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中国共産党がもし倒れるとしたら、それは民衆の反乱。それは歴史が証明している。

中国ではゼロコロナ政策が継続されており、不動産バブルもはじけています。習近平国家主席は全権を掌握し、異例の3期目に突入しました。なぜ、これほどに中央集権的に権力を集めていくのか。

それは、中国の歴史が、王朝の成立と分裂の歴史であり、分裂はほぼ決まって、農民の蜂起がきっかけだからです。そのため、情報を統制し、不都合なことは隠し、農民、今でいう市民が不満を持つことを許さないようにしていると思われます。

そこで、中国王朝の歴史を振り返って、検証してみましょう。

【秦の成立と滅亡】

秦が行った制度改革は革命的であり、天地がひっくり返ったような出来事でした。しかし、急激な変化は、人々の反発を買い、秦王朝は僅か19年で滅んだのでした。

その滅びのきっかけは「陳勝・呉広の乱」でした。これは農民が起こした叛乱です。紀元前209年、陳勝と呉広は辺境守備のため強制的に徴兵された農民900名と共に、魚陽(現在の北京市北部の密雲県)へと向かっていました。

しかし、その道中で大雨に遭って道が水没し、期日までに魚陽へ着くことが不可能になってしまいました。秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首です。期日までに着けない、そう判断した時点で陳勝と呉広は叛乱を決意したのです。

陳勝・呉広の反秦軍は、秦の圧政に不満を持つ者達を巻き込んでその規模をドンドン拡大していきました。その後、秦は滅亡。有名な項羽と劉邦が台頭し、最後に劉邦が勝利し、漢王朝を成立させました。

最初の統一王朝であった秦を滅ぼしたきっかけは、農民の反乱だったのです。

【漢の誕生と滅亡】

次に誕生した漢王朝は、評判の悪かった郡県制の一部を封建制に戻し、いわゆる郡国制を採用しますが、漢王朝の勢力の伸張と共に、郡県制が再び強化されていきました。

郡県制というのは、中国全土を郡・県に分けて、皇帝が任命する官吏(いわゆる役人)を派遣する制度です。それらの官吏が皇帝の命令通りに動き、人々が官吏の指示に従うことによって、結果的に人々はみな皇帝の命令に従って生活することになります。

封建制が採用されていた古代王朝の周の各地では、諸侯が、ある程度は自由に自分の領地を治めていました。諸侯というのは、周王から封土(領地)を与えられ、貢納や軍役の義務を負う代わりに、その土地の支配を任された周王の一族・功臣や各地の土着の首長です。血縁関係に基づく制度であり、諸侯の地位は、代々その子孫らが受け継いでいきました。しかし、時代と共に血縁関係が薄れ、周の勢力も衰えると、各地の諸侯はやがて王を名乗るようになり封建制は崩れていきました。

その各地で勢力を伸ばしていた王を抑え、中国を統一した秦が郡県制を全国に実施したのです。しかし、そのあまりに急激な中央集権化に対し、秦に滅ぼされた国々は、秦に対して不満を抱くようになりました。それがやがて、始皇帝の死去をきっかけにした陳勝・呉広の乱につながっていったのです。

そのため、こうした経験を踏まえた漢王朝では、当初は「郡国制」が採用されました。都周辺の直轄地にのみ郡県制を敷き、地方には一族・功臣を諸侯として封じる封建制を敷いたのです。

しかし、漢の皇帝たちは、地方の支配者(諸侯)の勢力を削ることにつとめ、第6代皇帝の景帝の時には、諸侯の領地を削減しました。これに反発した呉や楚などの諸侯たちが起こした反乱を呉楚七国の乱といいます。

皇帝は呉楚七国の乱を、短期間で鎮圧することに成功しました。この結果、諸侯の権力は弱められ、皇帝はほぼ中国全土に自分が任命した官吏(役人)を送り、皇帝の命令通りの統治を行わせることが可能になりました。こうして、実質的には、郡県制による中央集権体制に移行していったのです。

こうして事実上確立された郡県制は、基本的な形としては、清朝の時代まで維持されることになります。

話を戻して、漢王朝のこと。漢王朝が成立した時代の思想の主流は老荘思想でした。漢王朝の栄光の時代は、建国60年後の文帝と景帝の治世で「文・景の治」と称されます。その後の武帝の世には、朝鮮に大軍を派遣し、難儀しつつも直轄領としています。また、司馬遷が父の遺言通り大著「史記」を著し、後世に多大な影響を与えたのもこの時期です。

