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イスラエル・パレスチナ問題を知る ⑥

【第二次中東戦争の舞台となったスエズ運河の歴史】

(出典:グーグルマップに一部追記)

スエズ地峡に運河を設ける考えは古代から存在しました。古代エジプトでは、ナイル川から紅海に通じるスエズ湾まで運河が開かれ、ナイル川流域から紅海、インド洋への船運があったようです。しかし、王朝の後退などの間に放置され、運河は土砂で埋まって使用できなくなり、また、別な運河を開削するという繰り返しがあったようです。

17世紀にはドイツの数学者・神学者として知られるライプニッツがスエズ地峡での運河の開削をフランスのルイ14世に提案したことがあります。それは実施されませんでしたが、ナポレオンは英国のインド支配に打撃を与えるためエジプト遠征を行いましたが、その時は具体的な運河建設を検討しています。

フランス人レセップスはかつてのナポレオンの構想などに刺激を受け、スエズ海峡への運河敷設を1854年にエジプト副王(かつてはエジプト総督といわれた、実質的なエジプト国王)サイードに提案しました。レセップスは外交官としてエジプトに滞在したことがあり、サイードとも親しい関係でした。

当時エジプトは宗主国であるオスマン帝国から自立する道を模索していたので、副王サイードはレセップスに許可を与え、同年12月にレセップスとの間で「スエズ運河建設許可書」を取り交わし、「国際スエズ運河会社」を設立し、エジプトは毎年その利益の15%を受け取ることとしました。

スエズ運河建設はエジプトにとって最も重要、かつ問題の焦点となる施設でしたが、英国は運河建設には先進国でありながら、この運河開削は不可能と判断し、インドからの物資は紅海からスエズに陸揚げし、鉄道を建設してカイローアレキサンドリアを運ぶことを考えていたので、レセップスの構想には乗りませんでした。工事が進むと、英国は宗主国のオスマン帝国を動かし、その同意がないとして盛んに工事の進捗を妨害しようとしました。

レセップスは1858年国際スエズ運河会社を設立、フランスとエジプトが株を引き受けて、1859年に着工しました。しかし、掘削工事はエジプト農民の無償労働で行われ、難航を極めました。

1856年から63年にかけて、スエズ運河建設のために2万5千人から4万人が動員され、その間に2万人の死者が出ました。スエズ運河掘削地域では、自前で飲食を摂りながら運河の底から砂を土手に運び上げるために、日の出から日没まで水につかったまま労働しました。そこでは廃止されたはずの鞭も使われています。かたときも休まず、空腹のまま死と生の境で働くというのが実情でした。しかも、畑を耕さずに賦役に借りだされたため収穫もままならず、食糧もすべて持ち出したせいで、家族が飢える悲劇もありふれた光景でした。

これはエジプトの農民の間にますます外国人への嫌悪を募らせました。サイードの次の副王イスマーイールは英国の主張を入れて、一部の運河地域をエジプトに返還させ、賦役も廃止しましたが、その際8400フランの違約金をレセップスに支払わなければなりませんでした。

1869年11月17日、ついに完成し、スエズ運河開通式典が行われました。

【スエズ運河株式買収】

スエズ運河は、1869年に完成しましたが、6年後の1875年に財政難に陥ったエジプト政府はその持ち株の売却を図りました。知らせを聞いた英国首相のディズレーリは、フランスに先んじてスエズ運河の株を買収することを決断し、ロスチャイルド財閥の資金提供を受け、44%の株式を手に入れました。

エジプト政府がスエズ運河会社の株を売り出そうとしているという情報は、ロスチャイルド家の情報網を通じてディズレーリにもたらされました。ディズレーリは、その情報がフランスに知られる前に決断する必要に迫られました。資金提供を「お国のためだ」とロスチャイルドに求めると、ロスチャイルドに「では、あなた側の抵当物件は?」問われました。交渉に当たったディズレーリの秘書官はそれに対し、「英国政府であります」と答えたといわれています。こうして、ロスチャイルド家は大英帝国を担保として資金を融資し、英国は一夜にして、スエズ運河会社の筆頭株主になりました。議会の承諾を得ない独断でしたが、これによって英国のエジプト支配はフランスを押しのけて進むことになります。

