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ボクを踏まない靴 2

J.GARDEN52 新刊サンプルその2です。

未読のかたは、こちらからお読みください。


第二章 違和

いつものベッドで目が覚めた。
灰白色の石壁。ガーランド一門の紋章が刺繍されたタピストリー。従僕の指示で、若い召使いが窓を開けている。昼間はもう暖かいが朝晩は冷え込むので、暖炉にはまだ赤い炭が残っている。
いつもと変わらない朝だった。
「おはようございます、マティアス様。お加減はいかがですか?」
マティアスが起き上がると、それに気づいた従僕がすぐに寝台に駆け寄って来る。
「すぐにオディロン様をお呼びしろ」
「はい」
従僕に促された召使いが部屋を出て行った。
今、オディロンと言った。
オディロンがすぐここに来てくれるというなら嬉しいが、それは無理だ。
なにせオディロンは騎士叙任を受けた王都から、こちらへ向かっている最中なのだから。ああ、そうだ、彼が帰宅するのはもうすぐのはず……。
「どこか痛みはありますか?」
「どこも痛くないよ。どうしたの、今日は。そんなに顔色が悪いかな?」
少し喉が痛いし、どことなく体がだるいが、寝起きなんてこんなものだ。
マティアスが首を傾げると、従僕はわずかながら表情を歪めた。驚いているような、訝しんでいるような、その両方だろうか。
なぜそんな顔をするのか分からない。
マティアスの方も怪訝に思い眉を寄せたところで、新たに部屋に人が入ってきた。
「マチュー!」
簡素なシャツに、膝下までのブレーという軽装で現れたのは、オディロンその人だった。
灰色がかった濃いグリーンの瞳、まだらに日焼けしたオリーブスキン。前髪を下ろしたままで、上げている時よりも少し幼顔に見える。
昨年の休暇に一時帰宅した時より、さらに骨っぽく、逞しい体躯になったようだ。
「オッド、どうしてここに?」
「おい、マチュー、本当に大丈夫か?」
寝台の淵に腰掛けたオディロンが、眉尻を目一杯下げてマティアスの顔を覗き込む。
「オディロン様は昨日ご帰還なさいましたよ。マティアス様も、お出迎えにいらしたではありませんか」
「え……」
従僕の言葉で、マティアスの頭の中を小さな光の粒が走ったように感じた。少し喉が痛くて、少しだるい寝起きの体が、急速に覚醒へと向かっていく。
「ああ、覚えてる。覚えてるよ。君が帰ってきて、玄関ホールでみんなで出迎えて……ごめん、寝ぼけてたみたいだ」
「やっぱりどこか悪いんじゃないか? 医者は疲れが出たとしか言わなかったが、本当は何か悪い病気なんじゃ」
オディロンがマティアスの肩に腕を回し、一層顔を近づけた。
心配させているのだと分かっていても、触れられる距離に彼がいる、彼の体温を感じることに、口が自然と笑みを作った。
「昨日は君に会うための靴選びに一時間も悩んで、また姉上に叱られた。そして、出迎えで履いていたのは赤い靴。ほら、ちゃんと覚えてる」
「なら、いいんだが。どこも痛くないんだな?」
「元気だよ」
オディロンの大きな手がマティアスの後ろ髪を撫でる。ゆったりとしてその感触に、マティアスは目を細めた。
本当にオディロンが帰ってきたのだ。
これからは大規模な招集でもない限り、ここフォンフロワドの地で一緒に暮らせる。
「御衣装を準備して参りますね」
従僕が奥の衣装部屋へ消えた。おそらく朝の衣装選びなど済んでいるだろうから、気を遣ってくれたのだろう。
衣装部屋の扉が閉まると同時に、オディロンに肩を引き寄せられ、唇に覆い被さられる。マティアスもそれを予見したように、両腕を伸ばしてオディロンの頭を抱え込んだ。
