もし「お金」という概念自体がなくなったとしたら…?

何も無いゼロの状態か?
ある程度知識・知恵を得た状態か?
にもよると思うが、今回は後者の「ある程度知識・知恵を得た状態」にフォーカスして考えてみる。


まずは、食料を探すかな?
草は食べられると知っているものは勿論、知らないものなら「危険性がなさそう」なら何でも食べると思う。

お肉は、狩りをする必要があるからね。
陸の獲物なら、モ○ハンに出てきそうな武器を作る工夫をしてみる。
海や川などの水辺の獲物なら、釣竿を作ってみることだろう。

これらを踏まえると、きっと「海」の近くに「山」がある様な地域に住むのかもしれない。

調理による味の組み合わせは、調味料を参考にして色々と試してみると思う。
「この植物は甘いから、お砂糖みたいに使える」とか?

そんな未知数な実験じみた生活も案外楽しいかもしれない。

家…は、少しづつ作るかな?
初めは「寝床」を確保する程度だが、「これがあると快適かな」と思うものを徐々に増やしてカスタマイズしていくかもしれない。
勿論、案外寝床だけで充分な可能性もあるだろう。

そして、自然に触れ、十分に味わい、それを記録する為に「絵」を描くこともあるかもしれない。

けれど、生きる為の時間を犠牲にしてまではしない。
故に、お肉が欲しくなったら狩りを最優先にするだろう。


んー、今の所「人の手を借りたい」と思うことはないかな。
私が苦手な重いものを持つに至っても、きっと身の丈に合うものしか選ばないだろうから、そもそも重いものを持つ必要自体を避けると思う。

これも、私の苦手とする「人と関わることを避ける為」の考えに基づいたこと。


これらを踏まえると…
やはり、今の私が苦痛に感じていることは「人の手を借りることを強制されていること」また「人に手を貸すことを強制されていること」かなと思った。

人の手を借りる必要があるシステム、人に手を貸す必要がある人の存在は、もしかすると「物事を共有したい」「共有できないと悪者になってしまう(人から食料を奪ったりしてしまう)」人にとっては必要なシステムなのかもしれないが。

正直、そんな人達は無視して、ただ「生きる」こと「自分の人生に集中したい」と思ってしまう。

これは、一般的には批判される考え方かもしれない。

けれど、そもそも対価を無しにして人に手を貸すなどできない。
こっちも必死で手に入れた食料を他人に無償で分け与えるなんて、無理な話。
そんなことをしたら、他人を生かしたことで、自分が生きれなくなるかもしれないから。

それでも、自分が「生きる為」に無償で食料を奪おうとする者の気が知れる。

そんなに生きたいのなら、自分に合った「狩り方法身に付ける」努力をすればいいのに。
と思ってしまう。

死ぬのは怖いかもしれないけど、それをせずに死ぬのはもはや結果ではないのだろうか?
なぜ、「助けてくれる人が居る」という発想になった?烏滸がましいとは思わなかったのか??

私は、考えもしないくせに考えている人を批判する人が大嫌いだ。
なのに、そんな人に限って声が大きい!はて、どうしたものかな?
うるさい、迷惑だ。
そんなことをしていたら、それこそお前を助ける人は居なくなるぞ!

頼る側が頭を上げるな!

与えることは何も偉いものではない。
自分が「他人に助けて欲しいところがある」から与えるのだ。

自分が与える人以前に、「人の手を借りたい人」であることを忘れるな。


私は、現代お金という概念によって、この「与える(貸す)」と「貰う(借りる)」のバランスが狂ってしまっている様に思う。

そもそも、お金を渡して得するのは「相手」だ。
自分は「与えられたもの」を得ることで得をする。

この問い『もし、お金という概念がなくなったとしたら』で「何をしたらいいか分からない」「動けない」と考えた人は、より謙虚であることが大事かもしれないね。

もし、私のように「自分で工夫して生活できる」自信がある場合には、「自分を大切にしてみる」方が今は大事かもしれない。

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