漢を儒教体制の国にしたのは、文帝です。儒教は理想主義とされており、多くの儒者が登用され、理想的な政治が行われたとされています。一代限りで外戚の王莽は漢の帝位を乗っ取って「新」を建てました。しかし、王莽は聖天子が天下を統治した周に復帰することを目指し、社会を大混乱に陥れました。

まもなく、新は滅び、漢王朝が復活しますが、首都を長安から洛陽に移し、その後を後漢と呼ぶようになりました。後漢は、皇帝の権限を元に戻すために、官僚機構が複雑になっていた前漢とは異なり、小さい政府を目指しました。仏教が伝来したのは、明帝の時代です。朝廷が宦官に牛耳られるようになると、宦官に高位の役人を推薦してもらう賄賂が必要になり、拝金主義が蔓延しました。官僚の選考の基準がお金になり、官位がお金で売買されるようになりました。

このような腐敗は民衆の不満につながり、搾取された農民は蜂起し、黄巾の乱が勃発しました。

生活に苦しむ農民を扇動したのは、張角の唱えた太平道という新興宗教でした。張角は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり、天下大吉」をスローガンにして甲子の年(西暦184年)の3月5日に反乱を起こしたのです。

蒼天とは後漢王朝を意味し、黄天は「太平道」の信奉する神であったのです。彼らは「黄天」を象徴する黄色の頭巾を巻いて印としたので、黄巾の乱といいます。

河南省を中心とした反乱は河北省に及びました。後漢政府は当時「党錮の禁」で捕らえられていた党人(宦官と対立していた官僚たち)を許し、党人と農民反乱が結束することを防いだ上で、豪族の協力を得て12月までに黄巾の乱を鎮定しました。しかし、その後も散発的な反乱は続き、中央政府はその威信を失っていきました。各地の豪族は自立をはじめ、動乱の時代に入る契機となりました。その後、三国志で有名な三国時代へと入っていきました。

漢王朝の滅亡もきっかけは民衆、農民の反乱でした。

【隋の誕生と滅亡】

589年、隋は南朝の陳を滅ぼして中国を再統一しました。秦による天下統一が法家商鞅の政治改革の成果の上に成っているように、隋による統一は、北朝の政治的業績の上に立っていると言えます。

隋の初代皇帝の楊堅は帝国の基礎を固めることに成功したといわれています。中でも4つの政策はいずれも後世に継承された重要な政策でした。

一つ目は均田制。元は北魏で行われていた土地制度で、国家が農民に土地を与え徴税しました。貴族の大土地所有を抑制し、農民の年齢や性別に応じて土地の分配を行い、税収の増大を図ることが狙いでした。

二つ目は租調庸制。均田制に対応した税制度で、生産物・布・労働力などを税として定め、財政の安定化を図りました。

三つ目は府兵制。成人男性の中で、強健な者を選び、衛士(都の防衛にあたる兵士)や防人(辺境地域の防衛にあたる兵士)として徴兵する兵制。

四つ目は科挙。学科試験による官吏登用法。九品中正を廃止し、科挙を始めることで、貴族の高級官職独占を防止し、ひろく人材を集めて中央集権化を図りました。尚、隋の時代は選挙と呼ばれ、のちに科挙と呼ばれるようになりました。

しかし、楊堅の時代には安定した統治も、二代皇帝の煬帝は中国史を代表する暴君ともいわれ、滅亡へと繋がっていきます。

煬帝は数百万人の民衆を動員して、大運河を完成させたとされています。これによって、江南と華北の交通が格段に良くなりました。特に江南は穀物地域として開発が進んでいたため、江南でとれた穀物をこの大運河を通して人口の多い華北の洛陽・長安に輸送することが可能になったのです。

その裏で、建設のための労働力として多くの民衆を動員したため民衆は疲弊し、不満が高まりました。

さらに、周辺国に積極的に遠征を行い、その一部は成功しました。しかし、三度に渡る高句麗遠征に失敗したことをきっかけに各地で反乱が起き始めました。隋もまた民衆の反乱が原因で滅んでいきました。