【スエズ運河国有化と第二次中東戦争】

スエズ運河は1869年に営業を開始し、1875年に英国が買収して以来、スエズ運河会社はその利益を英国やフランスの株主に分配し、エジプトにはごくわずかな利益しかもたらしませんでした。

エジプト革命(詳細はイスラエル・パレスチナ問題を知る⑤)を成功させたナセルは、農業近代化用の電力供給を得るためナイル川上流にアスワン・ハイダムを建設することを計画しました。当初、その費用を米国の援助に求めましたが、米国がナセルのソ連寄りの姿勢を嫌って援助を断ったので、スエズ運河を国有化し、その利益をダム建設に向けることを考えました。

1956年7月26日に発表されたスエズ運河国有化の声明は世界を驚かせ、特にスエズ運河と関係が深い英国とフランスは運河会社の経営権を無くすことになるので、衝撃を受けました。英仏は逆提案という形で運河の国際管理案を持ち出して時間を稼ぎ、その間軍備を整え、10月末にイスラエルをエジプトに侵攻させ、さらに両軍がスエズ地区に出兵して第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発しました。

英国はすでに1954年にナセルとの交渉でエジプトから軍隊を撤退させていたので、スエズ運河を守るためにはそれなりの口実が必要となります。まず、イスラエル軍をスエズ地帯に進撃させ、それを守るエジプト軍との両軍に対して、運河を戦火から守ることを口実に撤退を勧告しました。実際にはイスラエル軍が運河地帯に到達する前に勧告がなされ、当然、エジプト運は撤退を拒否しました。すると、それを口実に英国はエジプト空軍基地を空爆し、続いてフランス軍とともに上陸しました。

フランスはスエズ運河の防衛にあたる義務はありませんでしたが、当時植民地アルジェリアでの戦争に苦しんでおり、アラブ民族主義勢力が勢いづくことを恐れ、参戦しました。

イスラエルのベングリオン首相はパレスチナ戦争(第一次中東戦争)で戦闘で勝利しながら領土拡張がなかったことから、軍事力充実に努めており、領土拡張の好機と捉え、英国の要請に同調しました。

1956年10月、まず英国はイスラエルのベングリオン内閣を動かしてエジプトに侵攻させました。ダヤン将軍率いるイスラエル軍は1週間でシナイ半島を制圧、さらに英仏両軍がスエズ地区に出兵しました。

エジプトはイスラエル・イギリス・フランスの三国軍に侵攻され、苦戦に陥りました。しかし、国際世論は英仏とイスラエルの侵略行為を非難し、エジプトを支持する声が強く、ナセルに有利に動きました。ソ連も英仏に対してミサイルで報復すると警告、米国はアイゼンハウアー大統領が大統領選挙に直面していたため英仏への援軍を派遣せず、英国に対する経済的圧力をかけて即時停戦を求めました。

英仏とイスラエルは国際的に孤立し、11月上旬、国際連合の停戦勧告を受け入れて、撤退を表明しました。エジプトは戦争では敗れましたが、政治的にはスエズ運河のエジプト国有化という実質的な勝利を収め、ナセルは「アラブの英雄」として人気が高まりました。

しかし、その後もアラブとイスラエルの間の中東戦争は、第三次中東戦争へと展開していくことになります。

【パレスチナ解放機構】

1957年アラファトが中心となって組織したパレスチナ・ゲリラの武装組織、ファタハが動き出しました。ファタハ(Fatah)とは、「パレスチナ解放運動」を意味するアラビア語の語順を逆さにしたものであるとされています。ファタハは後にパレスチナ解放機構(以下、PLO)の中心となっていきます。

1964年5月にエジプトのナセル大統領などのアラブ連盟の支援を受けて、PLO(パレスチナ解放機構)が組織されました。同年5月、東エルサレムで最高機関の国会にあたるパレスチナ民族評議会(PNC)第1回会議を開催し、内閣にあたる執行委員会、軍事部門のパレスチナ解放軍(PLA)、財政部門のパレスチナ民族基金(PNF)を発足させ、「パレスチナ民族憲章」を採択してイスラエルに対する武力闘争とユダヤ国家の撲滅を呼びかけました。

