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鎌倉ほのぼの散歩 結願までのラストスパート(前編) 六番「瑞泉寺」

 2019年12月。
 この年の冬は遅く、暖かい日が続いていたように思います。
 新型感染症の恐怖パニックが刻々と近づいているとは思いもせず、三十三観音様のお参りに邁進していた空ちゃんとみらい(※これまで「鎌ほの」は「みらい」で通してきたので、最後まで「みらい」でまいります)。

 いよいよ「7日目、最終日」。
 めざせ結願けちがん
 「瑞泉寺」「来迎時」「浄智寺」「東慶寺」「円覚寺仏日庵」を回ります。
 ※結願けちがんとは…
  仏教用語。ある期間の法要の最後の日をいう。開白(初日)の対。その目的(願)を結ぶの意。

 NHK「あさイチ」の「朝ドラ受け」のごとく、「鎌ほの」では週の初めに大河「鎌倉殿の13人」の「鎌倉殿受け」をしてしまうのが定番になってきていますが…

 やっぱりすっ飛ばしましたね。
 義経の最期。
 弁慶の見どころナシ。気がつけば義経は首だけに。
 
 九郎判官、もしや生きのびて、この後北海道に?
 いや、まさか、モンゴルに??

 そして闇落ちした義時の目線は次第に鋭くなってきて、策を弄し善児をアゴで使うほどに。

 それにつけても怖いのは…梶原善かじはらぜんさん演じる善児ぜんじ

 もう、出て来ただけで怖いよ。
 ゴルゴかと思うよ。
 俺の後ろに立つな…みたいな感じだよ。
 サラッと「なんなら処分しましょうか」みたいな。
 ひぃーーー。

 でも、時の勢力者というのは皆、こういった暗殺者アサシンを抱えていたでしょうね。そして当然ながら自分も他のアサシンから狙われていたのでしょう。

 暗殺者VS暗殺者の闇の闘いもあったでしょうなぁ。

 いた、っていいましたが…
 今も過去形じゃないかも…

 静御前の子は、由比ヶ浜に投げ捨てられたという話ですが、静御前が誰かに殺害されたという記録はないそうです。悲しみのあまり由比ヶ浜に身を投げたともいわれます。流浪譚も多く、全国各地に静御前の亡くなった場所というのがあるそうです。

 当時は3Dはおろかエコーもないですし、生まれるまで、男児か女児かはわからない。男子変成とかの怪しい呪術が罷り通る時代です。
 静は監視されながら屋敷にいたわけです。出産までの間、静御前の気持ちはいかばかりだったかと思います。

 静御前の存在そのものが、弁慶と同じ様に実在しなかったと言われていたり、その後も母親と一緒に京都で生きたという話もあり、諸説あるようです。悲劇・悲恋の物語は、いつまでも語り継がれるのですね。

 さ、気を取り直して、今回は「瑞泉寺」からです。

 このお寺は別名「花の寺」と呼ばれているのですが、私の印象は「歌の寺」です。

 鎌倉末期から江戸初期にかけ、「五山文学」というものが栄華を誇りました。
 京都五山・鎌倉五山の禅僧たちによって書かれた漢詩文・日記・語録の総称が、五山文学です。
 中国の宋・元文化の影響を受けて、何人もの詩僧を輩出しました。
 が…
 すみません。無学な私は、だれひとりとして知りませんでした。

 虎関師錬こかんしれん 、雪村友梅せっそんゆうばい義堂周信ぎどうしゅうしん絶海中津ぜっかいちゅうしん…(ちなみに雪村友梅せっそんゆうばいさんは新潟のお酒の名前になっているようです)。

