。青色は我が国を象徴する高貴な色。国の騎士となった人物を迎えるのに相応しい。
 青の方が良いか。
 そうやってうんうん唸っていると、従僕が靴の部屋までマティアスを呼びに来てしまった。
「マティアス様、まだこちらに? 間もなくですよ。もうとっくに、オディロン様たちは街に入っておられます」
「あ、ああ、分かってるよ」
 時間がない。
 マティアスはもう一度迷って、赤い方を手に取った。しかし、棚に残ったままの青い靴も気に入っているので、また悩んでしまう。
 従僕が呆れた声を出す。
「マティアス様」
「オッドは……オディロンは、どっちが良いと言うだろう? やっぱり、青の方がいいかな。オッドはシュアーディの騎士になったのだから。でも、この赤も素敵だろう? 派手過ぎないし、悪くないと思うんだ」
 どっちでもいい、と従僕の顔に書いてあるのは分かっていたが、とにかく決めかねている。
 彼がこっちと言えば、それにしよう。そう決意して、マティアスは両手に一足ずつ持って、従僕の前に差し出した。
「赤です。赤がよろしいと思います」
「どうして? 騎士を迎える仕来りに、青いものを身につけるとか、そういう謂れはなかったかな……ああ、だとすると、白の方がいいのかも。オッドはまだ白の階級だし。ちょっともう一度白い靴も持って」
「赤にしましょう! 今日のお召し物にも、赤が合いますよ」
 往生際の悪いマティアスに、従僕はそう断言してくれた。
 今日のマティアスは黄色に近い薄橙の軽やかなチュニックに、サーコートは褐色に金刺繍。若いうちは落ち着いた色味が良いと、この従僕が今朝用意してくれたものだ。派手さのない組み合わせの衣装は、まだ十九歳のマティアスの瑞々しい容貌を引き立てている。
 柔らかな赤毛はチュニックと上着のちょうど中間の色で、象牙の肌と琥珀の瞳がよく引き立つ。
 サーコートの金縁の下から伸びる細い足は、真っ白な絹のショースに覆われていて、ここに緋色の靴を履けばよく似合うだろう。
「分かった。赤にする」
「では、早く靴を履いてください。きっともう門までいらしてますよ」
 マティアスは履いていた靴の紐を解いて脱ぎ、絹のショースの皴を伸ばして、大急ぎで赤い靴を両足に着せてやる。
 どうしても靴だけは妥協ができない。
 もっと他の勉強や、家の仕事の手伝いに精を出すべきだと分かっているが、マティアスの頭の中にはいつも靴が居座っている。
 そして、これから久しぶりに会える義兄のオディロンも、マティアスの心を支配する大きな存在のひとつだ。
 彼に会うのにどの靴を履くべきか、朝からずっと悩むほどには。
 なんとか玄関のドアが開くより早くホールに駆け込み、家族の列の端にたどり着くと、すかさず義姉シャルロットの呆れた声が飛んでくる。
「マチュー、遅い」
「ごめんなさい……」
 玄関ホールにはゼブラノール家の面々が勢ぞろいしていた。普段は別邸で暮らす親戚も、乳飲み子も、正式に家に連なる者なら愛人たちも呼ばれている。
「朝履いてた靴で充分だったじゃない。なんでわざわざ履き替えるの?」
 マティアスは一同の前で子供のように叱られ、肩をすぼめて体を小さくした。
 義姉の向こうから、義母ミレーヌがまあまあと嗜める。
「恋人に久しぶりに会うのに、服選びを悩まない方がおかしいわ」
「この子、服じゃなくて靴だから。服は言われたままに着て、靴だけ二時間も選んでたの」
「二時間もかかっては……一時間少々で」
「同じこと」
 シャルロットはつんと視線を逸らし、大きなお腹をさすった。
 次期当主である義姉は、現在三人目の子を妊娠中。二人目はまだ二歳の男子で、乳母が手を繋いでホールの端の方にいる。
 一番上は五歳の女の子で、今日のために新たに仕立てたドレスを纏い、お行儀よく母親の隣に立っていた。そして澄ました顔のふりをしながら、チラチラとマティアスの足元を見ている。姪はお洒落好きで、屋敷の中では義母に次いでのマティアスの理解者だった。
 いや、一番は義母ではなく、オディロンだ。
 義兄であり、恋人であり、マティアスの一番の理解者であるオディロン。