PLOは当初は必ずしもゲリラ闘争やテロを戦術とはしておらず、パレスチナ国家の建設を目指すアラブ人の国際機関という性格が強いものでした。PLOはいくつかの政治団体によって構成されていましたが、武装闘争を志向するアラファト属するファタハの他に、最も急進的なマルクス・レーニン主義を掲げたパレスチナ解放人民戦線(PFLP)などの各派がありました。

パレスチナ解放機構が結成されたことに対してイスラエルは神経を尖らせ、それを支援しているエジプトとシリアに対して警戒を強め、武力による脅威の排除の機会を狙っていました。

【第二次中東戦争後の情勢】

1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したことから始まった第二次中東戦争(スエズ戦争)ではイスラエルは英国などと共に出兵し、戦争では勝利しましたが、国際世論では米ソを始めとして厳しい非難を受けて撤退し、ナセルはアラブ世界を率いる英雄として脚光を浴びることとなりました。イスラエルは建国以来、最初の窮地に立たされることとなりました。情勢打開を狙ったイスラエルは、エジプト及びアラブに対する攻勢の機会を狙っていました。

一方、1950年代からイスラエルの北部に接するシリアは、ヨルダン川の水利用をめぐってイスラエルに対する不満を強めるようになりました。また、1960年代から、パレスチナ難民の中にイスラエルと戦いパレスチナの解放を目指す動きが強まり、1964年5月にパレスチナ解放機構(PLO)が組織され、その中で最も過激な武装闘争を主張するアラファトに率いられたファタハなどが台頭し、反イスラエルゲリラ活動を頻発させるようになりました。

1967年4月にシリアとイスラエルの国境で両軍が衝突の恐れが高まると、ナセルはエジプト軍をシナイ半島に集結させ、5月22日にアカバ湾の入り口のチラン海峡を封鎖しました。

(出典:グーグルマップに一部追記)

チラン海峡封鎖はイスラエルにとって死活問題であるため、態度を硬化させました。ただ当時はベトナム戦争の最中であり、イスラエルを支援する余力の無い米国のジョンソン政権はイスラエルに自重を要請、戦争は回避されるかに見えました。

しかし、1967年6月5日、イスラエル軍はエジプト軍によるアカバ湾のチラン海峡封鎖に対する反撃を口実として、エジプトに一気に侵攻、空軍がエジプト空軍基地を爆撃し、わずか3時間で破壊しました。エジプト空軍の反撃を無力化した上で、イスラエル陸軍はシナイ半島・ガザ地区を制圧し、スエズ運河地帯まで進撃しました。北方ではシリア領ゴラン高原と、ヨルダン領ヨルダン川西岸地域と東エルサレムを占領し、全エルサレムを実行支配しました。

6月10日、イスラエルとエジプトは国際連合の停戦決議を受諾し、停戦に合意しました。戦闘はわずか6日間で、イスラエルの圧倒的な勝利となりました。イスラエル側では「六日間戦争」とも言われています。(アラブ側では6月戦争といわれます)

イスラエル軍の電撃作戦を指揮したのは、隻眼のダヤン将軍でした。戦死者はアラブ側が3万人であったのに対し、イスラエルは670人にとどまり、イスラエルは領土を4倍近くに増やしました。また、首都としてきたエルサレムの旧市街を含む東エルサレムはヨルダンが支配していましたが、イスラエル軍が占領し、これで東西併せた全市を支配しました。

また、この戦争によってパレスチナ難民が100万人以上発生、そのほとんどがヨルダンに避難しました。国連は安保理決議242でイスラエルの撤退を決議しましたが、実行されませんでした。

第三次中東戦争でエルサレムの神殿の丘がイスラエル軍の手に落ちました。神殿の丘は、ハラム・アッシャリーフ(高貴な聖域)といわれ、1187年にサラディンに率いられたイスラム教徒軍が十字軍から奪回した場所でした。以来780年もの間、イスラム教徒の手にあった丘が、イスラエル軍、つまりユダヤ人の手に落ちたことになります。イスラム教徒の落胆と怒りは激しいものがありました。

そして、第四次中東戦争へと続いていくことになります。

続く。


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