「これからは毎日キスができる」
「……ん」
互いの唇をゆっくりと食む。ぴったりと重なった互いの胸から鼓動が聞き取れる。
うっとりと身を任せていると、オディロンに抱え込まれたまま寝台に背中がついてしまった。マティアスは力を抜いて寝転がる。優しくのしかかられる、その重みが堪らなく愛おしい。
「オッド、少し痩せた? 体は大きくなったけど、顔は細くなったみたい」
鼻先を触れ合わせながら、マティアスはオディロンの頬から顎を指でたどる。骨格は変わらないはずなのに、以前より顎が尖ったような気がする。
「そうか? 自分じゃ分からない」
オディロンはマティアスの額、耳の下、肩の先に順にキスを落としてからマティアスを見下ろした。
「マチューはまた髪の色が濃くなった」
「君だけだよ、そんなこと言うの。もうそんなに変わったりしないよ」
マティアスは寝台とオディロンの隙間でわずかに身じろいだ。
今は茶に近い赤毛だが、子供の頃のマティアスはもっと髪の色が薄く、日に当たると透けてオレンジ色に見えたそうだ。成長して毛髪が太くなると色合いも濃くなるものだが、マティアスはすでに十九歳。色が変わったね、と成長を褒められる年代は過ぎている。
「みんなは毎日マチューに会えるから、そんなことが言えるんだ。一年ぶりに会うと本当に変わってるんだぞ」
「うん。ボクも、会いたかった」
マティアスが腕を伸ばしてオディロンの頭を引き寄せる。激しさのない、しかし長い時間触れ合う口づけを交わした。互いをしっかりと抱きしめて存在を確認する。
たっぷりと唇の熱を交換し、どちらからともなく寝台の上に起き上がった。キスもしたいが、話したいこともたくさんある。
「昨日渡せなかったが、土産があるんだ。ラウル叔父上といろいろと見繕ったんだが、マチューの分はもちろん俺が選んだ」
「君からなら、なんだって嬉しい」
「お前はいつもそう言うから、特別喜んでもらいたくて悩んだんだぞ。タルテッソス産のなめし革が手に入ったんだ」
「タルテッソスの革!」
つい大きな声が出てしまって、マティアスは慌てて自分の口を塞いだ。オディロンはマティアスの頬に唇をつけて、そのままクスクスをと笑う。
「大喜びすると思って」
「そりゃあ、大喜びだよ。でも、どうやって手に入れたの? 市でタルテッソスなんて謳ってるのは、スペル違いの偽物ばっかりなのに」
タルテッソス王国の皮革は、王侯への献上品にもなるような代物だ。山奥のとある村が、代々技術を受け継いで守り続けているという。
靴に目がないマティアスは、その素材となる革や布地、染料なども大好きだ。
マティアスでなくても、ちょっとした洒落者ならば、いつかタルテッソス産の皮革で持ち物を仕立ててみたいと思っている。
「王都の市の仕切りに紹介してもらった貿易商だから、少なくとも偽物じゃないはずだ。仕切りに話を通したのは、フォンフロワド伯の代理人。安心だろう?」
「そこまでしてくれたの」
「あれでお前のブーツを作るんだ。タルテッソスなら何十年も履ける。最高だろう」
「最高」
マティアスは力いっぱい、オディロンの胸に飛び込んだ。鍛え上げられた騎士の肉体は、少しもよろけることなくマティアスを受け止める。
幸福を薔薇色とか、ワイン色と例える詩人の心が、今なら分かる。それは濃くて赤い。埋もれるような、漬かるような、噎せ返るほどの香りの中で、息をするのも苦しいくらい。
「マティアス様……そろそろお着替えを」
部屋の隅からくぐもった声が響いた。
ふたりは顔を見合わせてから、声のした方向へ視線を動かす。そういえば、従僕を衣装部屋に閉じ込めたままだった。
「ごめん。すぐ行くよ」

