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台湾とは中国の一部なのかを歴史的に考えてみよう

中国共産党は台湾を中国の一部であり、一つの中国だと言います。しかし、中国は台湾を中国の一部だと主張するのは、歴史的にみると最近の話です。台湾は中国の一部なのか?を考えてみました。

まず、台湾の歴史を簡単に見てみましょう。台湾の歴史を知ることで、今の台湾の状況が見えてきます。

現在の台湾は、台湾漢民族96.7%、台湾原住民2.3%の民族構成になっています。

以下の簡単な歴史年表をまず見てください。

台湾はいつから歴史に登場するのかというと、随の時代(603年)に書かれた文献に台湾への探検の記録が残されています。

本格的に台湾が注目されるようになるのは、17世紀に入ってからです。ヨーロッパで初めて台湾にたどり着いたのはポルトガル船でした。ポルトガル船に乗っていたオランダ人が美しい緑溢れる台湾を見て、「Ilha Formosa(イーリャ・フォルモーザ=美しい島)」と呼んだと言われています。

歴史上、台湾を初めて領有したのは、オランダの東インド会社です。明の領土だった澎湖諸島を占領した後、1624年に現在の台南市を中心とする台湾南部を占領しました。さらに、オランダに遅れること2年、1626年にはスペインが基隆(ジーロン)を中心とする台湾北部に進出。1642年にはオランダとスペインが戦火を交え、勝利したオランダが台湾全土を勢力下に収めます。

オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることで、プランテーションの経営に乗り出そうとしました。しかし、台湾の東インド会社は1661年から「反清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞も陥落。進出開始から37年で台湾からすべて駆逐されました。

鄭成功の反清復明とは何か。それは明朝滅亡に関わりがあります。1644年に李自成の反乱によって明朝が滅亡し、混乱状態にあった中国に満州族の王朝である清が成立しました。これに対し明朝の皇族・遺臣たちが「反清復明」を掲げて南朝を興し、清朝への反攻を繰り返しました。しかし、1661年に清軍により鎮圧され、大陸での反攻の拠点を失った鄭成功が清への反攻の拠点を台湾に求め、オランダ・東インド会社を駆逐することに成功したのです。この鄭成功の政権が史上初めて漢民族による台湾の統治となりました。

しかし、鄭成功はわずか四ヶ月で熱病に冒され亡くなってしまいます。その後、息子の鄭経に引き継がれますが、1683年に清に降伏しました。

清朝は鄭氏政権を滅ぼしたのは、「反清復明」を掲げて抵抗する勢力を制圧するためであり、当初は台湾を領有することに消極的でした。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾を福建省の統治下に編入しました。(1684年~1885年)。

ただし清朝は、台湾を「化外の地(けがいのち)」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)として放置し続けてきました。そのため、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域に及ぶことはありませんでした。

台湾の開発は福建省や広東省から渡ってきた漢民族の移住者たちによって進められることになります。清は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止していました。そのため、漢民族移住者と現地住民との混血が急速に進み、現在の台湾人が形成されていきました。

オランダ統治時代や鄭氏政権時代の開発は、南部が中心でした。その後、マラリアやデング熱、台風と闘いながら、徐々に北上し、開発を進めていきます。19世紀ころになると、現在の台北市など台湾北部が開発の中心となっていきました。

1871年に日本が関わる事件が起こります。遭難して台湾に到着した宮古島の島民54名が、台湾の原住民によって殺害されるという事件が発生したのです。どちらかに悪意があったわけではなく、言葉が通じないことから誤解が生じての悲劇でした。

日本政府は清朝に厳重に抗議しましたが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、そのために1874年に日本による台湾出兵が行われました。「台湾出兵」「征台の役」と呼ばれるこの派遣は明治政府として初めての海外派兵となりました。遭難事件から台湾出兵までのことを「牡丹社事件」といいます。

この結果、清は日本に賠償金を支払うことになりました。その後、1884年~1885年には清仏戦争が起こります。その際、フランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀ります。

これらの出来事があってから、清朝は、日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになります。1885年福建省から分離し、台湾省を設置し、本格的な統治に乗り出すことになります。

しかし、日清戦争に敗れた結果、締結された「下関条約」に従い、台湾は澎湖諸島と共に日本に割譲されることになります。これに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止となりました。

これ以降、台湾は日本の外地として台湾総督府の統治下に置かれることになりました。そして、日本統治時代に台湾は飛躍的な発展を遂げていきます。これを三期に分けて考えてみます。

まず、初期は1895年から1915年までの20年間です。当初、台湾総督府は、軍事行動を中心とする強硬策で台湾に相対しますが、結果として抵抗運動を引き起こすことになってしまい、日本と台湾の双方に大きな被害が出ました。

1898年、第4代総督となった児玉源太郎は、内務省の後藤新平を民政長官に任じます。後藤はイギリスの植民地政策を模範とする「特別統治主義」を採用し、日本との同化を無理に求めず、台湾の実情にあわせた政策を進めました。

この間に日本は「農業は台湾、工業は日本」と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬莱米(台湾で品種改良された米)の生産を飛躍的に向上させることに成功しました。

また、経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現しています。さらに、近代的な上下水道の整備による衛生環境の改善や、義務教育制度の導入による就学率向上などを果たしました。

1915年、民主と自由の思想による「民族自決」が国際的な潮流となるなか、大規模な抗日武装蜂起「西来庵事件」が起こります。日本の台湾統治政策も変化し、中期を迎えます。