【唐の誕生と滅亡】

隋も唐も漢民族ではなく、鮮卑系の皇族でしたが、人種民族を問わず、高度な文明により統一されるべきだという考え方から唐は世界帝国への道を歩き始めました。この発想は元、明、清に引き継がれることになります。つまり、中国は華夷統合を経て世界帝国へと発展していきました。

玄宗皇帝の治世40余年は「開元・天宝」と呼ばれ、中国史上の全盛期といわれている。この時の人口は四千九百万人で、前漢の人口六千万人に比べると少ないが、過剰人口を抱えていなかった分、安定していたともいえます。

唐時代には科挙制が定着し、律令国家を形成し、官僚至上の社会になりました。日本も遣唐使を通じて、自律性を失わないように配慮しつつ懸命に律令国家建設に励みました。

玄宗皇帝が楊貴妃に惚れ込むようになると、楊貴妃の親戚を登用し、政治が乱れ”安史の乱”が起こります。唐は自ら乱を制圧できず、ウイグルの力を借りてやっと秩序を回復しました。しかし、その後は各地の辺境の防備に行政権も与えられた節度使が台頭し、宮廷での宦官と官僚の争いが続くようになりました。

唐はそれでも、南方の穀倉地帯を抑えていたので、その支配をなおも1世紀ほど続けることができました。しかし、その間、律令制国家を支える土地公有制の原則である均田制は、次第にくずれて土地私有である荘園が増加し、そのために租調庸制と府兵制を維持することが困難になってきました。

そのような社会の変動に対応して、780年に両税法が施行されて税制の基本が転換されました。また、府兵制も行われなくなり、募兵制に移行しました。761年には塩専売制を全国で実施し、税収の増加を図りました。

しかし、財政はさらに困窮したために塩専売制を強化しましたが、9世紀に入ると返って塩密売人の活動は活発となり、それへの取り締まりを強化した結果、875年に黄巣の乱が起こりました。この反乱の鎮圧に手間取るうちに、南方の穀倉地帯が荒廃したため、唐はその経済的基盤を失い、節度使として勢力を伸ばした朱全忠によって、907年に滅ぼされました。

黄巣が長安に入城した時、黄巣軍の幹部は不安そうな市民を前に「黄王の兵を起こすは、もとより百姓の為なり」と言ったとされています。黄巣の乱も元は相次いで起こった農民の反乱でした。

唐もまた、農民の反乱が契機となり、滅亡していったのです。

【宋の誕生と滅亡】

宋は中国の南半分しか治めることができませんでしたが、庶民が幸福であったかどうかは別です。宋の市民は長安の市民より裕福で自由でした。長安は日没後には城門のみならず「坊」と呼ばれるブロックの門まで閉じられましたが、宋の開封の盛り場は不夜城だったのです。貴族が独占していたのものに庶民でも手が届くようになりました。宋代は官吏の数が最も多く、官吏の給料が最も高い時代でもありました。印刷術、羅針盤、火薬の三大発明も宋代のものであり、焼き物は宋代に極点に達し、宗磁と呼ばれる陶器に匹敵するものは出現していません。

中国の奇書「三国志演義」「西遊記」「水滸伝」の原型は宋代の盛り場で生まれたものです。

宋は趙匡胤を祖として誕生しましたが、1127年靖康の変までを北宋、それ以降を南宋といいます。

北宋は腐敗政治が元で農民の反乱が起こっています。それを契機に靖康の乱へと繋がっています。その後、南宋は元に滅ぼされました。

【元の誕生と滅亡】

モンゴル族は文字通り人類史上空前絶後の大帝国を築きました。征服王朝の北魏、遼、金、元、清の中で、最も漢化されなかった王朝です。それは、彼らが中国を征服する前に、西方の高度な文明に接していたからです。中国から見ると、北方民族は新しい血を輸入し、それによって中国の活力を蘇らせてくれたのです。

元の文化は重商主義的で搾取的でありました。元は文治主義、進士至上主義(科挙に合格した人を第一とする)の宋の伝統をひっくり返したため、四書五経や修辞の勉強に縛り付けらえていた知識人は、他の分野で才能を発揮し、戯曲が進展しました。また、偏見無しに科学技術を取り入れ、優れた学者は招聘されたので、科学が発達したのも、元の時代です。