騎士見習いとして修行の身にあったオディロンとは、年に数日の休暇以外会うこともできなかった。他家での行儀見習い、王都での訓練、そして叙任直前に従騎士として国境の紛争鎮圧への参加……最後に顔を見たのはもう一年以上前だ。
 そのオディロンにやっと会える。これからは、毎日だって一緒にいられる。浮かれて靴選びに時間がかかったとて、仕方がないのだ。
 まだ開いてもいないドアから、明るい空気が吹き込んできた。分かるのだ。オディロンが近くに来たことは。マティアスは息を飲んで背筋を伸ばし、サーコートの肩を直してまっすぐに立つ。
 かくして、扉は開かれた。
 門の前まで迎えに行った家令が、恭しく両開きの重い扉を押し開ける。ホールに集まった誰もが笑みをこぼした。
「オディロンおめでとう!」
「おかえり、ラウル」
「騎士叙任おめでとうございます、オディロン様」
 自然と拍手が沸き起こった。
 ゼブラノール家現役で四人目となる、二十二歳の若き騎士が誕生したのだ。
 オディロンは王国の正式な騎士甲冑姿だった。兜を脇に抱え、叔父のラウルと並んでいる。叔父も騎士であり、もう二十年近く献身的に仕えてきた。その跡を引き継いで、ゼブラノール家を代表する騎士となり、ひいてはガーランド一門の象徴となるのがオディロンの目標なのだ。
 何度も夢で会った、濃い褐色の髪、日に焼けたオリーブの肌、すらりと背の高い人。
 一回り大きくなったように見える想い人の姿に、感極まって涙がこみあげてくる。それをなんとか飲み込んで、唇を噛み、精一杯手を叩いた。
 拍手と歓声の中、オディロンが大理石の床を一歩踏み出す。騎士甲冑の金属の脛当てをつけたままの脚が、カツリと音を立てた。
 途端、マティアスの首筋を、怖気が這いあがった。寒気に似た、不快で、恐ろしい、逃げ出したくなるような何か。
「マチュー」
 オディロンが呼んでいる。笑顔で手を伸ばしている。灰色がかった濃いグリーンの瞳が、優しくこちらを見つめている。
 だがマティアスは、一歩後ろに下がった。カツカツと音を鳴らす、騎士甲冑の金属の装具から、目が離せない。近づいてほしくない。
 何故だろう、相手はオディロンなのに。今日ここに帰って来るのを、指折り数えて待っていた、義兄であり恋人である、唯一無二の存在なのに。盾を贈りたいと書かれた手紙を、何度も読み返しては便箋にキスをした、オディロンなのに。
 恐ろしくて冷たいものが、首筋から後頭部に這い寄り、ついにマティアスの頭の中に侵入を果たす。視界が白く染まって、オディロンの姿が見えなくなった。
「マチュー⁉︎」
「きゃっ、どうしたの」
 異変に気付いたオディロンが叫び、シャルロットも小さな悲鳴を上げる。
 耳は聞こえている。手のひらに、冷たくて硬い感触。膝がくずおれて手を付いたのだと理解した時には、両肩を大きな手で支えられた。
「どうした、マチュー。具合が悪かったのか?」
 オディロンの声だ。手紙を読み返すたびに記憶を手繰った、オディロンの声。思い出より少し低いのは、マティアスの身を案じてくれているから。
「あ、だいじょう……」
 視界が戻ってきた。大理石の床と、膝をついてマティアスを抱きかかえるオディロンの足元が見える。鈍色の爪先。
 悲鳴を上げそうになった。みっともなく、子供が化け物を怖がって泣き叫ぶように。
 マティアスはその衝動をなんとか耐えて、固く目をつむり、オディロンの肩に縋り付いた。
 どうしても見たくなかった。金属の具足に包まれた足元を。
「情熱的な再会になったな。やはり帰還とは、こうでなくては」
「叔父上、そんな呑気な話ではありません」
 ラウルのからかいに、オディロンは噛みつくように言い返す。
 そんな言い方はダメだ。上官への態度をよく注意されると、自分で手紙に書いていた癖に。オディロンはこうだと思うと、すぐ口に出てしまうのだ。
 そのままオディロンはマティアスを抱き上げ、寝室に連れて行くと言い、歓迎の輪から抜け出す。
 マティアスは必死にその肩にしがみ付いていた。


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