1919年、文官初の台湾総督に就任した田健次郎は、フランスの植民地政策を模範とする「内地延長主義」を採用します。台湾人に日本人と同等の権利を与える同化政策を進めます。

しかし、1937年に「日中戦争」が勃発すると、単に同等の権利を与えるのではなく、日本人そのものにしてしまおうとする「皇民化運動」が盛んになり、台湾統治政策は再び変化し、後半期を迎えます。

国語運動、創氏改姓、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点が推進され、台湾独自の文化は抑圧の対象となりました。

「太平洋戦争」の間、台湾は日本の南方進出の重要戦略拠点として位置づけられました。軍需に対応すべく台湾の工業化が図られ、水力発電所を初めとするインフラ整備のこの時期に積極的に行われました。しかし、戦争末期には米軍の空襲を受けるなど台湾も爆撃などを受け、目標としていた工業生産を達成することなく終戦を迎えることとなりました。

志願兵制であったものの、約21万人の台湾人が戦争に参加し、約3万人が尊い命を落とすことになりました。そして、1945年、日本の敗戦により、50年続いた日本統治時代が終了しました。

終戦後、台湾は蒋介石率いる国民党軍が進駐し、台湾は中華民国の領土に編入されることになりました。しかし、国民党軍の軍紀は乱れており、婦女暴行や強盗事件が頻発。さらに行政を担うために新設された台湾行政公所の要職は「外省人」と呼ばれる新たに台湾にやってきた人々によって占拠され、もともと台湾に住んでいた「本省人」は廃除されました。

これに反発した本省人は、1947年2月28日に蜂起します。「2・28事件」です。蒋介石は徹底的な弾圧にはしり、数万人を処刑。台湾に恐怖政治を敷きました。

1949年、中国本土で起こった「国共内戦」に敗れた台湾に逃れてきたことにより、台湾は国民党による直接統治下に置かれます。兵士による強奪や、官僚による腐敗が蔓延し、本省人は「犬(日本)が去って、豚(国民党)が来た」と嘆いたそうです。

蒋介石は戒厳令を敷き、知識階級や共産党員などを厳しく弾圧するとともに、開発独裁体制を敷きます。数十万人いる国民党軍を養うためにも、共産党が建国した中華人民共和国に対抗するためにも、台湾の開発は喫緊の課題でした。

桃園国際空港、台中港、蘇澳鎮(すおうちん)、中山高速公路、原子力発電所、台湾鉄路北廻線などを「十大建設」として進め、台湾経済の重工業化に急ぎます。中華人民共和国によるたび重なる侵攻の危機をしのぐことに成功しました。

米国とソ連が冷戦状態の中、西側陣営は、台湾を東側陣営に対する防衛線とみなします。台湾には米国から潤沢な援助が行われるようになりました。「ベトナム戦争」の際も、米国は台湾から軍需物資を調達し、台湾経済が潤っていきます。

しかし、米国と中華人民共和国の間に国交が樹立されると、台湾は国連からも追放されることになり、米国や日本と国交を断絶することになりました。

ただ、米国は「台湾関係法」を成立させて台湾の防衛を支え、日本も「国交は結ばないが、民間交流は続ける」という曖昧な形の関係を続けていくことになります。

この間も蒋介石は戒厳令を継続し、台湾ではこれに対する民主化運動が展開していきました。1979年、世界人権デーにあわせておこなわれたデモ活動が警官隊と衝突し、主催者らが投獄される「美麗島事件」が起こります。この事件は台湾の民主化に大きな影響を与えることになりました。この後、民主化運動が盛んになっていきます。

1987年に戒厳令解除に踏み切った蒋経国(総統在職:1978年~1988年)の死後、総統・国民主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の総統民選を実施、そこで総統に選出されました。2000年の総統選では民進党の陳水扁が選出され、台湾史上初の政権交代が実現します。

現在の台湾は、引き続き膨張を続ける中華人民共和国の脅威にさらされながらも、ハイテク産業を中心に発展してきています。

ここで、もう一度歴史年表を見てみましょう。

台湾はいつ中国(大陸の政権の統治下)だったのでしょうか?

台湾はずっと台湾だったのです。17世紀に入るまでは「島」として特に歴史には登場してきません。つまりは、台湾は島として独立した状態でした。その後、スペイン、オランダの進出があり、鄭政権もありました。鄭政権は大陸から追われた政権であり、清とは対立状態ですから、中国とは言えません。清の時代に入りますが、基本的に化外の地、化外の民として、中国としても、中国人としても扱われていません。したがって、中国とは言えません。さらに日本の統治を経て、今の台湾ですから、中国として扱われたことはないのです。

そして、台湾を中国政府が重要だと考えるようになったのは、ごく最近の話であり、歴史をたどると、やはり台湾は中国とは言えないと思えます。

なぜ、台湾の歴史を振り返ったかというと、台湾は中国の一部なのか?を考えたかったからです。

歴史を振り返ると、元々は中国だったかどうかが見えてくるからです。

こうして振り返ると台湾は元々中国だったと言うには無理があることがわかります。

また、全国民が中華人民共和国の一部であることを納得もしていません。私は明らかに別の国であり、一時中国の王朝の支配があった時期もあるだけに思えます。

一つの中国かどうかは、見解の相違、つまり政治的な問題であり、歴史的事実ではないということです。

時の政権は都合よく話をすり替えますが、歴史を振り返ると見えてくるものがあると言えないでしょうか。

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