元末期は激しい権力闘争が繰り広げられ、民衆生活は苦しくなっていきました。社会不安が強まる中、1351年に白蓮教徒という宗教秘密結社が蜂起し、それが紅巾の乱という全国的な反乱につながりました。紅巾の乱の中から生まれた朱元璋の勢力は、紅巾の乱を鎮定した後、1368年南京で明を建国し、同年、大軍によって大都を攻撃、元の皇帝順帝(トゴンテムール)は大都を放棄し北上しましたが、上都(夏の都)も陥落し、元は滅亡しました。

この白蓮教徒の乱も直接的な原因は、元朝政府が黄河で大氾濫が起こったため農民に無償で修復を命じたことに反発した河南省などの農民が、白蓮教のリーダー韓山童を押し立てて反乱を起こしたことに始まります。

元においても、農民の不満がきっかけとなっています。

【明の誕生と滅亡】

仏教の一派である白蓮教の反乱から登場し、明王朝を創始したのが朱元璋(洪武帝)です。朱元璋のように貧農から皇帝になった者は中国史上にはいません。地獄を見た人間が冷酷になりやすいように、洪武帝は側近の大粛清を強行しています。前朝の正史は長い冷却期間をおいてから書くべきとされていますが、洪武帝は元が滅びた翌年に「元史」を編んでいます。改竄が多く、出来が悪いため、五百数十年後に「新元史」が作られています。

明代は農本主義的で、商人が蔑視されました。また、宋代にみられたような知識人や文化人の気質が極めて希薄でした。明朝は漢民族の宋朝よりも、異民族の元の特徴をより多く引き継いでいました。

永楽帝は元王朝と同じく、世界帝国を志向し、宦官の鄭和に命じて、インド、アラビア、アフリカまで大艦隊を派遣しています。

16世紀末から17世紀初めの万暦帝時代は、表面は明の繁栄は続いていましたが、内には東林派と非東林派の党争、抗租運動などが起こり、外に日本の豊臣秀吉の朝鮮侵略があって、動揺は隠せなくなってきました。

17世紀に入ると、東北方面の女真族がにわかに勢力を増し、1616年にはヌルハチが後金を建国して明を脅かし、さらに次のホンタイジは1636年、国号を清と改めました。

明は山海関の守りを固めて防戦し、宣教師から学んだ大砲の利用などもあって防戦していましたが、その戦費調達のための増税は農民を苦しめ、1627年の大飢饉をきっかけに各地で反乱が勃発しました。その中の最大勢力が李自成の乱であり、李自成は1644年首都の北京を包囲、明朝の最後の皇帝崇偵帝は自殺して滅亡しました。

明の最後も増税による農民の反乱が大きなきっかけとなっています。

【清の誕生と滅亡】

女真族は文殊菩薩の信者となり、自分たちを文殊と似た発音の「満州」と呼んでいました。康熙帝と乾隆帝は名君として誉れ高いとされています。清朝は暗君がいない王朝でした。康熙帝は朱子学に傾倒し、漢文化にどっぷりとつかっていました。末期の皇帝は満州語を話せなくなっていました。

清朝末期には農民の貧困化から社会不安が高まり、白蓮教徒の乱によって、衰退が決定的となりました。その後、1840年のアヘン戦争を契機に西洋列強の干渉が始まり、清朝の権益は削がれていきます。

さらに、キリスト教結社・拝上帝会が起こした「太平天国の乱」により、清の軍隊が全く使い物にならないことが分かり、この時点で清は完全に統治機能を失ってしまいました。

その後、辛亥革命が起き、清王朝は12代297年で滅んだのでした。紀元前221年に秦の始皇帝が即位してから2000年以上続いた中国の皇帝専制政治が終わりとなりました。

中国の歴史は、統一と分裂の繰り返しですが、必ず、農民や民衆の不満が高まると、大規模な反乱が起き、その反乱が契機となり、王朝が倒れています。

習近平国家主席は、その権力をますます強大にしようとしていますが、不動産バブルの崩壊、ゼロコロナ政策からの経済の失速。決して、民衆に不満がないとはいえません。中国共産党がこのまま続くのかどうか。それは、民衆の不満がどうなるかにかかってきそうです。

未来創造パートナー 宮野宏樹

自分が関心があることを多くの人にもシェアすることで、より広く世の中を動きを知っていただきたいと思い、執筆しております。もし、よろしければ、サポートお願いします!サポートしていただいたものは、より記事の質を上げるために使わせていただきますm(__)m