久しぶりに家族揃って朝食を取った。
その後、家族はそれぞれ仕事や用事に向かう。
義父と義姉は執務へ。義母は離れの愛人たちの様子伺いへ。貴族が複数の愛人を持つことは珍しくないが、役者に踊り子、娼婦に従騎士候補――義母は男女総勢八名の愛人を持ち、領内でもちょっとした有名人になっている。それだけの人間を囲えるだけの財が、ゼブラノール家にはあるのだ。
マティアスも講義の支度を整えて玄関へ向かうと、オディロンとラウルに鉢合わせた。マティアスの気配に気づいたふたりが同時に振り返る。
「おお、すっかり学生らしくなったな」
叔父のラウルが、人好きのする笑顔を浮かべる。マティアスが羽織ったマントを指して言ったのだ。学生に服装の決まりがあるわけではないが、一日の間に複数の私塾や神殿を行き来する学生たちは、突然の雨や風を避けるため腰を覆うほどのマントを着用している。
「大荷物だな。ひとりで行くのか?」
オディロンが一歩踏み出すと、カシャリと金属が鳴って、マティアスは抱えた参考書の束を取り落としそうになった。
ふたりとも儀礼用の騎士服姿だ。
全身を覆う鉄の鎧ではなく、王国の騎士の証である紋章をあしらったサーコートに、緋色の腰当ては鉄ではなく革製。太ももから下の鈍色の具足と、脇に抱えた兜だけが昨日と同じだった。
「ああ、うん。みんな、自分で本くらい運ぶものだから」
「塾に通うっていうのも大変なんだな。毎日それを持って歩くのか」
ほんの数歩。マティアスの目の前に着いたオディロンの足音が止まる。
ただの足音だ。それも、オディロンの靴の音。幼い頃はマティアスも憧れた、正義の騎士の鎧の音だ。何をそんなにビクつく必要がある。そう思うのに、マティアスの目は忙しなく瞬きを繰り返し、視線を彷徨わせた。呼吸は浅く、じわじわと指先が冷えていく。
「顔色が悪いぞ。やっぱり、体調が良くないんじゃないか? 今日は休んだ方が」
「そういうわけには。せっかく講義を受けられるのに」
マティアスは努めて、上を向いてオディロンの顔を見た。
下を見たくなかった。理由は分からない。だが、とにかく、あの音のもとになる鈍色の靴だけは視界に入れたくなかった。
「オッド、心配も過ぎると無礼だぞ。マチューをいくつだと思ってるんだ」
「ですが」
叔父であり、騎士としての上官でもあるラウルに睨まれ、オディロンは口を閉じた。しかしその目はなみなみと憂いを湛えたままである。
「だから、大丈夫だって。どこも痛くないし、朝もしっかり食べた。いつも通りだよ」
マティアスが笑って見せると、オディロンは一度目を閉じ、再び視線が合わさる時には心配の気配を半分ほどに減らしてくれた。
「今日は何の勉強を?」
「午前中が法学。午後から医学。どちらも人気の教師で、予約しないと講堂にも入れないんだから、行かなきゃもったいないよ」
「そうか、法学に医学。立派だな」
そう言って口元緩めたオディロンから、世辞も媚も感じない。
彼はいつも思いをすべて口にしてくれる。嘘を吐くのが下手だと言えばそれまでだが、不器用なまでの実直さは、いつもマティアスの心に清涼な風を吹かせる。
「ボクは昼には一度戻るけど、ふたりは?」
「伯邸でそのまま昼食会だそうだ。夜まで会えないな」
オディロンがラウルに目配せをしながら、軽く肩をすくめた。
新騎士となったオディロンは、ラウルとふたりで挨拶回りが続く。今日はその第一日目として、この地の領主たる伯爵のもとへ馳せ参じるのだ。
「いってらっしゃい。気を付けて」
「マチューも」
オディロンは身を屈めてマティアスの右目の横にキスをした。
カシャリ、振り返って玄関を出て行こうとするとオディロンの足元から音が鳴って、マティアスは胸元の荷物を力を込めて握りしめる。
カチャ、カシャ、と金属がこすれ合う。硬い物がぶつかりあう。決して珍しくもない、ただの足音がなんだといのだ。騎士の足音を聞くのが初めてなわけでもないのに。
――そうだ、昨日も。あの足音を恐ろしいと思った。聞きたくないと、心が強く拒絶した。
どうしてそんな風に思うのだろう。どうして、昨日のことを忘れていたのだろう。どうして――一人になった玄関ホールで、マティアスはしばし自分の靴のつま先を睨んで立ち尽くした。


9/4(日)開催 J.GARDEN52 
スペースNo【E18b】
サークル名:活字エンドルフィン
小説新刊「ボクを踏まない靴」
J庭コミティア参加予定の方、是非あそびに来てください。
無配ペーパー「おすすめコーヒーリスト 第二弾」も配布予定ですので、持って行ってね!

2022年7月末日 みおさん

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