見出し画像

じぶんのことば

コピーライターという仕事をしている。
企業から顧客へのコミュニケーションを、言葉を武器にお手伝いするのが仕事。具体的には企画のコンセプト設計やキャッチコピー、ネーミング、CMコンテなどをつくっている。

誰しも経験あると思うが、コミュニケーションというものは難しいことこの上ない。街ですれ違った好みの女の子に、簡単に自分を好きになってもらえるだろうか?それを、企業が人間にやろうとしている。僕たちコピーライターは公認のゴーストライターみたいなものだ。

そんな仕事柄、僕が日々書く言葉は、僕の言葉ではない。クライアントの想いや商品の機能であったり、メリットであったり、はたまたターゲットのインサイトであったり。そうやって自分ではない誰かの言葉を借りてゆくうちに、僕は自分の言葉を失っていった。

働きはじめて半年が過ぎた冬、僕はコピーが書けなくなってしまう。趣味でつづけていた絵本の原案も、ピタッとでてこない。言葉を道具にする人間が、言葉を書けない。さながら竿をもたない漁師である。いや、船を持たない漁師か。

仕事でのスランプを抱えた11月。久しぶりに大学時代の音楽仲間と会った。当時25歳。四半世紀飲みという名目で、丸の内の高級レストランで大人のフリをする会である。そこで、久しぶりに音楽でもやるか、ということになった。

久しぶりの作詞作曲。それは、頭の片隅にある物置き部屋の扉を開き、過去の感情たちに積もった埃をひたすら落としていく作業だった。恥ずかしくて、苦しくて、憎らしい過去の自分と再会である。そこから連想される風景や心象を、言葉という記号に変換して紙に綴ってゆく。気づけば、後のminiアルバム1曲目「my little stage」が完成していた。

振り返ると、それは自分の言葉と再会した瞬間だったように思う。

自分の言葉を持たなければならない。
無くしてしまったら、自分じゃなくなる。なぜなら言葉とは思考そのもの。生まれてから今日までに出会った人や経験を通じて得た考え方が、喉やペンを借りて世界に具現化した、自分の分身だ。

心のいちばん真ん中に隠れているそいつと出会うため、今週も僕は銭湯に向かう。理由はわからないが大きなお風呂は、心との距離を近くしてくれる。裸の付き合いってやつか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?