 ご存じの方がいらっしゃったら、ご教示ください。
 もしかして、書道をされているとお詳しいかもしれませんね。

 漢文・漢詩中心、政府の公式文書なども手掛けたりしていたようです。禅話集なども多かったようで、庶民の文化とは隔絶した世界だったのだと思われます。

 ただ特筆すべきは、それまで日本で発展しなかった印刷技術が、「五山版」と呼ばれる木版印刷が盛んになったことで、ちょっとだけ発展したらしいです。
 当時は字を解する庶民が少なく、結局印刷するのはお経や抄本(原本の一部を書写したもの)ばっかりだったようで、ほんとうに、ちょっとだけ。

 神奈川県金沢区にある「金沢文庫」は、北条氏の一族(金沢北条氏)の北条実時が邸宅内に造った武家の文庫なのですが、こちらには鎌倉期の国宝が沢山所蔵されているそうです。

 さて、「瑞泉寺」さんは鎌倉のお寺の中でも少々郊外に位置し、天園ハイキングコースの入り口になっています。坂道の上にあり、苔むした階段を延々登ります。スニーカー必須。

 上記のような文化的な事情から、この「瑞泉寺」さんには、沢山の歌碑が遺されています。

 山崎方代歌碑
 吉野秀雄歌碑
 久保田万太郎句碑
 高浜虚子句碑
 大宅壮一評論碑

 この中では、大宅壮一評論碑がちょっと異例です。

「男の顔は履歴書である」

 という言葉が石に刻まれています。

 大宅壮一さんとは、昭和のジャーナリスト・ノンフィクションライターさんです。川端康成と同時代の人で、60代、70代以上の方はテレビメディアでもご存じかと思います。
 死後創設された大宅壮一ノンフィクション賞があり、2022年の受賞作は鈴木忠平『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(文藝春秋)と樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』。現在にもしっかりと、受け継がれています。

 「瑞泉寺」の見どころは裏の石庭で、岩壁をくりぬいた斬新な庭園で「一覧庭」と呼ばれるお庭だそうです。
 鎌倉幕府の幕臣が、禅僧夢窓疎石むそうそせきを開基として建てた寺で、足利尊氏の四男・足利基氏が夢窓疎石に帰依して寺をを中興したそうです。
 このお寺の開祖、夢窓疎石は当代随一の庭園作家。
 ウィキペディアによると、

禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。夢窓疎石の禅庭は、二条良基の連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。

 …のだそうです。
 世界史上最高の作庭家ってすごい。
 当時の五山文学者たちはここにきて、こぞって詩作に励み、詠じたとか。

 確かになんつーか、アヴァンギャルドな感じが…。

岩や石のみで表現された美


「やぐら」と呼ばれる岩窟


 行きの時はあまり気にしていませんでしたが、帰りがけに山門の外に「吉田松陰留跡碑」を発見。

 ん~
 吉田松陰さん?
 このあたりになんか用事ありましたっけ?

 そう。あった!
 ありましたよ、あの事件が!

  そう。寅次郎、黒船乗船失敗の巻です。

 尊敬するゆきじのすけさんの記事に大変詳しいので、ぜひご一読ください。(ゆきじのすけさん、断りもなく引用失礼しました)。

 なんと黒船に乗船を拒否られる直前、寅次郎(吉田松陰)は「竹院和尚」という伯父さんのいる鎌倉のお寺を訪ねていました。それがここ「瑞泉寺」。
 寅次郎は獄中で「瑞泉寺」に立ち寄ったことを詩に詠みました。
「吉田松陰留跡碑」は吉田松陰がこの寺に立ち寄ったことを記念する碑なのだそうです。
 おまけにこの字は、文豪徳富蘆花のお兄さん、徳富蘇峰さんだとか。

 うわー、そうだったんだ。

 あのときは何も知らず、「へぇ~吉田松陰の碑だって」「ここに来たってこと?」「そうなんだろうねぇ」くらいの会話の後、

「そう言えば『銀魂』って最後どうなったの?」

 あとは『銀魂』の話をしながら、苔に足を取られないよう気をつけつつ、下山しました。

 ちなみに『銀魂』に出て来る銀さんの師匠の名前は「吉田松陽しょうよう」。
 みなさま、お間違えなきよう。


次はこちら。






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