原風景の価値

片桐「さて、君はよく自然に戻りたいと、原点回帰を曰うがね。そも自然だとか原点などというものにどれほどの特別な価値があろうか?」

白濱「だってね、君。自然とか原点といったものは、初めの、ありのままの状態というやつだよ。それから派生したところのものは不自然と言うべきではないかね。それで不自然というやつは、人が、我々が忌避すべき存在のはずではないかね?科学理論だって、諸々のデータから不自然な仮説を導くか?あれは、より自然な仮説をたてるものだろう。自然を求めることこそ、我々のア・プリオリな……」

片桐「はあ、もうよしたまえ」

片桐は華奢な片手で払うようにしながら、まるまると太った旧友の熱弁を止めた。気付けば10年は放られた公衆トイレの匂いを嗅がされたような、ひどい表情をしていた。

片桐「君の悪癖だよ。何か情報量の高い主張をしたかとおもえば、少し考えたら誤りに気付けるようなバカらしい論拠しか言ってはくれない。これはひじょうに失礼だから、いいかげんやめたまえよ」

彼女から悪癖を指摘されることに慣れきっているこの男は、もはや悪びれるのでもなく、怒るのでもなく、きょとんとした顔で続ける。

白濱「バカらしい根拠?私はまったく当たり前のことしか言っていないつもりだが、一体どこが間違っているというのかね。正しい根拠を言いなさい」

片桐「君がどこまでを指してありのままだと判じているのか知らないが、私から見たら、今君が身につけている男子中学生が買うような安っぽい腕時計も、君が毎日食べているマヨネーズ丼も、君が一時間に一度は触れているそのスマホも、ありのままでもなければ自然のものには見えないね。そもそも、私も君も、かくして用いている言語がありのままではないものだ。普段は忘れているが、誰かの真似をして後天的に身につけた技術だ。そう言われたら君は「ありのまま」の定義をどうにか拡張してこれらを正当化するのか、あるいは服やスマホや言語を放棄して猿と楽しく共同生活をするのか知らないが、自然や原点だからただちに良い、などというのは浅慮だよ」

白濱はおどけて服を脱ぐようなそぶりをしてみせたが、すぐに片桐の冷めきった視線に気付いたので、咳払いをしながら、年季の入ったスーツの襟元と、それから姿勢を正した。

片桐「それに君は自然から派生したところのものを不自然だと言ったが、これも議論が混乱するからやめたほうがよかろう」

白濱「ほう、あの片桐ともあろうものが、私のレトリックで混乱するものかね?」

片桐「いや、私ではなく君だよ、君。今だって自分の語法のせいで混乱をしているじゃないか」

白濱「私が混乱?」

訊かれるのを待っていたようにして、片桐が話し出す

片桐「というのもね、不自然が悪い…まずこれだけならわからなくもない。まぁ、例えば数学のような仮構された学問の体系で直感的には不自然な結論が導かれるという意味での不自然を悪いとは思い難いが、君が例示した自然科学で言えば、なるべく自然な仮説を求めんとする態度には賛成できる。まあ、実はどちらの態度も、ある意味では自然さを求めているとも言えなくも無いが」

と、片桐は手元のコップに入った水を飲んだ。それを見た白濱は、そういえば彼女は水以外の液体は飲めないと言っていたことを想起した。

片桐「しかしだ、自然から派生したものまでを不自然とは……これは言葉の使い方が下手すぎやしないか。科学理論のくだりに注目すれば、自然を素朴に受け入れやすいもの、他方で、不自然を素朴には受け入れ難いもの、という意味で用いているようにも見えるが、これは君がしていた元の話とは整合性の低い解釈だ。君は元の話では、自然をア・プリオリなものとしていたのではなかったのかね」

白濱「うーむ、よくわかりませんな。そもそもかくも長々と話し続けるなど、あなたは本当に賢い人ではないのですな。本当に賢い人は…」

片桐「難しいことも簡単に短く説明できる、だろう?」

これまでに何度も同じことを繰り返している白濱は、もはや自分が言わんとするフレーズを片桐が合唱されることまで予見していた。

片桐「君が今の私のふるまいを予見して、それでもかような妄言を発したことは容易に想像できる。そうしてお望み通り返してやろう、何度でもね。まず私が本当に賢い人かどうかは今の論点ではないし、本当に賢い人の定義もコンテクストによってさまざまな……」

ラピュタの再放送よりも繰り返された光景がまた始まろうとしたとき、玄関チャイムが鳴らされた。

白濱「そういえば依頼主とのアポイントメントをとっていたことを失念していましたな」

片桐「面白くなければ私はもうネットフリックスで SUITS の続きでも観るがね。君への説諭に戻るのも意味が無かろうし」

白濱「おや、まだ観終わっていなかったのかね」

片桐「いいか、物語を観終わるなどありえないのだよ。二週目にせよ三週目にせよ、それは必然的に前回を引き継いで、そのコンテクストの元で新たなストーリーとして観ることができるのだよ」

片桐「まぁ、まだシーズン1の途中だがね」

普段の調子で適当な雑話をしながら、片桐と白濱は玄関に向かうのだった。

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